幕間 神の嫁
――その城下町では、奇妙な神を祀っていた。
山間の高台にある鳥居に降り立ち、無害そうな狸の姿に化けた嗣巳は、眼下の景――緩やかな山並みと、入江の湖岸に沿って四方に広がる城下町を見下ろした。
汀には武家屋敷が立ち並び、湖に突き出した岬の先端には、栄華を誇示する白銀の天守閣が、巨大な牙を剥くように聳え立っていた。
静かな入江を、侵食するように――。
今までに感じたことのない〈気配〉も相まって、嗣巳にはその栄華が、酷く歪なものに見えた。
――此処は、遠州か。
鼻を鳴らし、場を特定する。
武士とその郎党に刻まれた挙句、伝承によって身体を諸国に飛ばされたあと、嗣巳は覚醒と微睡みを繰り返していた。
その合間にも、人間は様々な芸能を介して〈鵺退治〉を再演し、鵺由来の呪物を生み出しては、己の欲を満たす〈道具〉として使い尽していった。
人間の恐怖心は化物の恰好の〈食い物〉だが、恨み辛みと欲の入り混じった〈気〉は、化物にとっても穢れが強すぎる。
身の内に毒のような穢れが溜まり、身動きすらままならなくなった頃、嗣巳が次に目覚めたのがこの城下町であった。
鵺の頭部が飛来した、と言い伝え、鵺代と名を変えた土地。その縁に引っ張られたらしい。
――酷い〈腐臭〉だな。
熱を孕んだ重苦しい気配が、社の奥――地下の洞穴に蠢いている。
耳を研ぎ澄ませると、〈鳴き声〉が微かに聞き取れた。
赤子に似ているが――ぞっとするような、怨嗟と哀切の声だ。
「――哀れでしょう?」
不意に、足元から声がした。巫女装束の若い娘が、切れ長の目を細めて嗤っている。
嗣巳の本性を、見透かすように。
「……何を封じている?」
狸のふりをしても意味はなさそうだと判じて、そう問いかけてみる。
「神様の〈成りそこない〉よ」
思った通り、巫女は世間話のような気軽さで応じた。
「成りそこない……?」
「《《そこなわせた》》、と言うほうが正しいわね。さて、そろそろ慰めてあげないと。あなたは……弱っているみたいだから、近づかないほうがいいわよ」
うっそりと嗤う巫女は、その身に穢れを溜め込みながらも、平然と〈鳴き声〉の方へと歩いていく。
「お前は、人間なのか?」
思わずそう問いかけたのは、その身の――〈器〉の強度が、化物から見ても桁外れだったからだ。
おそらく、理不尽に幽閉された〈成りそこない〉の力は洞穴の底で淀み、穢れの渦となって循環を繰り返し、醜悪なまでに膨れ上がっているだろう。
その穢れは、近づく者の身を、内から焼き尽くす瘴気――劇物であるはずなのだ。
「私は〈双子の生き神〉で、〈神の嫁〉だもの」
その言葉の意味するところを、嗣巳は一拍遅れで悟った。
「――下らんな」
「そう言ってくれると思ったから、言ったのよ」
無邪気に笑う様に、毒気を抜かれそうになる。
しかし不意に、二つの足音が石段を駆け上がってきた。
「静流、いるかっ? 珍しい花を見つけたんだ! 女子はこういうのが好きなんだろうっ?」
嗣巳は即座に、境内の楠の大木へと身を隠した。
明朗闊達な声。喧しいと思いつつ、淀みのない声音に興が湧き、嗣巳は枝葉の隙間からその顔を覗き見た。
彫りの深い、引き締まった顔立ちに、大柄な体躯。
腰の刀同様、武家らしく抜き身の刀のように鋭い眼光を宿しているが、巫女の手に山吹色の大輪の花を束で押しつける様は、武骨ながら人懐っこい獣のようでもあり、どこか愛嬌がある。
「――ふ、ふふ」
花を受け取った静流が、耐えきれない様子で笑いだした。
「気に入ったか?」
「ええ、とっても笑えるわ。ありがとう、鷹臣」
どこか含みのある返答だったが、鷹臣と呼ばれた若者は得意げに背後を振り返った。
「なっ、無茶をした甲斐があっただろ?」
影のように付き従っていた狩衣の若者が、「手当てを……」と言いかけたのを、鷹臣は慌てて遮った。
「余計なことを言うな、維月」
「もう、今度は何をしたの?」
静流に問いかけられ、維月は気まずそうに応じた。
「先々代の、崩落した高台の薬草園跡によじ登り――」
「維月、言うなと言っただろうに」
「姫巫女様のご命令ですから。姫様からも、鷹臣様に言ってやってください。次期城主殿が、危険なことをなさいますな、と」
砕けた調子ではあるが、控え目で、どこか陰の気を纏った維月の目は、巫女と城主の息子を熱心に――熱心すぎるほどに、見つめていた。
「薬草園はほとんど枯れてしまっていてな。残っていたのは、この向日葵だけだった」
鷹臣の言葉に、静流の顔が僅かに陰る。その変化を誤魔化すように、静流は勤めを理由にして、男二人を追い返した。
「――ねえ、まだいるんでしょう? 私が戻るまでこの花を預かっていてくれたら、〈いいもの〉をあげるわよ」
静流が楠を見上げ、真っ直ぐに呼びかけてくる。胡散臭いことこの上ないが、見たことのない花といい、先程の会話といい――好奇心が疼かなかったといえば、嘘になる。
「向日葵、と言うのか」
狸の姿では持ちきれない。仕方なく、嗣巳は人間の神主に化けてみせた。
線の細い、中性的な若者の姿だ。別段、特定の者を真似たわけではなく、人間に化けると勝手にこうなる。
人間に警戒されにくい姿ではあるものの、この容姿は人間の心を酷く掻き乱すものであるらしく、弊害もあるのだが。
しかし静流は平然と、向日葵を嗣巳の腕に押しつけた。
「そうよ。『――花よからず、もっとも下品なり』」
と、笑いながら何かの一節を付け加える。
「この花が、か?」
「大きすぎて、好まれていないのよ。……ふふ、そんな花を得意げに……本当に、愛らしい。勤めに持って行って、枯らしてしまうのは忍びないわ」
嗣巳は何か独特な感性を感じ取ったが、口には出さずにおいた。
「――今夜は祭りがあるの」
機嫌よく歩き出した静流が、振り返って言った。
「神饌がたくさん供えられるけど、〈あの子〉は食べられないし、私だって食べきれないわ。人払いをしておくから、気が向いたら食べにいらっしゃい」
食い物になど、興味はなかった。けれど律儀に花を持って行ってやったのは、そこに嗣巳以外の化物が忍び込んでいたからだ。
巫女である静流がどう対処するのか、見物してやろうと思ったのだ。
「……これは、呪いよ。人の夢を渡り歩いて、〈力〉をつけなさい――獏。いつか〈私の夢〉を、誰かの夢に繋げられるように」
「――えげつないな」
獏が這々《ほうほう》の体で去って行くのを見届けてから、嗣巳は姿を現して言った。
「可哀想だけれど、必要なことなのよ」
「お前は、〈夢見〉なのか?」
遠くを見据える眼差しに、嗣巳はそう気づいて問いかけた。
「未来を見通すほどではないけれど、少しだけ、ね。――視えるからには、抗わないと」
その強い眼差しに惹かれた――というわけではないが、鵺伝説が強く根付いたこの地に留まるうち、欠損の痛みが和らぎ、四肢は再生の兆しを見せた。
にもかかわらず、嗣巳は《《その後》》十年ほど、その地から遠ざかっていた。
維月と呼ばれた〈流れ者の陰陽師〉の策により、地下の洞穴に向かった鷹臣は戻らず、静流もまた、嗣巳に双子を預けたまま《《眼前で》》消えたのだ。
その女が残したのは、果たして神の子だったのか、愛する男との子だったのかはわからない。
嗣巳は〈藤波〉と名乗る神主に双子を手渡し、その地を離れた。
そのまま、二度と戻らないつもりであったのだ。
双子の重み、温かさなど、思い出さなければ――。
――名前を、呼んであげて。
あの時、嗣巳もまた、呪われていたのだろうか。
白狐に襲われ、目覚めない愁水を抱えてその名を呼びながら、嗣巳は血を吐くように呻いた。
「――早く起きろ、愁」
呪いでも構わない、と思った。
この男が再び目を覚まして、平生のように、憎まれ口を叩くのならば。




