モノガタリ(3)前編
「――どうぞお上がりください、愁水殿。こちらが稽古場です」
下から見上げるのでは描きにくいだろうと、淵月が書院北庭の能舞台上に愁水を招く。
愁水は自分と同じ年頃の男の、能面のように穏やかな微笑を観察した。
さいぜんの嗣巳の拒絶など意に介していないようで、愁水を敵視する様子もない。
余裕の表れとも取れるが、あるいは――。
「淵月さん。あんた、怪我してねえだろうな? 興行中の猿楽師が足でも捻っちまったら、大事だろ」
愁水は絵筆を取り出し、その場に胡座をかいて言った。
「この通り、ご心配なく。――さあ、私の〈鵺〉を妖しく描いて下さりませ」
妖艶に微笑んだかと思えば、後シテ――後半の赤髪に赤面、金襴袴の装いとなった途端、淵月という人間は掻き消えて、まるで意志というものが感じられなくなった。
目に視えぬものに、舞わされているような。
――狂っている。
純粋な賞賛として、愁水はそう思った。
実際、かつては演じること舞うことを、〈狂う〉と言ったのだ。
物狂いの〈モノ〉は、モノノケの〈モノ〉。
〈モノ〉は、霊魂を指す。
であれば、モノガタリとは、魂そのものの記録ではないか――。
筆を走らせながら、そんなことを思う。
「改めて思うが、見事なもんだな。化物を見慣れている俺でも、凄みを――〈花〉を感じる」
「猿楽師にとって、最大の賛辞ですね。どうです、私を独占して描く代わりに、鵺を譲っていただくというのは?」
「本物の鵺には、ちっとばかし及ばねえな。――あんたが鵺に執着するのは、本当にあんた自身の意志なのか?」
愁水が反対に問いかけると、ここで初めて、能面のようだった表情が動いた。
困惑と怖れ――その下に、抑えきれない好奇心を覗かせている。
「もちろん……私自身の望みですよ。鵺を――演じる対象をもっと深く知りたいと思うのは、当然のことでしょう」
「だが、同時に怖れてもいる。〈夢の女〉に同化しすぎちまえば、己を喪うと分かってるんじゃねえか?」
淵月が、言葉を詰まらせる。毎夜同じ夢を視て、女の感情に引きずられ、己が塗り潰されてゆくのを感じるのは怖ろしいことだろう。
だが、猿楽師としての探究心が、歯止めを失わせてもいる。
「――淵月さん。能ってのは、〈中間〉の存在だよな? 自然崇拝に呪術の名残り、外つ国の信仰と技術が入り混じって……本質なんてもんは、存在しねえように思える」
「ええ……そうですね」
「全ての芸能に言えることだろうが、あんたは猿楽師だからこそ、特別強く、前世の記憶に惹き込まれちまったんだろうな。――あんたがそれを望むなら仕方ねえが、舞台の最終日、朧という術師は確実に、あんたのその執着を利用するはずだ」
素描を終えた愁水は立ち上がり、真正面から淵月を見据えた。
「最終日は嗣巳を連れて、もう一度、あんたの舞を見せてもらう。淵月大夫は《《何のために》》物語るのか、答えを見せてくれ」
見送りはいらない、と言い残し、愁水はその場を後にした。
*
――何故、物語るのか。
愁水の問いかけを幾度も反芻し、淵月は最終日の最後の曲目を前に、未だ迷い続けていた。
「淵月、見物客の反応をよく見ておきなさい」
と、楽屋で俯いていた淵月に、叔父が声をかけてきた。
「初心を忘れるな。どんな相手にも〈《《面白い》》〉と思わせてこそ、だぞ」
「……はい、叔父上」
普段相手にしている武家とは違い、市井の見物客の反応は素直だ。
たったいま終えた曲目『百万』の反響を見ようと、淵月は楽屋からそっと顔を覗かせた。
静かに涙を流している女の姿が、淵月の目を惹いた。
『百万』は、我が子と生き別れになった母の悲哀を描いている。
淵月の演じた女に、ままならない思いを重ねているのだろうか。
――私が、鵺にそうしたように。
淵月は女を見つめながら、己を顧みた。
人生において、勝者と敗者は合わせ鏡だ。
こうして一世一代能を許されたのは、淵月の実力だけで勝ち得たものではなかった。多分に政治色を孕んでおり、その栄華も長くは続かないだろう。
鵺を討った〈勝者〉であるはずの武将も、戦ではなく、化物退治に駆り出される不本意を呑み込んで、弓を引いたのだ。
勅命を断ることもできず、失敗すれば耻辱と分かっていて――。
「――淵月。見物客の《《変化》》を見ているか?」
淵月の肩越しに、叔父が厳しい声音でそう言った。
「変化……?」
見れば女はすでに泣き止み、心なしか、憑き物が落ちたような――凛とした眼差しをしていた。
――心の内に、何が起こったのか。
決して笑っているのではない。大切な者を失う痛みは、傷ではなく、塞がることのない穴だ。
けれどその穴を抱えたまま、それでも前を向こうとする強さのようなものを、淵月は女の目に見て取った。
「淵月。同じ悲哀はないが、同時に、誰にも理解されぬ悲哀というものも、私はないように思う。……ある悲しみが、誰か別の悲しみを〈観る〉ことによって、洗い流されることもあるだろう。そうして新しい姿を得て、見物客が帰ってくれれば――と、私は願っている」
難しく考えるなと、叔父が淵月の背を軽く叩いた。
「見物客のための〈願い〉を持つことだ、淵月。自分のためだけに舞うのでは、必ず限界がくる。我らの演じる《《亡者》》は、他人を得て初めて――《《蘇る》》」
叔父の言葉に、淵月は目を見開いた。
そこへ、『鵺』の開幕を告げる、高い笛の音が響く。
――夢の中で嘆く女の、〈最後の言葉〉がどうしても聞き取れない。
それが知りたくて、自ら夢を望んだのだが――。
――そうか。私は、〈お前〉の心を慰めてやりたかったのだな。
淵月は舞いながら、今はあの夢の女のために、舞おうと思った。
言うなれば、鎮魂の舞だ。夢の女と、その女が情を抱いていた鵺の、双方に向けた舞。
しかし唐突に、場の空気が凍りついた。
何かを引き摺るような、異音。舞堂の影からぬるりと、巨大な獣――〈鵺〉が現れた。
その〈鵺〉の影から、さらに小鬼のような化物の群れが湧き出し、四方に散って人間に手当たり次第飛びかかっていった。
見物席が騒然となり、我先にと逃げ出そうとする。
――違う。これは、《《本物の鵺ではない》》。
淵月には分かる。本物の凄みは、この比ではない。
鵺は威嚇の唸り声を上げるばかりで、小鬼のように人を襲う様子がない。
――これは……化物ではない?
しかし、見物客はすでに恐慌状態。桟敷の軋む音がはっきりと聞こえ、いつ倒壊しても可笑しくなかった。
このままでは、死人が出てしまう――。
淵月が扇を取り落としかけたとき、何処かから愁水の声が響いた。
「――淵月、動くなよっ」
空を裂く音がして、一直線に飛んできた矢が淵月の視界を掠めた。
鵺を射たかと思えば、舞堂の柱に突き刺さった矢の先には、一枚の呪符があるばかりだった。鵺の姿は、もうどこにもない。
矢の飛んで来た方角を振り返ると、誰かの背を足蹴にした愁水が、桟敷席で弓を放り投げていた。
「まやかし……?」
けれど小鬼たちのほうは、影から際限なく湧き出している。
気絶しているらしい狩衣の男たちを手早く縛り上げながら、愁水が怒鳴った。
「淵月、語り納めまで続けろ! 〈こっち〉は俺が抑えておく」
淵月は、はっと気付かされた。
――怪異を語ること自体が、怪異を呼び寄せる?
語りを通して、舞台に死者を現出させるのが能だ。それならば、語り納めて、鎮魂を完遂する他ない。
淵月が扇をかざすと、その意図に気づいたように、小鬼たちが一斉に振り返った。
甲高い鳴き声を上げて、小鬼たちが淵月に群がろうとする。竦みかけたが、淵月は声を張り上げた。
――月日も見えず暗きより、暗き道にぞ入りぬべき
小鬼の爪や牙が、淵月に迫る。
しかし目前で白装束が翻り、より鋭利な爪が、その凶刃から淵月を守ってくれた。
鵺のその背中に、淵月の口から、勝手に言葉が零れ落ちていた。
『――鵺よ。私は決して……貴方の死を願ったのではありませんでした。自由を、幸せを願ったのは……〈本当〉のこと。許して欲しいとは思いません。けれど、これだけは、貴方に知っておいて欲しかった……』
謝罪の言葉を発しただけで、胸のつかえが下りたようだった。
鵺の肩が、微かに揺れる。返事はなかったけれど、その背に促されたような気がして、淵月は続きを謡った。
後はもう、鵺のために、鎮魂の舞を舞うだけだ。
――遥かに照らせ、山の端の月
半円を描くようにひらりと飛んで、回り返して着地する。
――はるかに照らせ山の端の月とともに
――海月も入りにけり
――海月も共に入りにけり
扇を招くようにして、橋掛かりまでゆく。
三の松まで行き、扇を持ち替える。
舞台を広く舞い、足拍子を踏んで――舞い終える。
その足拍子で、小鬼たちは霧散した。
息を切らしながら、周囲を見渡す。
見物席では白い狐が縦横無尽に駆け回り、逃げ出そうとしていた客は全員、深く眠り込んでいた。
*
「――足拍子は、陰陽術でいう〈反閇〉だな。力強く踏みしめることで、邪気を祓い、土地を鎮めて幸運を招く、というやつだ」
愁水の説明に、幽世庵を訪れた淵月が手土産の水羊羹を口に運びながら、成程と頷いた。
「土御門家の陰陽師たちは――」
「ちっと目を離した隙に、逃げやがった。まあ、そっちの後始末は任せてくれ。それより――淵月さん、あんたはまだ、鵺が欲しいか?」
そう問いかけると、淵月は苦笑を浮かべて、首を横に振った。
「いいえ。夢ももう、視なくなりました。同じ表現者としてお尋ねしますが――貴方は、鵺を描きたいという欲求はありますか?」
「いや……ねえな」
それまで真剣に考えたことはなかったが、結論は早かった。
「虎の四肢に、狸の胴に――ってのは例えであって、要するに〈よく分からねえモン〉ってことだ。描けちまったら、つまらねえだろ?」
予想通りの答えだったらしく、淵月は小気味良さそうに笑っていた。
「貴方は猿楽師の演じる亡者を、中間に存在するモノだと言いましたね。中間で動けずにいるからこそ、彼らは常に、己を見つけてくれる〈誰か〉を待っている。……鵺はもう、貴方という人に出逢えたのです。鵺を特別視しない、執着しない貴方こそ、鵺の傍にいるのに相応しいのではないでしょうか」
淵月の静かな熱弁に、愁水は腑に落ちない顔となる。
「私はね、感嘆したのです。鵺を欲しがる私を前にしても、貴方はいっさい動じなかった」
「欲しがるも何も――」
そう言いかけて、愁水は己の〈傲慢さ〉に気づき、目を瞠った。
己の所有物ではない、というのは、建前に過ぎない。
――嗣巳が傍にいることなど、当然だったからだ。
「愁水殿。夢と現を往復しながら、結局のところ、能が語るのは様々な〈陶酔〉の形であるような気がするのですよ。手に入れずに、求め続ける。それこそ、究極の美ではありませんか?」
愁水の困惑には気づかないまま、淵月は興が乗ったように語り、満足げに幽世庵を去って行った。
「――私を描いてもらわなければ、困るんだがな」
愁水が茶を淹れ直していると、嗣巳が不機嫌そうな顔で、しかしどこか満足げに見えなくもない様子で、柴戸の入り口にもたれていた。
「最後に会っときゃ良かっただろ。しばらく、諸国を遍歴するらしいぜ」
「知っている。『江戸で興行するときは、一番に伝えに来る』のだろう?」
「外でしっかり聞いてたのかよ。――ほら。越後屋若狭の水羊羹、食うだろ?」
そう言いつつ返答を待たずに、茶菓子を載せた盆を嗣巳に押し付ける。
庵の縁側に並んで座り、すっきりと甘い菓子を味わいながら、愁水はふと、嗣巳に対しては〈望み〉を叶えてやったことなど、一度もなかったなと気がついた。
絵に描いてなどやらない、永い眠りにつくのはもっと先――。
そんな風に振り回しながら、いまは共通の目的があって共に居るが、この因縁に決着がついたとき、嗣巳が最も居たい場所とは、どこだろうか。
――暗きより、暗き道にぞ入りぬべき、遥かに照らせ、山の端の月……か。
淵月を描いた錦絵を手に取り、そこに描き入れた元の歌――『鵺』の謡いの一節となった歌を、心中で詠む。
――煩悩の闇から、さらに深い迷いの暗闇へと入り込んでしまいそうです。どうか遥か遠くからでも私を照らし、導いてください、山の端にかかる月よ……。
「……いつか、〈月〉が見つかるといいな」
そう独り言れば、嗣巳が何のことかと、微かに眉をひそめる。
いや、と答えをはぐらかし、愁水は錦絵を脇にやって告げた。
「――これで、画業は終いだ。怪談会で騒動が多発している。次は、旗本主催の大規模な怪談会をやるそうだ。大事になる前に、乗り込むぞ」
嗣巳は短い返事で応じ、何事もなかったように茶を啜っていた。
ついて来るだろうと、問うまでもない。
――今は、まだ。




