モノガタリ(1)前編
モノガタリこそ、人になくてはならぬモノ―—。
*
「――猿楽師(*)の指名?」
愁水がそう問い返すと、
「おうよ。今をときめく〈淵月大夫〉の勧進能だ。その舞い姿を、ぜひ化物絵師である愁水殿に描いてもらいたい――と、大夫直々のご依頼でな」
と、わざわざ幽世庵までやってきた京助が、勢い込んで言った。
江戸で芝居といえば歌舞伎、能などは武士の特権的な嗜みだが、勧進能だけは庶民にも門扉が開かれている。もとは社寺の資金調達――勧進を目的として始まったものだが、近年は猿楽師の興行色が強い。
幕府や大名の寄進により巨大な仮設舞台が作られ、周囲には市が立ち、日に数千人が訪れるという――一大興行だ。
「化物絵師をご指名とは、酔狂だな」
「そりゃお前、その舞い姿といったら化物じみてるからな。俺も観たが、その名の通り――底なしの深淵に、妖しく輝く月が映るよう。覗きこんだら最後、二度と戻れない……ってな。ありゃ、魔性だぜ」
愁水の気のない素振りに焦った様子で、京助が熱弁を振るう。
絵師としてはそそられる話だが、生憎、いまは余裕がなかった。
記憶を取り戻したものの、朧の〈所業〉に対して、全てが後手に回っている。その足取りを掴もうと奔走する間に、突如、諸国から旅人伝いに鵺の怪談が押し寄せて、瞬く間に江戸市中に広がったのだ。
――それも、恐怖を伴って。
多発する怪異騒動に、鵺を示唆する証拠や目撃譚が湧いてきて、話に尾鰭をつける。騒動を落着させようにも手が足りず、鵺の怪異譚は恨みに恐怖、果ては「嫌う相手が鵺に襲われればいい」――といった妬みも孕み、負の感情を浴び続けた嗣巳は、近頃では昼間から眠るようになった。
怪異は多くの人間に〈物語られる〉ことによって、力を増す。
けれどその語りが負の感情を伴うほど、語られる化物の魂は穢れ、魔を祓う類いのものへの耐性を著しく落とす。
器としての身体は強化し、蛟ごと祓うため魂は弱体化させる。
すべて、朧の目論見通りだった。
――厄介な相手だ。
心中で、何度目になるか知れない舌打ちをする。
鵺――嗣巳を犠牲にするやり方は容認できないが、なまじ「蛟の呪いを解く」という目的が一致しているだけに、朧を止めるには別の解呪法を提示しなければならない。
しかし、解呪法を探るには当地――鵺代に赴くほかなく、四六時中睡魔に襲われている嗣巳を連れて行く、あるいは置いて行くというのも不可能で、正直、八方塞がりだった。
朧がこうも手強いのは、やはり――。
「なあ、愁水。若くして突然一座を率いる大夫になった淵月の、〈一世一代能〉なんだぜ?」
と、心ここにあらずといった愁水に、京助が辛抱強く訴えかけてきた。
「……淵月の名は、俺も聞いた。上様ご寵愛の一座じゃねえのに、よく出来たな」
京助には悪いが、愁水は記憶を手繰り、適当に生返事をする。
一世一代能―—幕府の式楽に定められた、大和猿楽四座の能大夫が一生に一度だけ許されるという、盛大な晴れ舞台。しかし「四座」とはいえ、将軍の寵愛といった例外を除けば、基本的には一座が独占して行うものだったはずだ。
「それがな、最近お上が御目をかけていなさる、土御門家の当主が薦めたとかで――」
「土御門家だと?」
鋭く問い返した愁水に、京助が慌てて頷いた。
代々朝廷に仕え、幕府に再興を認められた陰陽道の宗家——。流れ者であったはずの朧がどのような手段で当主の座に就いたかは、想像に難くない。
ともかく、朧の厄介さはその権力と、手駒の多さにもある。
――今度は、何を企んでいやがる。
「まあ聞けよ、愁水。例外ってんで注目されちゃあいるが、実力も申し分ねえんだ。今日で九日目の興行だけど、もう日延べが認められたって話だ。そんなわけで、二十日間もやるんだぜ? せっかく招待されてんだ、一回くれえは……」
「――行く」
「本当かっ? よかった、じつはお滝ちゃんも調子悪くってな。お前も難しい顔してるし、みんなで息抜きに行こうぜ」
「姐さんが……?」
「いや、身体が悪いって訳じゃねえんだ。そいつはお滝ちゃんから直接聞いてくれ。……あと、言っておかなくちゃなんねえことがあってな」
と、京助が気まずそうに、社務所の方角へと目をやった。
「その、目玉の曲目ってのがな……」
「――『鵺』か」
一日分の番組(*)を記した一枚刷に目を通した嗣巳が、無頓着に言った。
一日に上演される曲目は、七曲。毎日曲目は変わるが、最初の『翁』と最後の『鵺』だけは変わらず、シテ(*)の淵月大夫演じる鵺が、最大の目玉だという。
「悪いな、嗣巳。お前さんには面白くない曲目だろ?」
京助が申し訳なさそうに、嗣巳の顔色を伺っている。
歌舞伎の『鵺退治』は題目通り、鵺を退治した武将がその武勇を豪快な立ち回りで演じるが、能の『鵺』はといえば、帝に害をなした罪で四肢を切り刻まれ、うつほ舟に閉じ込められて朽ちた鵺が、亡霊となったのちも漂流を続ける敗者の悲哀を、その口から語るのだ。
亡霊が救いを求めて、生者にその生き様を語る。
能では、お決まりの型ではあるが――。
「お気になさらず。こんなことは、今さらですよ」
当の嗣巳は平然としているが、ついて来たのは意外だった。
「何で来たんだよ。うちで寝てりゃあ良かっただろ」
愁水がそう耳打ちすると、嗣巳に睨まれた。
「病人扱いするな。――お前は知らんだろうが、観衆の熱狂で桟敷が倒壊したこともある。あの時は百人ほど犠牲になったな」
「なんだ、俺が心配でついて来たのか? 案外、心配性だよな」
冷笑が返ってくるかと思いきや、嗣巳は何も言わなかった。
「……黙るなよ、怖いだろうが」
「心配させるほうが悪い、と思え」
嗣巳の口調は傲慢だが、この一件に関しては愁水のほうが分が悪く、黙るしかない。
音曲の稽古をしてから来る、という滝と京を橋のたもとで待つあいだ、愁水は嗣巳を横目で観察した。
愁水が記憶を取り戻し、〈誤解〉とやらが解けたあとも、嗣巳にさして大きな変化は見られない。強いて言うならば、言動が柔らかくなったような気がしないでもないが。
――いや、変わったのは俺のほうか。
失っていた記憶がなだれ込めば、変わらずにはいられない。
〈嗣巳〉といえば狸に似た小さな獣姿の印象が強いこともあり、妙に感慨深いものがあった。
いつか言葉を交わしてみたいと思っていた化物が、傍らで己を見守り続けている。
妹の身体に封じられたとはいえ、自由になる機会はいくらでもあっただろうに――。
「――お待ちどうさま。本所七不思議の舞台というのも、粋なものね」
不意に声がかかり、思考が霧散する。
京の手を引いた滝が、雨月と共にやって来た。
夏らしくさっぱりとした弁慶格子の着物に、桔梗と流水の帯、袖裏の見返しに青、裏襟に赤の別布と、その配色が洒落ている。
「姐さんこそ、粋な色使いだ。その着物、よく似合ってる」
「裁縫したのよ。愁水先生にそう言って欲しくって」
愁水が感心して言えば、滝は機嫌よく茶目っ気を覗かせて応じた。
「その様子じゃ、気落ちしてるって訳じゃねえみてえだな」
揃って本所まで歩き出したところで、そう水を向けた。見たところ、暑気あたりという風でもない。
「不調なのは、戯作のほう。季節柄、巷じゃ百物語怪談会が流行っているけれど……最近のは、凄惨な話が多いでしょう。あたしが語りたいものは、そうじゃない」
求められているものをわかっていて、それでも書きたくないとなれば、沈黙するしかないが――。
「凄惨なもんばっかり読んでりゃ、姐さんの話が恋しくなってくるだろ。それまで、姐さん自身のために書いちゃどうだ? 書きてえもんが定まっているのは、姐さんの強みだと思うぜ」
「……嬉しいこと言ってくれるじゃない。でもね、あたしはやっぱり、誰かのために書いたほうが良いものを書ける気がするから……。しばらくは、あたしの戯作を良いと言ってくれる、愁さんのために書こうかしら」
意表を突かれ、愁水は思わず破顔していた。
「そりゃ、楽しみだな。――っと、危ねえ」
本所はすでに、出店の茶屋や屋台を目当てにした人集りでひしめき合っていた。
小柄な滝はすぐ傍でよろめき、危なっかしい。嗣巳の危惧も、笑い事ではないようだ。
「辛抱しろよ、姐さん」
一言断りを入れ、滝の肩を抱き寄せる。滝は小さく頷き、身を預けてきた。
愁水の隣が一番安全だと、言外に示すような仕草で――。
肩を抱く手に力を込めそうになったのを、愁水は寸前で自戒した。
滝には、記憶が戻ったとしか告げていない。呪いのことなどには触れずに、お家騒動を匂わせるだけに留めてある。
聡明な滝はそれを聞いて、何も問いかけてこなかった。
愁水が告げた言葉だけを受け止めて、〈理解者〉に徹してくれたことが、どれ程有難かったか。
人集りを抜けると、愁水は滝から手を離した。察したように、滝も身を離す。
「おーい。愁水、お滝ちゃん」
後方に引き離された京助が、市で弁当を買おうと、こちらに呼びかけてくる。
滝は愁水に微笑みかけると、何事もなかったように、京助の呼び声に応じて振り返った。
「――俺たちの見物席は、一番前の畳席だ」
弁当を買って木戸を潜ると、京助が周りのざわめきにかき消されないよう、声を張り上げて言った。
舞堂に面した前列の端で、橋懸りがよく見渡せる。
舞堂は五角形の地所に南向きに立ち、それを囲む二階建ての桟敷席は、上階が大名衆、下階が旗本衆。舞台後方と西側奥に楽屋が設けられ、全体を覆うように油障子と葭簀(*)の大屋根が掛かっていた。
刻限が迫り、見物客がまだかまだかと楽屋を見遣る。
幕が上がると、その静かなざわめきも、完全に消え去った。
橋懸りから、先頭のシテ――淵月が、感情を削ぎ落とし、千里先を見通す眼差しで、舞堂へと進む。
陶器のように白い肌、精巧な人形のように整った顔立ち――。
その瞳に、刹那の間、感情が見えた。
真っ直ぐに、愁水の隣に居た嗣巳を見据えている。
――執着に似た、昏い光。
嗣巳が動揺し、掠れた声を漏らした。
「あの、《《女》》は――」
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*猿楽師:能楽師のこと。
*番組:上演の順序などを記載したもの。
*シテ:舞の主役。大体は面をつけている。
*葭簀:日よけ、目隠し具。




