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幽世庵モノガタリ~化物絵師と鵺~【幕末あやかしバディ×民俗学ミステリー・全3部・9月末完結予定】  作者: Yum
第十幕 雨禁獄

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花妖(8)




「――もっと早く、私を呼んでくだされば……!」


 柊が着物の袖で顔を覆って言ったが、大粒の涙がこぼれ落ちる様は、隠しきれていなかった。


 余程よほど恐ろしかったのか、柊の涙は雷雨をび、旅籠はたごを瞬く間に鎮火させてみせた。


 庭に咲いた梔子くちなしは大半が焼け残り、奥座敷にあった蒐集物や、愁水の描いた襖も無事ではあったが――。


「こうなる定めであったと思えば、諦めもつく。……これで、良かったのかもしれん」


 目覚めた梔子は、旅籠の無残な有様を見て項垂うなだれた。


 火の回りが早かったため、老朽化していた柱や梁は炭化し、石場建ての礎石そせきである玉石は急激に冷やされたせいで、ことごとく割れた。柱は利用できそうだが、礎石が割れれば全体が傾く。解体したのち、全面建て替えはまぬがれそうになかった。


「私ども白狐は、愁水様に大恩がございます。愁水様のお知り合いとあらば、喜んで修繕のお手伝いをいたしますから、どうか気を落とされないで……」


 柊がそっと梔子の肩に手を置いたが、梔子は礼を述べたものの、寂しげに笑った。


「この地はあまりに騒がしい。再建しようとも、同じことを繰り返すだけだろう」


 それは、愁水も同じことを考えた。今はどこもかしこも人間の手が入っているが、交通の要所である宿場町の近くとあらば、開拓の勢いは他よりも一層激しいだろう。


「愁水様、深大寺じんだいじ村の近くはいかがでしょうか?」


 愁水が思案していると、柊が妙案とばかりに、声を弾ませた。


 深大寺――広大な、武蔵野の地。王朝時代の歌枕として名高いこの地は、当世では幕府直轄の御鷹場おたかば(*)だ。


 城を築くには平坦すぎる地形ゆえ、鎌倉の御代では手つかずの原野であったが、北側の農村地では新田の開墾以降、名物の蕎麦や茶の栽培が進み、『江戸名所図会』には豊かな湧き水のある、風光明媚な遊山所と記されている。


 日帰りで訪ねることのできる、最も近い〈異界〉――山川草木さんせんそうもくと人間の、最後の境界の地というわけだ。


 この地も、やがては異国の技術を取り入れて開墾されるだろう。


 しかし、水路は開削かいさくされ尽くし、現状では江戸市中の飲み水を確保するだけで、手一杯だ。これ以上農地を広げる余裕はなく、今すぐにその手が伸びることもないはずだ。


「確かに、妙案だな」


 愁水がそう応じると、柊が微笑んだ。


「私に、お任せいただけますか?」


「ああ、頼んだ。あの辺りのことは、お前のほうが詳しいだろう」


 何と言っても、愁水と柊の出逢いの場――柊がかつて、祀られていた土地だ。


 強い北風から畑を守るため、防風林として、あるいは魔除けとして植えられていた柊が、その名の由来なのだ。


 梔子が提案を受け入れたため、やるべきことは、あと一つだ。


 人間が迂闊うかつに近寄らないように、しかし梔子の蒐集物を害そうとしない者は通すように、複雑で強力なまじないをかける必要がある。


「よし、待ってろ。俺がその術を習得してやるから――」


「……数百年かかりそうだから、私がやってやる」


 黙っていた嗣巳が、横から口を挟んだ。


 期待通りの言葉に笑みを浮かべると、嗣巳からは深い溜め息が返ってきた。




「――お前に裏切られるとはね、真澄」


 朧の冷たい眼差しを真正面から見つめ返し、真澄は膝を折って頭を垂れた。


「罰は、ご随意ずいいに」


「ああ、お前の意思はもういらない」


 高座から立ち上がった朧が、件の首輪を手に近づいてくる。化物の意思を奪い、強制的に式神へと下す呪具。


 真澄は目を伏せたまま、動かなかった。


「そうしてください、ご当主様。これ以上、貴方様を裏切ることのないように」


 己を救ってくれた朧への忠誠は、消えたわけではない。


 しかし、己の意思で出来ることは、やり尽くしたように思う。


 朧の手が容赦なく首輪をめた途端、急激な眠気に襲われた。


 心残りは、もうない。


 そう思ったとき、ふと、向日葵の花がまなこの奥で揺れた。


 幼い頃、朧と共に訪れた遠州の地で出逢った――名前も知らない、顔も思い出せない童が、泣くなと言って真澄にくれた花だ。


 自分のほうが傷だらけだったくせに、不器用ながらも、真澄に手を差し伸べてくれた――。


 何故、今さら思い出したのかも分からないまま、真澄は深い闇へと落ちていった。




 隅田川に架かる両国橋は、大勢の花火見物の客で賑わっていた。花火が打ち上げられるたびに、大きな歓声が上がる。


 五月二十八日――今日は江戸一と謳われる、両国の川開きだ。今年最初の花火とあって、武士から町人まで、身分を問わず祭りに酔いしれている。


 ここしばらくは快晴が続き、夏の盛りの訪れに、誰もが開放的な心持ちになっているようだ。


 今日から八月二十八日までの三ヵ月間、両国橋界隈は橋の両岸、東西の広小路に夜店が立ち並ぶ。


 茶屋の灯籠や提灯に彩られて、川岸も華やいでいた。今夜は陸ばかりでなく、川の上にも大小の屋形船が浮かび、浮かれ騒ぐ楽しげな気に満ちている。


 流星と呼ばれる花火が打ち上がり、墨を流したような夏の夜空を、緋色の光の糸が彩った。


 緋色の〈ひ〉は、思ひの〈ひ〉――緋色を〈思いの色〉と呼ぶこの国の人間の感性を、愁水は好ましく思っている。


 屋根船に乗った愁水は、夜の川風に吹かれながら、周囲の船から流れてくる小唄や三味線の音に耳を傾けていた。


 黒々とした水面にも、鮮やかな光が踊っている。

夜空と水面の接点には、雲母摺きらずりが映えるだろう――。


「愁水、お前……。このたぐいは、異性と来るものだろうに」


 興味もなさそうな顔で花火を眺めていた嗣巳が、呆れたようにそう言った。


「何だ。お前にも、そういう感性はあるんだな」


 そう混ぜっ返した愁水は、仕方ねえだろ、と心中でごちていた。


 梔子の一件で、全ての記憶を取り戻したものの、あれ以来真澄の顔を見ていない。周囲を舞っていた式神の黒蝶の姿もなく、朧に罰せられたのではないかと、気になっていたのだが――。


 真澄の代わりに幽世庵を訪れたのは、かつて真澄と行動を共にしていた火盗改かとうあらための、久蔵であった。


 同心救助の礼として、料理屋の屋根船を手配した――と告げに来た久蔵は、しかし、真澄の記憶を失っており、しきりに首を傾げていた。


 その久蔵が手渡してきた文には、真澄の名と共に、端的にこう記されていた。


 ――誰か、いい人でも誘いなよ。


 誘えるかと、これも心中で応じておく。


 己を慕っているらしい女から貰ったもので、他の女を誘うという発想は、愁水にはなかった。双方に対して、礼に欠く行為だろう。


 とはいえ、計らいを無碍むげにするのも忍びない。柊は疲れて眠っており、京介たち兄妹はすでに別の屋根船を手配済み――ということで、誘える相手は他にいなかったのだ。


「美味いもん食えるんだから、いいだろ?」


 船頭が一人きりの、屋形船に比べれば小ぶりな船だが、並んでいる料理はどれも凝ったもので、文句なしに美味い。


「嗣巳、お前もっと食えるだろ。水菓子でも食うか?」


 船々の間を行き交う、赤い行灯をともした物売りの小舟――うろうろ舟が、西瓜すいか真桑瓜まくわうりを売っている。


 その小舟を呼びつけようとしたが、嗣巳に止められた。


「私の世話を焼こうとするな」


「――そんなら、腹はくくれたか?」


 船頭が眠りこけているのを確認してから、愁水はそう切り出した。


 梔子の一件以後、旅籠の普請ふしんや日々の生活で忙しく、腰をえて話すのはこれが初めてだった。嗣巳のほうが、その話柄わへいを避けてきた、というのもある。


「……お前を見ていると、人間がもろいということを忘れそうになる」


「そりゃ、褒め言葉だな」


 茶化すなと、嗣巳が睨みつけてくる。だが、嗣巳が何を思い出し――何を恐れているかなど、問わずとも分かる。


「――俺は化物絵師、永嶺ながみね愁水だ。化物の〈願い〉はきっと叶えてやる。だから、お前も腹をくくって、本気で望んでみろよ」


 突然の宣言に、嗣巳が目を丸くする。


 ――永嶺。〈正史〉をゆがめて続く、呪われた血脈の名は、愁水にとっては記憶を取り戻した証でもある。


「いいか、俺たちはまだ、何も失っちゃいねえよ。――ここから仕切り直しだ。そうだろ?」


 そう、失ったわけではない。水代の体はここにあり、少なくとも、愁水たちはあの城から逃れられたのだ。


 鵺の力で〈呪い〉を抑えられるほど、みずちが弱体化しているいま、解呪の見込みは格段に上がっている。


 そして――。嗣巳には告げずにいるものの、愁水は一つの可能性に思い至っていた。


 ――水代は意図して、その身に鵺を封じたのではないか。


 愁水の記憶では、まじないを唱えていたのは、朧ではなく水代だった。むろん、朧が無詠唱で術を扱えることは、承知の上だ。


「……お前があきらめないのならば、最後まで付き合ってやろう」


 敵わないな、と小さく呟いた嗣巳が、ふっと淡い笑みを浮かべる。


 ――そうだ、もっと笑え。


 笑っていなければ、この憂世うきよ――浮世は、渡れない。


 愁水がさかずきを突き出すと、嗣巳もそれにならって、誓うように掲げてみせた。




                                   

第二部・完

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