花妖(2)
*
――遣らずの雨。
勢いを増した雨音に、祈祷簿を記していた嗣巳の手が止まった。
帰したくない〈誰か〉を引き留めるような雨を、そう呼ぶのだと、いつか何処かで聞いたことがある。
そんな風に、愁水も〈何か〉に足止めを食らっているのではないかと、ふと思ったのだ。
愁水が庵を空けて、既に四日が経つ。絵の依頼客が逗留する宿場に泊まり込み、数日かけて絵を描く――それ自体は、珍しくもなかったのだが。
筆を持つ手とは反対の指で、文机を小刻みに叩く。
――愁水の様子が、可笑しかった。
珍しく行き先と用件を事細かに告げたのも、こちらに背を向けていたのも、平生より僅かに口早だったのも――。
言ってしまえば、「今から嘘をつきます」とでもいうような気負いが感じられて、挙動全てが怪しかったのだ。
――赤子でもあるまいし、何を過保護な。
嗣巳は、小さく息を吐いた。愁水の無茶が続き、過敏になっているという自覚はある。
それなりに忙しい朝で、日頃の記帳に加え、間近に迫る祭礼にも気を配らなければならないのだが、どうにも思考は散漫だ。
曲がりなりにも神社の体裁を保つには、せめて茅の輪くぐり――年の半分で溜まった心身の穢れを落とし、残り半分の無病息災を祈る「夏越の祓」くらいは――と、頭を悩ませていたはずなのだが。
――迎えに行ってやるべきか、否か。
「……嗣巳様」
盆を手に茶菓子を運んできた柊が、嗣巳の手元を見て目を丸くした。
人と共に暮らすことを望んだ柊はいま、幽世庵と京助の地本問屋を行き来して、奉公のようなことをして過ごしている。
「どうした?」
「その、筆が折れています」
手元に視線を落とした嗣巳は、重々しく息を吐いた。
「……あの化物たらしが」
「愁水様、訳ありのご様子でしたね」
柊の目から見ても、不審な挙動だったということだ。
「ああまで、張ったりが出来ない奴ではなかったはず――」
「お相手が嗣巳様では、愁水様も分が悪いと思われたのかも」
もう一度小さく息をつき、嗣巳は文机に置いていた印籠(*)に手を伸ばした。逆さまにして、中身を文机に広げる。
「嗣巳様、その切れ端は――」
「陰陽師の呪符だ。〈あれ〉に聞いたほうが早いだろう」
白狐の件で、真澄の式神を追ったときに回収しておいた燃えさしだが、居場所を割り出すには充分だ。
「私も、ご一緒させてくださいませ!」
柊が勢い余って、身を乗り出してくる。嗣巳はここに居ろと言いかけたが、留守中に何かあってもまずい。
「――仕方ない」
嗣巳は袖で顔を覆い、水代の姿に転じた。神主の白装束も、瞬きの間に淡い藤色の、女物へと変える。
柊と並べば、少なくとも、一目で怪しまれる風貌ではなくなるはずだ。
何より、あの男装の陰陽師は同性への警戒心が薄いらしく、この姿であれば接近を許すだろう。
――その嗣巳の読み通り、真澄の背後に回り、腕を捻り上げるのは、いとも容易かった。
「お前っ、鵺――!」
「お前も学習しないな。供もつけずに不用心なことだ、次期当主殿」
宿場町の外れ。愁水の告げた宿近くの竹林で、真澄は何かを待っている様子だった。
「……供など、つけられるわけがない」
嗣巳は片眉を上げたが、すぐに得心した。
「朧に背いたか」
痛みに耐えるように、肩越しに嗣巳を睨んでいた真澄が、目を逸らした。
「妙な気配だな。中にいるのは、朧の式神か?」
古めかしい旅籠屋を見遣ると、真澄がそうだと答えて、身を捩った。
「強力な花妖だ。朧様の提案を呑んで、あえてこの場に留まっている。愁水の記憶を封じたのは、あの花妖で――逃げないから、もう離せっ」
真澄の様子を一瞥し、手を離す。真澄は距離を取り、嗣巳と柊を交互に見た。おろおろしている柊は無害と判じたらしく、警戒の目は嗣巳にだけ向いている。
「記憶を取り戻すのに、四日もかかるのか?」
「何か、取引をしたようだ。中には同心と盗賊が数名、捕まっている。盗賊のほうは死んでいるはずだが――」
「力ずく、というわけにはいかないか」
暫くまえに雨は降り止み、竹林は青々とした香気を漂わせていたが、不意に、焦げつくような嫌な臭いが立ち昇った。
「……燃えている?」
真澄が身を翻し、門戸に駆け寄ったが、結界に弾かれた。
「あ……ああ」
呻き声が聞こえたかと思えば、同心らしき男が火のついた紙――呪符を振り回している。
「――しまった」
隣に立った真澄が、片手で口を押さえた。
「何だ、あれは。お前の配下の術師か?」
「私が術で操っていた同心だ。素養があったから、少しだけ術を教えたんだ。私と花妖の両方に操られて、錯乱している……」
「にわか仕込みか」
――この娘に関わると、碌な目に遭わない。
舌打ちと共に、嗣巳は門戸に呪符を翳したが、雷電に似た光が弾けて――消えた。
「……力が拮抗したか」
「嗣巳様、私も――?」
柊が掌に狐火を出して、嗣巳の指示を待っている。
「いや……」
無理に突破して、愁水の記憶が失われるのは避けたい。
しかし僅かな逡巡の間に、同心の振り翳す呪符の炎が周囲に飛び移り、旅籠屋の一角が燃え上がった。
愁水の筆の気配は、確かにこの旅籠屋にある。にも関わらず、柱が半壊しても脱出する様子がない。
――愁水、何をしている?
真澄と柊が口々に愁水の名を叫んだが、応じる声もない。
じわりと、焦燥がせり上がってくる。
眠らされているのか、あるいは――。
黒煙が広がり、風に煽られて、暴力的な熱が伝わってくる。柱が焼け落ちたところで、嗣巳の忍耐もそこまでだった。
門戸の結界に鋭利な爪を突き立てて、一時に引き裂いた。
*
愁水は肘掛窓から庭に降り、雨に打たれるのも構わず、泥を踏みつけ、大股で庭を横切った。
青草に覆われた庭は、長らく手入れされていないのだろう。藪の隙間には白い花が垣間見え、雨で煙る庭にどろりと甘い香りを漂わせている。
香りはないが、椿を中心とした、狂い咲きの花々も目を惹いた。珍しい形や模様――いわゆる奇品が取り揃えてあり、かつて住んでいたであろう好事家の好みが見て取れる。
――ずいぶん、強力な結界だな。
長い時を経て化物となった〈花妖〉の気配は、神霊に近い。一度囚われれば、たとえ術師であっても、人間が自力で脱出することは叶わないだろう。
自ら強力な結界を張る花妖が、朧という術師に何を望んだのか。
愁水は、真澄の言葉を思い出した。
――この旅籠屋は、その存在を知る者しか訪れることができない。
結界への細微な〈条件付け〉は、陰陽師の得意とするところだろう。
であれば、おそらく――花妖はこの旅籠屋に強く執着すると同時に、特定の人間を《《恨んで》》いる。
結界で人間の訪れを拒みながら、この旅籠屋の存在を知る者をおびき寄せ、《《意趣返し》》の形で復讐しているのだろう。
それが、盗賊は死してなお魂を、同心は生かしたまま、〈蒐集〉に加えるという形で表れているのであれば――この旅籠屋は以前の持ち主の〈蒐集〉を巡って、惨劇の場となったのではないか。
篠突く雨が、庭の景を薄闇に沈め、昼夜の感覚を狂わせる。
囚われの身という意識はないが、激しい雨音に包まれていると、ある言葉が思い浮かんだ。
「――雨禁獄」
愁水が口中で呟くと、背後から声がかかった。
「何だ、その雨禁獄というのは?」
「ある天皇が、供養を三度延期させた〈雨〉に怒って、獄舎に閉じ込めた――って故事だ」
あれは何だ、これは何だと問われ続けているため、唐突に話しかけられようが、愁水は背を向けたまますらすらと答える。
これだけ好奇心旺盛で、よく一所にじっとしていられるものだと思うが、その正体――元が〈花〉であると考えれば、得心もいく。
「そんなもの、雨の一部を捕えただけではないか。全てを手に入れたとは言えぬ――」
愁水の前に回り込んだ屋敷の主は、不意に言葉を詰まらせた。
「……天地万物を閉じ込めることは、出来ぬか」
花妖は寂しげな自嘲の笑みを浮かべたが、愁水に諭すつもりは毛頭ない。
「俺といて、夜は短くなったか?」
「どうであろうな……」
愁水の問いかけに、花妖は小さく答えた。
――〈善治郎〉を失ってからだ。夜がこれほど長くなろうとは、思わなんだ……。
二日目の晩に、この花妖がそう漏らしたのだ。
言葉の端々に、善治郎――旅籠屋の主人であった〈故人〉と語らったであろう日々への、焦燥と思慕が滲み出ている。
「何だって、化物は手前の正体を当てさせたがるんだろうな」
愁水のぼやきに、花妖は袖で口を覆い、くつくつと笑ってみせた。
「そなたは知らぬのだな。正体を知られ、名を呼ばれることの幸福を……」
この化物は繰り返し、《《山吹色》》の着物の袖で、《《口を隠す》》。
――いはで思ふぞ。
言わずに、思う。
その言葉で思い出すのは、中宮が侍女に詠んだ歌だ。
――心には下ゆく水のわきかへり 言はで思ふぞ言ふにまされる
口には出さずに、あなたを想う。
その想いは、口に出して言うよりもずっと、優っている――。
「あんたは、山吹――」
「……本当に、そう思うか?」
花妖が、顔にぞくりとするような喜色を浮かべた。
愁水は花妖が身につけている、山吹色の――善治郎が花妖に贈ったという着物を、見遣った。
――違う。
この花妖の正体は、山吹では、ない。




