序幕――贄
――夜半の雨音に、誰かの〈泣き声〉を聞き取るようになったのは、何時からだったか。
それが人ではなく化物の鳴き声だと知ったあとも、藤波晴吉はその声を聴くたび、胸苦しくてたまらなかった。
晴吉が齢二十を過ぎた頃、主君に城ごと見捨てられた長老が――晴吉の父が、謎めいた儀式に手を出し、《《道を外した》》。
民を想う心か、長老としての矜持か。
どちらがより重かったのかは察しかねるが、以来、父は二百八十年ものあいだ、化物に贄を捧げ、それと引き換えに多くの命を〈呪い〉によって生かしてきた。
天罰は未だ、訪れていない。
連綿と引き継がれた呪いは、人の手でこそ、正さなければならないのだろう。そう気付きながらも、晴吉もまた呪われた身を持て余しながら、今日まで生き永らえている。
〈これ〉は、その報いだろうか――。
「鵺代? そんな土地の名、聞いたこともないねえ。あんた、あの辺は何もない荒地だよ」
晴吉は道中立ち寄った近隣の旅籠で、耳を疑った。
鵺代の近隣で、逃げ出してきた郷里のことを尋ねてみれば、誰に聞いても「知らない」と口を揃えて言うのだ。
極めつけは、旅人に見せられた道中図から、郷里の《《地名そのものが消えていた》》ことだった。
「――宿帳を、見せてもらえませんか?」
旅籠の主人にそう頼み込み、晴吉は客の出身地に目を走らせた。鵺代の商人は都へ行く際、必ずこの旅籠に宿を取る。
案の定、出身地の文字が幾つか、滲んで《《消えて》》いた。宿の主人に指摘しても、首を傾げるばかりで話にならなかった。
その滲んだ文字が――鵺代からの客が途絶えたのが、一月前。
そう突き止めた晴吉は、総毛立った。
身籠った妻が苦痛を訴えて床に伏したのが、ちょうどその頃だ。未だ起き上がれずにいる妻に、町医者や蘭方医は不審げにしつつも、安静にして滋養のあるものを、と通り一遍な見立てを述べるばかりだった。
――鵺代の地で、何か起きたのではないか。
晴吉は懇意の者に妻を預けて、郷里を目指した。
その道中、脳裏には父や城主と密談を重ねる、朧という名の陰陽師の姿がちらついていた。
あるいは、化物――蛟の毒に耐えきれず、周囲の長寿と引き換えに短命となった双子の贄の顔が、際限なく浮かんだ。
――誰かを犠牲にするやり方は、長続きするだろうか。
――いつか、全てが〈在るべき姿〉へと還るのではないだろうか。
そう密かに反発しながら、晴吉は父を止められなかった。
大義もそれを貫く覚悟も、持ち合わせていなかったからだ。
鵺代――贄代の地から逃げ出した者の身には、即座に呪いが発現する。
不老不死か、短命か。
幸いと言っていいものか、晴吉は死ななかった。発現したのは、不死のほうであったのだ。
既に二百年の時を生きた身であるから、好いた女と定めに抗えるのであれば、どちらでも構わなかった。
しかし、これから生まれてくる我が子にも呪いが振りかかるとなれば、話は異なる。
我が子を救うために、晴吉は初めて〈因習〉に抗う気になった。我ながら現金なものだと思うが、義心(*)ではなく、己の心からの〈執着〉であるからこそ、今ならば父にも立ち向かえる気がしたのだ。
だが、事はそう単純ではなかった。
久方ぶりに訪れた郷里は、土砂に埋もれていた。
「父上……」
瓦礫の山に近づこうとすると、晴吉の身体が弾かれた。
――陰陽師の結界か。
思案していると、遠目に人影が見えた。瓦礫を撤去しているようで、幾人もがその場を往復し、晴吉の方にも近づいてきた。
晴吉は声を張り上げたが、こちらに顔を向ける者はいなかった。
――声が、届かない。
晴吉は数日その場に通い、戦慄した。
瓦礫が少しも片付いていない。取り憑かれたように日暮れまで作業していたのは、晴吉がこの目で確認していたというのに。
同じ行動を繰り返す民と、何も変わらず、終わらぬ状況。
――中で、何が起こっている?
見て見ぬふりは、もう出来ない。
だが、一人ではとても落着できそうになかった。朧の張った結界であるならば、簡単な術しか扱えない晴吉では、破ることは到底かなわない。
――また指を咥えて、見ていることしかできないのか。
膝をついた晴吉は、地面を殴りつけようと、拳を振り上げ――不意に、〈若君〉の精悍な横顔を思い出した。
幼少期より数多の刺客を退け、腐ることなく前を向き続けた若君――剣豪として名を馳せた先代藩主によく似た面立ちの、永嶺愁水の横顔を。
――あの若君なら、きっとご存命だろう。どうにか接触して、助力を乞わねば。
――結界を破る力はないが、綻びを探ることならば、俺にも出来るはず。
晴吉は踵を返し、長い探索の日々に身を投じた。
――――
*義心:正義感。




