幕間 幽霊画
「――小袖の出所がわかった。また、〈行商〉だ」
鵺の血の匂いを纏った小袖を手に、愁水が社務所に顔を出した。
常人より体躯に恵まれているせいか、万事無茶をしがちな男だが、今回は怪我をした様子はない。
手にした小袖――呪具には〈中身〉がないようで、絵に描いたか、満足して消えたかのどちらかだろう。
ちらりと向けた嗣巳の視線をどう受け取ったのか、愁水が包みを持ったほうの手を掲げてみせた。
「竹村伊勢屋の〈最中の月〉、この辺に置いておくからな」
土産を楽しみにしている、と言ったから、律儀に買ってきたらしい。
そういう意味ではないと嘆息しつつ、
「それで、その行商とやらは……」
手元の祈祷簿を閉じて、再び顔を上げたとき、愁水の姿は既になかった。
「相変わらず、忙しない……。おい、愁水」
庵に出向くと、愁水が画材を広げているところだった。
「なんだよ。晩飯なら、もうちっと後だろ」
「失敬な。愁水お前、私を犬猫と勘違いしているのではないだろうな。報告は、最後までしていけと――」
「報告するほどのことがねえんだよ。その行商、人間じゃねえとは思うんだけどな。人間が呪具なんか持ち歩いてりゃ、〈穢れ〉に当てられちまうだろ?」
傍にいるこの男が規格外なせいか、今一つ人間の強度がわからない嗣巳は、曖昧に頷いておいた。
「嗣巳。お前、妓楼と地本問屋の顛末にも、関心があるか?」
ないな、と笑って、嗣巳は愁水の手元を見下ろした。
今度は、何を描くのか。
無骨そうに見える手が、柔らかく繊細に物を描く様は、意外な気がして面白い。
少しばかり見物していこうかと思ったのだが、愁水が怪訝そうに見上げてくる。まだ用があるのかと言いたげな目に、苦笑して手を振った。
芸事の邪魔をするほど、無粋ではない――と自負している嗣巳は、庵を出た。
数歩もいかないうちに、境内を心細げに歩いていた、妙齢の女と目が合う。
「――どうされました?」
と、微笑みかければ、女が狼狽えて後退った。
かつて、こんな風に柔和な笑みで周囲の心を掴んでいた巫女がいたな、と思い出しながら笑ってみたのだが、薄暗い黄昏時には逆効果だったようだ。
人に化けた嗣巳に対して、人間の取る反応は大方決まっている。皮の美醜に目が眩むか、異質な気配を感じて怯えるか、だ。
敏感な者なら、後者だが――。
「あ……神主さまですか。あの、こちらを、引き取っていただけませんか」
女が震えているのは、胸に抱えた風呂敷の中身が原因だったらしい。
「あなたは、祈祷を頼みにこられた……」
覚えのある香りだと思えば、短期間に三回も祈祷を頼んできた娘だった。
人間の顔や名前などいちいち覚えていないが、裕福な者は纏う香りが特徴的で、いくらか記憶に残りやすい。
「はい、――と申します」
先ほど祈祷簿を清書していたこともあり、娘の〈願い〉がふっと思い浮かぶ。
祓い屋除けの隠れ蓑として建てた神社ではあるが、愁水が常にどんぶり勘定――貴賤問わず依頼を受け、画材や食材に金惜しみせず、時には無償で描きもする――であるため、嘘でも神主を名乗れる程度には、真面目に運営しているのだ。
「拝見しましょう」
娘から風呂敷を受け取ってみれば、中身は女を描いた掛け軸だった。女の下半身が透けているため、幽霊画らしい、というのは、嗣巳にもわかる。
「夜な夜な、啜り泣く声が聞こえるのです」
嗣巳は軽く眉を上げたが、笑みを張りつけて了承した。
娘は何度も頭を下げて、去っていった。
詳しいことは、何も聞かない。
神社を建てて、まだ一月だ。遠州にある鵺代神社の分社、と触れ込んではいるが、人目を避けるような立地にある、よくわからない新興の神社――とくれば、参拝客も所謂〈訳あり〉が集まってくる。
幽霊画を手に、嗣巳は再び庵に足を向けた。他の絵師のことは知らないが、大胆な構図と余白、荒々しい筆遣いと繊細な線画の巧みな使い分け――愁水の筆致であれば、すぐにわかる。
「――夜な夜な啜り泣くので、返品したいそうだ」
絵を目の前に突き出すと、愁水は器用に片眉を上げてみせた。
「何も宿っちゃいないはずだが。返してきたのは、男だったか?」
「いや。三度ほど、祈祷を頼みに来ていた女だ」
「化物に祈祷なんか頼むからだろ。どれ――」
絵と共に祈祷簿も差し出すと、愁水は作業の手を止めて受け取った。嗣巳とは反対に、他人の事情にも興味を示すのが、愁水という男だ。
――彼が私を選んでくれますように。
――彼が振り向いてくれますように。
――姉さんが成仏しますように。
愁水は冷めた目で、嗣巳に祈祷簿を返した。
「幽霊画ってのはな、供養や魔除けのために描かれはじめたもんなんだ。依頼してきた男は、その点をよくわかっていた。……気に食わねえから、〈手を加えて〉送り返してやるよ」
そう言って、愁水が〈手を加えた〉のは、絵の外枠――掛け軸の、布地の部分だった。
透けた下半身を描き足して、枠外まで伸ばす。
そうすると枠を超えて、幽霊が這い出てくるように、錯覚しそうになる。
「描表装、と言ってな。作品の劣化を防ぐ目的もあるが、装飾としての〈遊び心〉が、幽霊画と相性が良い。昔は……円山応挙が足のない幽霊を確立させるまでは、幽霊といえば、〈逆さま〉だったんだけどな」
満足のいく出来だったようで、愁水は掛け軸を床の間に飾って、一つ頷いた。
しかし、おどろおどろしい構図ではあっても、生々しいような恐ろしさはない。むしろ、頼りない肩が切なげに見える。
これを、恐ろしいと思うのは――。
絵の枠を超えてきそうな幽霊を前に、先ほどの女は、何を思うだろうか。
後日、興味はないだろうが、と前置きをして、愁水が事の顛末を語った。
もちろん、絵に化物は憑いていない。
ただ、そこに〈在る〉だけの物に意味を与えるのは、いつだって人間だけだ。
生命すら与え――時には、与えたモノに、奪われる。
「なあ、嗣巳。陳腐なことを言ってもいいか?」
愁水が鋭い笑みを浮かべて、こちらを見る。
「珍しく、私も同意見だな」
「まだ、何も言ってねえって」
滅多に共感することなどないが、《《こういう時》》は、言葉にしなくともわかるのだ。
本当に、恐ろしいモノは――。




