花妖(3)
「――山吹の花色衣ぬしや誰 問へど答へず《《くちなし》》にして」
「何……?」
愁水が詠ってみせた歌に、花妖の肩が揺れた。
中宮が送った歌には、山吹の花弁が添えられていた。その花弁に書かれていたのが、「いはで思ふぞ」という言葉だが――その組み合わせには、元になった歌がある。
「山吹の花のような色の衣に、持ち主は誰かと問いかけても、答えない。それは――」
「――《《くちなし》》だから、か」
愁水の後を引き継いで、花妖――梔子は声を上げて笑った。
――ご名答、と。
梔子の花は白いが、その果実は山吹のように黄色く、染料の素となる。その実に「口無し」とかけて、だから答えられないのだ、とこの歌は詠む。
「いはで思ふぞ」――不言色とは、梔子の実で染められる支子色の別名だ。
――庭に甘い香りを漂わせていた、あの白い花の。
「豪胆よの。我の反応を見ようと、賭けまで利用するか」
「何が賭けだ。最初から、囚える気なんてなかっただろうが」
しきりに袖で口を隠してみせるのだから、最初から己の正体を教えていたようなものだ。
ついでに言えば、梔子は雌雄同株――両性花だ。
「――いや、賭けはそなたの勝ちだ。この旅籠屋に群がっていた〈虫〉は、そなたに任せよう」
梔子が手を叩くと、奥座敷の襖が開いた。
虫籠に囚われた魂が、蛍に似た蒼白い光の帯を描きながら、飛び立っていく。
――魂は、どこへ行くのか。
その光を目で追ったが、暮れゆく青鈍の雨空に紛れて、すぐに行方を見失った。
「――記憶を取り戻したいか?」
梔子にそう問われ、愁水は迷わず首肯した。
「それは、そなた自身の願いか? 〈誰か〉のために、思い出してやりたいのではなく?」
記憶を司る化物は、さすがに鋭い。
愁水は、ふと黙った。
いつの間にか、雨が止んでいる。しかし、水の気配は依然として濃厚に漂っており、肌に纏わりついてくる。
不快ではないが、不意に、その気配を重く感じた。
過去を可視化したら、それは雨のような形をしているかもしれない。
雨のように過去の気配を纏わりつかせて、これまで通り自由でいられるのか――と、思わなくもなかった。
どんなに強い願いも、人は追い詰められれば手放してしまう。
依頼を通して、そんな状況に幾度も遭遇してきたのだ。
けれど、それでも――。
「どんな失敗も、俺が選んで、俺が《《掴み取った》》もんだ。忘れたままってわけには、いかねえよ」
「そうか。……ならば、そなたの記憶、返してやろう」
「いや、まだだ。その〈報酬〉は、あんたの〈依頼〉を遂行してからだろ?」
愁水は奥座敷の襖の前に胡座をかき、にっと笑いかけた。
「絵を描けってんなら、材は揃ってるんだろうな」
不遜にそう言って見せると、目を瞬かせた梔子が、微苦笑を浮かべて頷いた。
絵具を並べ、皿に膠水(*)を入れて指で練っていると、背後で衣擦れの音がした。
愁水の肩越しに、梔子が熱心に愁水の手元を見つめているのがわかる。
四枚の襖――。
一枚目には一重咲きの梔子を胡粉(*)で厚みをもたせて描き、二枚目、三枚目を余白として、墨で描いた枝は緩やかに下げて四枚目で着地させ、丹と鬱金を用いた、山吹色の果実で彩る。
中途の葉には白緑と群青、それに少しの当世茶――当代一番の茶色、と名付けられた、深みのある黄赤を滲ませ、一葉で青花と枯葉、初夏と晩秋を匂わせ、下部の流水で時の流れを示す。
「銀泥(*)と、紙やすりも取ってくれ――」
嗣巳、と呼びかけそうになって、愁水は寸前で口を噤んだ。
――日頃の癖とは、厄介で恐ろしい。
「これでいいのだな?」
呼びかけられた梔子は、いそいそと材を手渡してくる。
そうして、美しい銀だと呟いた。
時の経過と共に、銀は黒く、深みのある燻し銀となるだろう。
だが、胡粉で描いた純白の花弁の上に塗った銀泥は、〈今〉は透明感のある光沢で、静謐な輝きを放っている。
「月の光のような……。見事だ、愁水」
梔子が、泣きそうな顔で笑った。
「天地万物は、巡る。誰も留めることはできぬが……そなたの絵は、その〈夢〉を叶えるのだな」
惜しみないその称賛に、愁水も小さく笑った。絵師として、これほど冥利に尽きる言葉もないだろう。
「そうだ――善治郎は、美しいものを蒐集しておったのだった」
大事なことを忘れていたと、梔子は嘆息と共にそう零した。
「それが為に盗賊に目をつけられ、手柄を急いた同心には囮にされ、命を落としたが……真に美しいものを集めれば、その魂に再び相見えるであろうな」
愁水がその独白を黙って聞いていると、梔子は堪らずといった様子で、胸の内を吐露した。
「つまらぬ命を刈って、この身に穢れを溜めたが、後悔はしておらぬ。おらぬが……少々、疲れたな」
しばし黙したのち、梔子が礼を口にした。
「そなたは初めから、寄り添うために、我に囚われてくれたのだな」
「……急ぎの用がなかっただけだ」
ぶっきらぼうに応じると、梔子は声をあげて笑った。
「そなたが情に厚いのは、〈情を注いでくれた者〉が傍に居たからだろう。記憶はなくとも、そなたの心は忘れておらぬのだ。――愁水。そんなそなたに、もう一つ頼みがある」
「何だ?」
「ついて来てくれ。奥座敷の床下に、穴蔵がある。そこに善治郎の蒐集の一部と――〈手記〉がある。その手記を、読んでくれぬか?」
梔子に連れられ、奥座敷に足を踏み入れる。手鎖を解かれた同心が呻き声を上げて身じろいだが、放っておいても、間もなく目覚めるだろう。
床板を外すと、暗がりの奥へと続く梯子が現れた。
「――この旅籠屋を、〈永続〉させる? これを、俺にやれって?」
梯子を伝って穴蔵に降り、手燭で手記を照らした愁水は、ざっとその文面に目を通して呟いた。
「ああ。正確には、〈半永久〉と言うべきであろうな。善治郎は我のために、この旅籠屋を《《閉じたまま》》残しておきたかったようだ」
愁水は梔子のその言葉を反芻しつつ、さらに手記を辿った。
この手記は、好事家の知見の産物だった。呪符による結界術の描き方と文言、理論などは、もはや算術や蘭学といった格物窮理(*)の様相を呈している。
――これは、〈異界〉の現出だ。
本来は現し世の影のようなもので、ある条件下でのみ、姿を見せる化物の棲家を、呪符で緯度経度といった類いの見当をつけて安定させ、〈固定〉しようという試みだろう。
雅空の言を借りるならば、〈仮想空間〉といったものか。旅籠屋の四隅に貼られた朧のものらしき呪符を見る限り、やってやれなくはないようだが――。
愁水は手記を閉じて、掲げてみせた。
「安請け合いはできねえが、やるならこの手記を預かることになる」
「ああ、持って行ってくれ」
「大事なもんだろ。いいのか?」
「そなたに頼みたいのだ。――花妖の〈種〉を後生大事に抱えている、そなたにこそ」
梔子の視線が、愁水の懐に向く。そこにあるのは、愁水に情を寄せてくれた桜の花妖が、散り際に残していった種だ。
いまだ埋める場所を考えあぐねており、こうして持ち歩いている。
「旅籠屋の名は?」
「そなたが決めてくれ」
愁水の問いに、梔子は即座にそう答えた。
現し世から隔絶された、旅籠屋――。
愁水は、京助が営む地本問屋の堂号(*)を思い出した。
蝉の抜け殻のように、儚い命を抱えて生きる人間――〈現し世そのもの〉を指す言葉だ。
「――空蝉屋」
愁水が口にした言葉の意を、梔子は大方察したらしい。
時の流れを異にしようが、生きてそこに在るうちは、現し世と繋がっている。いつかまた、梔子が心を開く人間も現れるだろう。
そしてこれは愁水自身の願いだが、永久に残したい名は、と考えたとき、京助の地本問屋が浮かんだのだ。
あの店は、愁水を信じて筆を任せてくれた京助と、物語を預けてくれた滝との軌跡そのものだ。
「良い名だ。気に入った――」
梔子がふと動きを止め、梯子の上に目を遣った。何か言いかけたようだったが、か細い体がぐらりと傾く。
「おい――」
膝から崩折れかけた梔子の肩を、寸前で抱き止めた。
――体が、燃えるように熱い。
と同時に、焦げた煙の臭いが鼻を突く。ぐったりと力のない梔子を肩に担ぎ、梯子を登り切ると、旅籠屋の一角が燃えていた。
出火もとは――庭の草木だ。
「愁水……」
愁水の肩に手をつき、梔子が身を起こす。じっとしていろと告げたが、梔子は構わず、片手を掲げた。
間もなく、柔らかな雨が降り注ぐ。
「雨を、降らせられるのか……」
梔子は、雨降り花だ。だが、消火できるほどの雨量ではない。
柊の名を呼びかけたが、梔子に止められた。
「雨は、記憶の残滓を含んでおる。――愁水、もう暫く、囚われてもらうぞ」
梔子の手が、愁水の顔に迫る。
細い指が額に触れた途端、体がよろめいた――のを、背後から支えられたが、既に意識は飛びかけていた。
「――思い出すな、愁水」
嗣巳の苦しげな声を聞きながら、愁水は目を閉じた。
――――
*膠水:粉末状の絵の具を紙面に定着させる溶液。
*胡粉:貝殻を細かく砕いて作られる白色の顔料。
*銀泥:粉末にした銀を膠水で溶いた顔料。
*格物窮理:江戸時代以降、主に西洋由来の自然科学などを指す。
*堂号:江戸時代の地本問屋などが屋号とは別につけた雅号(風雅な名前)。




