花妖(1)
――降り止まぬ雨は、器に封じて、牢獄に入れてしまいましょう。
*
俄雨の降りしきる、黄昏時。
うらぶれた旅籠屋――茅葺の屋根は深く苔生し、軒先の提灯は破れたまま、入り口の暖簾は文字も判別しかねるほど色褪せた――その軒先で、愁水は〈時〉が来るのを静かに待っていた。
宿場町の外れ、竹藪に囲まれた旅籠屋の周辺は、人影一つない。
少し歩けば、物資を運ぶ人や馬が盛んに行き交い、宿場町に相応しい賑わいぶりなのだが――。
滝のような雨が遠景を灰色に沈め、水墨画さながらの風情を漂わせている。
雨樋から流れ落ちる水の音も凄まじく、永久に閉じ込められそうな勢いだった。
「――おや、災難でしたな。急に降られましたか」
旅籠屋から白髪混じりの男が顔を出し、にこやかに近づいてきた。身なりの良い好々爺、といった風体だが――その目は灰色に濁り、およそ生気が感じられなかった。
――操られてやがるな。
「邪魔をしたな。すぐに退くから――」
愁水が立ち去ろうとすると、《《案の定》》、引き留められた。
「今日は他に客もいないし、是非お上がりなさい。お仕事帰りですかな?」
「絵の注文伺いで、客の逗留先まで出向いたところだ」
嗣巳に告げたのと同じ〈嘘〉を口にすると、男の目の色が変わった。
追い返されるか、と危惧したが――。
「――絵師? それはすごい。さあさ、どうぞこちらへ……」
男に促され、旅籠屋の暖簾をくぐり、十二畳ほどの奥座敷に通された。
竹材の格天井に、浅割りの障子。室内は湿って黴臭く、天井には蜘蛛の巣が張っているが、床の間の誂えは塗り框(*)に畳敷きの本床(*)で、好事家の隠居所を思わせる。
「それで、どんなのを描かれるので?」
男が目を細めて、水を向ける。
「化物絵ばっかりだ」
「――それはいい」
何がだ、と問い返そうとすると、隣の座敷から身じろぐような物音が聞こえてきた。
「隣の座敷には、誰かいるのか?」
「なに、〈蒐集物〉が崩れたのでしょう。お目にかけましょうかな?」
愁水の返事を待たず、男が一寸ほど障子を引き――その隙間から白い腕がぬるりと這い出て、男の顔を掴んだ。
掴まれた男は抵抗もせず、人形のように崩折れる。
赤みがかった――くすんだ山吹色の着物の袖が揺れて、男を引き摺ったまま、誘うように隙間の奥へと消えた。
愁水が隣の座敷に踏み込むと、〈白い腕の主〉が振り返った。
長い髪を王朝時代の姫君のように垂髪にしているが、童のようにも見えて、男女の区別はつかない。
三日月に細められた目は美しく、冷たかった。
「――もっと近う寄れ。人間は〈蒐集〉が好きであろう? これが、我のとっておきだ」
低く柔らかな声は弾んで、無邪気な印象を与える。
しかし、その背後には黒羽織の男が数名、両手を手鎖で縛られ、壁を背に項垂れていた。
肩が微かに上下しているため、命に別条はなさそうだが――。
――〈囚われの同心〉か。
真澄から事前に聞いていた通り、この化物は旅籠屋に近づく人間を閉じ込めて、弄ぶ。
人間を誘い込むために、人間を操る――文字通りの傀儡遊びというわけだ。
朧との何らかの〈制約〉のもと、この旅籠屋には結界が張られており、その存在を知る者にしか姿を現さないのだという。
囚われの同心達の様子を見るに、《《この旅籠屋では》》飲み食いせずとも生存が可能らしい。
それはつまり、外界と隔絶され、時の流れがない――擬似的な異界といっていいだろう。
「《《これ》》は飽いたな」
山吹色の袖が揺れ、ほっそりとした手が掴んでいた男の顔を持ち上げる。
その耳元に唇を寄せ、男の名前らしきものを囁きかけた途端、体が白骨となり、乾いた音を立てて床に散らばった。
――反魂の術。
伝承によれば、〈造られた死者〉の正体を明かせば、術者も溶けて消えるはずだが。
〈主〉は――〈花妖〉は、涼やかに微笑んでいる。
「見ろ、不思議なものだ。《《どんな者でも》》、この姿は美しい」
残された男の着物から、蛍に似た光がふわりと飛び立とうとするのを、〈主〉が無情にも両手で捕らえてみせた。
童と同じ仕草で、捕まえた光を――人魂を、虫籠に入れてしまう。座敷にはそのような虫籠が、無数に並んでいた。
――さながら、人間の標本だ。
愁水の表情を見て、花妖が笑いながら手を伸ばしてきた。
「人間も、同じことをしているだろう?」
「生憎、俺の趣味じゃねえ」
花妖の指先が、愁水の額に触れる。無邪気に笑っていた花妖が、目を見開いた。
「何だ。そなたの〈記憶〉、我の蒐集にあるぞ」
「そいつを返してもらいに来た」
花妖が愉快げに笑い声を立てた。
「そなた、なかなか面白かったぞ。手放すのは惜しいが、せっかく本体が我の手に飛び込んできたのだからな……一つ、〈賭け〉をしよう」
傀儡にも飽いたと、花妖の手が無造作に同心の首を掴む。
「化物贔屓の絵師。我の名を当て、襖に《《描いて》》見せよ」
花妖が顎で示した先に、幾筋もの血痕の走る襖があった。
花妖の仕業か、それとも――。
どうする、と花妖が視線で問いかけてくる。愁水は腕を組み、鷹揚に言い放った。
「――その賭け、乗ってやる」
――――
*框:床の間と畳の境目に取り付ける横木。塗り框は表面に漆などを塗って仕上げた床框。
*本床:最も格式の高い正式な床の間の形。




