花妖(7)
「――そいつを離せ、藤波」
愁水が鋒を向けると、神主が鵺の背から無造作に矢を引き抜いた。
赤黒い血が一筋流れたが、気絶した鵺はぐったりとしたまま動かない。
「眠らせただけですから、ご安心を。これ以上、危害を加える気はありませぬ。これより先は神聖な場ゆえ、この化物はお預かりいたしまする」
愁水は刀を構えたまま、周囲に目を走らせた。
腹部の起伏で、鵺の呼吸は確認できる。
背後を見やれば、矢を放った者が弓を下ろし、頭を垂れて恭順の意を示した。その背後に、さらに二人。一様に面布で顔を隠しているが、いずれも髪には白いものが混じり、隠居と言って良い歳頃だ。
矢筋は正確無比だが、接近戦に持ち込めば愁水の独壇場となる。
それは神主の一派も、承知しているはずだった。
――案内させるにせよ、主導権を奪わせてはならない。
神主が鵺を害するより早く、鵺を掴むその手首を落としてしまえばいい。
しかし愁水が行動に移す前に、隣にいた水代がよろめいた。
「水代? どうした――毒かっ?」
「不信心の表れですな。食事を摂らなかったせいで、〈御神水〉の気が抜けかけておられる」
「何が不信心だ、中毒症状だろうがっ」
水代が胸元を押さえ、膝から崩れ落ちるのを抱きとめる。
「水代、すまな――」
「謝ら、ないで」
水代が愁水の口に指先を押し当て、謝罪の言葉を封じた。
「体の、正常な反応なら……耐えられる、から」
好機を逃すなと、水代が強い眼差しで訴えかけてくる。愁水は頷き返し、水代を背負うと神主に向き直った。
「――次はないぞ」
「ご理解が早くて何より……。こちらへ、若君」
幾ばくもしないうちに、足元が平らな石畳に変わる。
神主が手燭の灯りを掲げると、地下洞穴の一部が照らされた。天井から無数の鍾乳石が御簾のように垂れ下がり、その先に巨大な湖が広がっていた。
そして、二つの人影。
「――ようこそ、若君」
振り返った朧が、薄く微笑んだ。その足元で、後ろ手に縛られた伯父が、無様に膝をついている。
「お前っ……藤波! 謀りおって……!」
歯を食いしばっていた伯父が、神主を認めるなり喚きだした。
そんな伯父を、神主が冷めた目で一瞥する。
「我らは、城主など誰でも良いのです。今さら血脈に拘りなどない。そこの陰陽師が城を乗っ取ろうとも、些末なこと。〈儀式〉さえ、つつがなく終えられるのであれば……」
神主がふと言葉を区切り、厳かに宣言した。
「――これより、儀式を執り行う」
「貴様っ、強欲な盗人が……っ」
尚も喚き続ける伯父の口を、朧が呪符で封じた。
「お前のような奴は、生まれ変わりでもしないと分からないだろうな。――愁水、勝手をしてはいけないよ。いま逃げても、死ぬだけだ」
朧が伯父の襟首を掴み、湖の傍まで引き摺って行く。
「朧殿、その者は〈耐性〉がないのだから、その辺に捨て置くのがよろしかろうて」
神主が不審げに口を挟んだが、朧は穏やかに微笑むばかりだ。
「邪魔をされては困るから、此処まで連れて来たんだ。目を離すべきではないだろう?」
「余計なことを――」
神主の一派が抗議の声を上げ、朧へと詰め寄った。
――三者の思惑が、入り乱れている。
愁水が立ち止まったままでいると、振り返った朧が指先で愁水を呼ぶ。
愁水は水代を背負い直し、暗緑色に濁った湖の淵に立った。
黒い霧として目視できるほど、禍々しい瘴気が強い腐臭と共に立ち昇っている。
発生源は、湖の中央――半身を氷漬けにされた、蛇のような化物だった。
三十尺(*)を優に超えるその化物は、力なく項垂れている。
しかし、その様を哀れと思う前に、人間の気配を察した化物が獰猛そうな蛇眼の瞳孔を大きく開き、甲高い奇声を響かせた。
暁を告げる鶏鳴と似て非なるモノに、肌は粟立ち、痺れが走る。
「これが、蛟か」
「……さすが。そこまで突き止めているなら、私から《《最後に》》、この化物の由縁を語っておこうか」
何が〈さすが〉だというのか、朧が微苦笑を浮かべて言った。
「二百八十年前のこと、か?」
「それもご明察。……最後の城主がこの地を去ったとき、城に残った長老――それが、此処に居る藤波だ」
愁水は神主を振り返り、その顔を凝視した。神主は無表情のまま、しかし否定もしなかった。
「入り口は離れているが、此処はちょうど城の真下でね。城主の直系が要となって、蛟を封じていた。ところがその直系が離れた途端、氷は溶け始め、瘴気が噴き出した」
朧がそう言いながら、足元の氷を指した。蛟を拘束している氷は、湖面に一本の橋を形成している。
この氷の橋を渡れば蛟に触れられる距離まで近づけるが、鋭い鉤爪を持った手と、太い尾の先端が解き放たれているため、瞬く間に八つ裂きにされるだろう。
「放っておけば、蛟は龍と成ってこの地を去る。その際に引き起こされる洪水で、この地が沈む未来を〈視た〉彼は、こう考えたわけだ。――厄災と恩恵は、表裏一体。荒ぶる神を祀ることで、逆に強力な守護神へと転化させられないか、とね。そこで必要になったのが、生贄だった」
「蛟が、生贄を望んだのか?」
愁水がそう口を挟むと、朧は剣呑に目を細めて言った。
「いいや。生贄を《《好む》》のは、いつだって人間なんだよ、愁水」
ゆったりとした口調だが、毒牙を隠し持つ蛇が鎌首を擡げたような、底冷えのする声音だった。
「力の不安定な蛟が陰陽を調整できるように、生贄は二人――出来れば歳の近い男女が好ましいけれど、そう簡単に調達できるものでもない。そこで、〈生き神信仰〉だ。双子は忌み子とされているし、生贄譚は縁起としても分かりやすいだろう? 彼の目論見通り、民は不老長寿という異様な恩恵さえも、嬉々として受け入れた。――君たちが見たように」
城下で見たあの異様な信仰心は、その〈恩恵〉への執着であったということだ。
しかし――。
「俺が知る限り、歴代の城主は短命だったはずだが?」
愁水の疑問に、朧が懐から小瓶を取り出して振ってみせた。
「城主には、江戸城への登城の義務がある。不老長寿と知られる訳にはいかないから――」
「毒殺したのか」
「その逆だよ。城の近くに居る者は、常に蛟の瘴気にさらされる。だから、城主《《以外》》はこの湖の水を少しずつ飲み、身体に耐性をつけるんだ」
呪符を剥がそうともがいていた伯父が、動きを止めた。いまの話が真であれば、伯父の身体は既に瘴気に蝕まれており、短命ということになる。
ここで、伯父が神主を睨みつけた。血走ったその目を見つめ返し、神主が大仰に頷いてみせる。
「さよう。私が毒の仕込みを買って出たのは、〈御神水〉とすり替えるため。それでも尚、毒や刺客を差し向けるなど……我らが心血を注いだ〈特別製の器〉を害そうなどと、〈《《傀儡》》〉風情が片腹痛い」
神主が牽制するように、朧を見遣る。朧は皮肉っぽく、肩を竦めてみせた。
「〈前回〉はこの陰陽師の横槍で失敗いたしたが、此度こそ――双子の女に蛟を憑かせ、片割れをその代弁者とすれば、これ以上の犠牲は出さずに済む」
神主の語りに、熱が籠る。握り合わせた両手は、許しを乞うように震えていた。
「――犠牲の上に成り立つものほど、歪で脆いものはないと思うが?」
愁水が一蹴すると、
「何も、知らずに……この、痴れ者がっ……」
神主が、怒りを露にする――それよりも激しく、伯父が暴れ出した。
「――そう。お前は用済みということだが、最後に一つ、役目をやろう」
伯父の襟首を掴んでいた朧が、その体を水中へと突き落とした。
「朧殿、何を――っ?」
止めに入ろうとした神主の一族に、鴉の一群――朧の式神が襲いかかり、湖面へと追いやっていく。
鋭利な嘴と爪が皮膚を裂き、湖の一角が血に穢れるのを見た神主が何事かを叫んだ。その手から式神が鵺を奪い取り、朧の元へと攫っていく。
水代を岩場に寝かせた愁水は、朧に斬りかかった。朧が懐から取り出した呪符の束が、鴉へと変じて愁水に襲いかかるのを即座に斬り捨てたが、術者に鋒が届かない。
朧が鵺の首を掴んだまま、背を向ける。
「お前、何を企んでいる? 《《最後に》》語ってくれるんだろう?」
刀を振るう合間にそう問えば、立ち去りかけた朧が足を止めた。
「私はね、この化物を殺してやりたいんだよ。そのために――この儀式は、失敗させることにこそ、意味がある」
「失敗……?」
「そう、死穢や血穢という穢れを発生させてね。穢れを溜めるほど、蛟は陰陽の調和を崩して弱体化する。それでも直接葬ることは叶わないから、弱ったところを〈器〉に封じて、器ごと殺す必要がある」
「そいつを、俺と水代にやらせようって魂胆か」
「まさか。私は君たちを蛟の器――依り代にする気はないよ。ここに、ちょうど良いのがいるだろう?」
そう言って、鵺を掲げてみせる。
「これほど穢れの溜まった器も他にない。蛟に力は劣るが、伝承の知名度でいえば鵺は蛟を上回る。――だから、その鵺に蛟を封じて、鵺ごと殺す。それで負の連鎖を終わらせられる。それでも君は、私を止めるのか? 君たち二人が助かる手立てだとしても?」
愁水が黙って納刀すると、僅かに安堵の色を見せた朧は呪符を懐に収め、引き返してきた。
「愁水、君なら分かってくれるだろうと――」
朧が間合いに入った刹那、愁水は抜刀と同時に朧の胸元を、返す刀で、鵺を掴む手を斬りつけた。
懐の呪符が、切り裂かれて宙を舞う。しかし、朧の手は鵺を離さなかった。
「――青いな、愁水」
朧が印を結ぶと、呪符の紙片が愁水の体に纏わりつき、一縄となって愁水を拘束する。
「何故、私の邪魔をする? 事が終わるまで、そこで大人しく……」
「――気に食わないから、よ。犠牲の上書きなんて!」
朧が再び印を結ぶより早く、水代の放った弓矢が朧の手を貫き、岩壁に縫い留めた。朧の手から離れて、鵺が地を転がる。
「嗣……っ」
神主の一族が落とした梓弓を手放し、駆け寄ってきた水代が鵺を抱き上げた。
「水代、離れてろっ!」
「あたしだって、戦える!」
素早く矢を引き抜いた朧が、印を結ぶ。水代もすかさず呪いを詠唱したが、無詠唱の朧の方が早かった。
「水代。君程度の術では、私には敵わないよ」
視えない壁に阻まれたように、水代の体が弾かれる。
愁水は力任せに呪符の縛めを破ったが、遅かった。
朧が伸ばした手を掻い潜り、水代が鵺を抱きしめたまま、湖に身を投げ出した。
愁水の目にはこの時、水代の唇が《《呪い》》を唱えるのが見えた。
「馬鹿な――」
派手な水飛沫が上がる。焦った朧が湖に手を差し入れると、異変が起きた。
――地が、鳴動している。
朧の血と、鵺の血と。浮かび上がってこない伯父と神主の一族は、既に水底か。
穢れが水を介して、蛟を蝕んでいた。
朧が水代を引き上げたところへ、蛟の尾が振り下ろされる。咄嗟に印を結んだようだったが、朧の体は岩壁に叩きつけられ、地に伏した。
封じの氷が半壊し、蛟の首が、湖の淵に倒れる水代の方へと伸びる。愁水は暴れ回る尾を避けて走り、牙を剥く蛟の額に、刀を突き立てた。
――硬い鱗に阻まれ、刀は真っ二つに折れた。
蛟が奇声を上げて水中に潜り、鳴動がさらに酷くなる。
瞬く間に濁流が渦を巻いて、溢れ出した。
「水代……嗣巳……!」
愁水は水代と鵺を抱え込んだが、激しい水圧に押し負け、岩壁に激突した拍子に手を離していた。
地下から溢れた濁流は、城と城下一帯を呑み込んだ。
そうして――愁水は倒壊した鳥居の前に倒れた己と、最後まで鵺を離さなかった水代の姿を見下ろした。
「――それ以上は見るな、愁水」
背後から伸びた男の手が、愁水の目を覆った。
青年の姿でいるときの、嗣巳の声。
「あの時、お前たち兄妹は最後まで、私を護ろうとしていたのだな。……いま見たことは忘れて、〈後始末〉は全て、私に任せておけ」
取り戻した記憶の重さに――守れなかったものの重さに、目眩がする。
しかし、嗣巳の言葉が、愁水の心に火をつけた。
「俺が、応じると思うか?」
「思わないから、頼んでいるんだ」
頼む口調じゃねえだろう、という愁水の言葉は黙殺して、嗣巳が愁水の肩に額を押し当ててくる。
それは手負いの獣であった頃、嗣巳が時折見せた仕草だった。例えば、愁水が傷を負った夜などに。
「お前だけでも、〈普通〉に生きてくれ。――これは、私への罰だ」
その言葉は、確かに懇願だった。
「私は、お前たちに裏切られたと思っていた。……だから、今まで朧を泳がせていた。あれは、〈三度〉儀式に手を出すだろう。私はそのとき、お前たち兄妹を見捨てるつもりだった……」
「それの何が悪い? てめえが生き延びる道を選ぶのは、生き物の本能だろうが」
「いや、もういい。私は充分生きて、長すぎる生に飽いている。私が蛟を封じる器となり、蛟と共に滅しよう。それで、お前たちの呪いが解けるのなら……私には充分すぎるほど、綺麗な終わりを迎えられるだろう」
「馬鹿野郎、諦める前に、頭使えっ!」
愁水は振り返り、嗣巳の胸倉を掴んだ。
「そんな胸糞悪い結末、俺も水代も許さねえからな。次にまた同じこと言ったら、肥溜めに頭から突っ込んでやる」
「お前は……本当に、諦めが悪いな。……ついでに、言葉遣いも」
「当たり前だ。一度きりの人生で、何で欲しいもん諦めなきゃならねえんだよ。奪いに来るやつがいるなら、奪い返す。――単純な話をこじらせるのは、言い訳が欲しいだけだろ? 自信がねえならそう言えよ。いくらでも、くれてやる」
「山賊みたいな〈若君〉だ」
微苦笑を浮かべた顔には、諦念の色がちらついて見える。
しかし、愁水が尚も言い募ろうとする前に、煙の臭いが二人を現実に引き戻した。
濁流に呑まれた地から、燃え盛る炎に囲まれた家屋へと、景色が切り替わる。
床に倒れている梔子を抱き起こし、愁水は柊の名を呼んだ。
――――
*三十尺:約九メートル。




