白狐(5)
*
――嗚呼、寂しい。
愁水の足元で、大勢の狐が前足で顔を覆って、泣いていた。
頭を撫でてやっても、いっこうに泣き止まない。一匹ずつ名を呼んで慰めてやりたいが、己の名すら分からないという。
困ったな、と愁水は独り言ちたが、何もない真っ白な場にいることも、己が十かそこらの童のように小さくなっていることも、別段、奇妙だとは思わなかった。
ただひたすら、行き場のない哀しみがこちらにも伝播するようで、立ち去ろうという気になれなかった。
――こいつらは、俺と同じだ。
触れたとき、そう直感したのだ。
守るべき血族がいて、その血族と身を寄せ合って生きてきた。他人はひたすら他人であって、その血族を失えば、己の名を呼ぶ者もいなくなる――。
「――大事なものを守れなかったぶん、他の誰かを守って、帳尻を合わせたいのね?」
不意に、愁水の隣に巫女装束の女が立った。美しい容姿ではあるが、切れ長の目は理知的な猛禽類のようで、心の内を見透かそうと、愁水の顔を覗き込んでくる。
「誰かのために身を捨てれば、守れなかった自分を許してあげられるものね?」
痛烈なその一言に、愁水は咄嗟に反論できなかった。的外れな気もするが、覚えがないとも言い切れない。
「助ける理由なんて、いちいち考えねえよ。強いて言うなら、奪われっぱなしのやつを見てると、胸がむかつくからだ」
そう答えると、巫女が声を上げて笑い、愁水を抱きしめてきた。
「何すんだよ――」
愁水は童の姿でもがいたが、巫女はその細い腕の中に、愁水をすっぽりと閉じ込めてしまった。
「少しくらい許して。こんな時しか、抱きしめてあげられないのだから」
「あんた、誰だよ? やけに突っかかってきて――」
「仕方ないじゃない。これでも、怒っているのだから」
「怒る……?」
愁水は抵抗をやめた。穏やかな声音だが、逆らいがたい凄みのようなものがある。
「ほら、あそこにも。あなたが無茶をするから、〈あの子〉は潰れてしまいそうよ」
巫女の指差す先に、四つ足の奇妙な獣がいた。
継ぎ接ぎのような大きな体躯に、鋭い爪と牙――。けれど巫女の言うように、力なく項垂れている。
「さあ、行ってあげて」
巫女の腕の力が、するりと抜ける。愁水は巫女の元を飛び出して、その獣へと駆け寄った。
巫女が愁水にそうしたように、手を伸ばして、頭ごと抱きしめてやる。獣はされるがまま、愁水に大人しく身を預けていた。
どんな凶相だろうが、愁水には恐ろしいと思えなかった。
この獣は、深く傷ついている。しかも、その原因の一つは愁水であるらしい。
「あなたにとっても、その子が〈特別〉だといいわね」
「特別……?」
「あなたは助けを求めるモノに、手を差し伸べるでしょう。助けを求めることすらできないモノには、より優しく。同時に線引きもしているから、傾倒しすぎることもない。――誰に対しても」
巫女の言葉の意味がわからず、愁水は振り返って眉をひそめた。
「何が言いたいんだ?」
「〈特別〉っていうのはね、その相手だけ、例外ってことよ。そんな相手ができたら、己の〈規範〉なんてものは、捨ててしまいなさいね。深く踏み込みたければ、そうすればいいの。――後悔しないように」
「あんたは、後悔したんだな」
愁水の切り返しに、巫女は困ったように笑ってみせた。
「相手を思って身を引くって、ある場面では、とても薄情なことよ。最後まで手を放さずにいることのほうが、もっとずっと大変で――何ものにも代えがたいほど、確かな救いになるのだから」
黙っている愁水に苦笑して、巫女が別れの挨拶のように、付け加えた。
「あなたなら、望む結末を掴み取れると、信じているわ」
「なんで、そう思うんだ?」
「あなたが絶対に、諦めない人だから。大事だと認めたら、掴んで放さないでしょう?」
見透かすような言動がどうも気に食わなくて、愁水は尊大に腕を組んだ。
「あんた、さっきからごちゃごちゃ言ってるけどな。俺は、俺がそうしたいと思ったことしか、やらねえよ」
巫女は軽く目を瞠り、眩しそうに微笑んだ。
「それでこそ、私の――」
女の最後の言葉が、愁水には聞き取れなかった。
愁、と己を呼ぶ、必死な様子の声が響いて、気を逸らせなくなる。
――帰ってやるか。
愁水は小さく笑っていた。
こんなにも身を案じてくれる者がいるのであれば、《《多少は》》、無茶を控えようという気にもなるものだ。
「ほら、お前らも一緒に帰ろうぜ。俺が何とかしてやるから」
泣いていた狐たちが、のろのろと顔を上げる。一匹が近づき、愁水の手にそっと、濡れた鼻を押しつけた。
「――おい、息してるか?」
嗣巳の顔を見上げた愁水は、〈珍しいもの〉を見たと思った。
仰向けで地面に寝転がったまま、俯いている嗣巳をまじまじと観察する。
当人が覗き込むような姿勢でいるのだから、愁水からは嗣巳の顔がよく見える。
「……は?」
愁水が目覚めると思っていなかったのか、嗣巳が真顔のまま硬直する。
「お前のほうが死にそうな顔だぜ、嗣巳」
そう感想を述べると、嗣巳の顔が怒り一色に染まった。
「……土葬と火葬、どちらがいいか選ばせてやる」
冷え冷えとした声音。見る者を震え上がらせるような凶相だが、愁水の目にはなぜか、弱った狸がちらついてしまう。
「また、世話かけたな」
手を伸ばして、嗣巳の頭を荒っぽく撫でる。特に意図はなかったが、嗣巳の顔が引きつった。
「頭がやられたのか、私を犬猫と勘違いしているのか、どちらなんだ……?」
「どっちかってえと、狸だろ」
ただの思いつきで言ったのだが、嗣巳が静かに衝撃を受けているのが伝わった。
「愁水。お前、記憶が戻ったのか?」
否定すると、嗣巳がそうだろうなと呟いて、目を逸らせる。
どうやら、《《また》》傷つけたようだ。
――そろそろ、思い出してやらねえとな。
「愁水さま……!」
跳ね起きた柊が天狗の刀を拾い、こちらに駆けてくる。
井戸の底から、愁水から引き剥がされたらしい〈白狐であったモノ〉が、溶けかけた腕を伸ばしていた。
二つの距離を測り、愁水は嗣巳の肩を掴んで引き倒した。
「おい――」
「黙って、伏せてろ」
目配せすると、嗣巳が動きを止める。
柊は愁水と嗣巳を庇うように飛び出し、無数の腕を抱きしめた。
愁水の体から追い出され、天狗の刀に怯んだそれは、抵抗する力もないほど弱っていた。
この場で穢れを祓ってやらなければ、魂も残らず、消滅しかねない。
「私だけ逃げ出して、ごめんなさい……! 助けて、あげられなくて……っ」
柊が大粒の涙を零すと、夜空から柔らかな雨が降り注いだ。
淀んだ気を洗い流していく、銀糸のような雨――。
「――白銀」
愁水の呟きに呼応して、狐の姿に戻った柊が、白銀に輝いた。
朽ちた草木が身を起こし、清らかな風が吹くと共に、場の穢れが払拭されていく。
――天狐の血脈が、目覚めた。
言祝ぐように、草花が揺れ、開花する。
無数の腕は泥となって崩れ、その中から積み重なって倒れる、白狐の群れが現れた。
柊は名を呼んだが、一度どろどろに溶けて混ざり合った白狐たちは、我を失ったまま分離できずにいる。
柊がもう一度、一から名を呼びかけたとき、三味線を抱えた滝がふらりと白狐たちに近づいた。
「……続けて。あたしが、その名に近い音を奏でるから」
滝が三味線の撥を握る。嗣巳がその様子を注視するが、その意図はわからない。
柊が名を呼び、滝が弦をしならせる。揺らぐ音は、耳ではなく、身骨に響く。
白狐の耳がぴくりと揺れ、頭をもたげる。やがて一匹、また一匹と群れから分離して、滝の周囲に集まりだした。
「あ……」
滝が、撥を取り落とした。天狐の一族の〈名〉を呼びかけるのは、音曲を介しても、相応の負担がある。
「あと少し、踏ん張れるか?」
愁水は滝が取り落とした撥を拾い、弦に当てた。
滝が頷き、愁水の手を取る。音曲の嗜みなどないが、滝が力を込めた通りに手を動かし、音を奏でる。
朝日が昇る頃には全ての白狐が名を取り戻し、愁水の筆を仮の依代として、眠りについた。




