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幽世庵モノガタリ~化物絵師と鵺~【幕末あやかしバディ×民俗学ミステリー・全3部・9月末完結予定】  作者: Yumiko
第九幕 天が泣く―白狐

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白狐(4)



「お京っ、行くな――」


 京助が叫び、霧の中に飛び出そうとする。その首にすかさず手刀を入れ、嗣巳は崩れ落ちた体を雨月に押しつけた。


「嗣巳さま、お待ちくださいっ。わたくしも――」


此処ここで、大人しく待っていなさい」


 けれど、と追いすがる雨月に、嗣巳は冷ややかに言い放った。


「――空狐くうこ眷属けんぞくに敵うとでも?」


 獣の本性をき出しにした嗣巳の一瞥いちべつに、雨月は蒼ざめた顔で後退あとずさる。


 説明するのもわずらわしく、嗣巳は袖をひるがえし、深い霧の中へと踏み込んだ。


 化物に魅入られた人間たちが列を成し、ふらふらと何処いずこかへ向かっている。


 嗣巳は地を蹴り、行列の先頭へと躍り出た。


 だが、目に入るのは目的を見失ったように右往左往する人間ばかり。愁水の匂いも蠱毒の気配も、そこで絶たれていた。


 ――どこへ行った?


 立ち止まったところへ、おびただしい血の匂いが近づいてくる。


 待ち構えていると、男装の陰陽師――真澄が、肩の傷口を押さえ、よろめきながら現れた。


「愁水、そこにいるの……?」


「余計なことばかりしてくれるな、小娘」


 顔を上げた真澄が、悔しげに唇を噛む。蠱毒を鎮めようとして、返り討ちに遭ったというところだろう。


「お願い、愁水を蠱毒に近づけないで……!」


「――それで、〈お前たちの目的〉は果たされるわけだな」


 真澄の肩が、分かりやすく揺れた。


「お前、どこまで知って……?」


おぼろの動機はどうでもいいが、私に力をつけて、〈あれ〉を喰わせる算段だろう?」


 嗣巳は芝居がかった冷笑で、真澄の動揺をわらってみせた。


 愁水が気がかりではあるが、弱みと思われるのは業腹ごうはらだ。


 ――二度と、利用などされてやるものか。


「《《二度も》》儀式に失敗しておきながら、まだ〈あれ〉を御せる気でいるのだから、強欲とは恐ろしいものだな」


「違うっ、ご当主様は強欲なんかじゃないっ」


「何を吹き込まれたか知らんが、あの男のことはおぼろと名乗る前……〈維月いつき〉と呼ばれていた頃から知っている。不気味な童で――」


「そんなこと、いまはどうでもいいっ。愁水を助けに行ってよ……!」


 真澄の必死の叫びに、嗣巳は冷笑を掻き消した。


「……何を慌てている?」


 愁水には呪符を持たせてあるし、共にいる柊は天狗の刀を携えている。


 だが、さいぜんから忍び寄るこの焦燥は、一体何なのか――。


「愁水は〈贄代にえしろ〉神社に眠るモノの器……〈依代(よりしろ)〉だから、器を欲しがるモノには無防備になるんだよっ! あんな穢れの塊を受け入れたりしたら、呪いが一気に進行して……!」


 真澄が咳き込み、唇から赤い血がこぼれる。


 〈呪い〉の一言に、嗣巳は目を細めた。嗣巳が食い止めてはいるが、いっそ進行してしまえばと、魔が差したことがないとは言えない。


 器となるにえに、〈あれ〉が施す呪いは――不老不死だ。


「不死の〈生き神〉と成る呪い。結構なことだろう?」


 嗣巳は自嘲の笑みを零した。


 古来より、大陸の皇帝、道士――数多あまたの権力者や学者が生涯をかけて熱望し、得られぬままに散っていった。


 実際の不老不死など、いつか生にくだろう。不老不死ではない嗣巳が、既にそうであるように。


 けれど、人の生はあまりに短い――。


「器に強度があったって、中身は――〈心〉は耐えられないっ。ご当主様の《《試作》》は皆そうだった……! あんたは、愁水を空っぽの人形にしてもいいの?」


「――何?」


 問い返した声が、わずかにかすれていた。


「このまま、何も思い出さずに過ごして欲しいって、私も思ったよ。でも、やっぱり愁水に記憶を取り戻して欲しい。ご当主様に背くことになったっていい。愁水が、《《愁水らしく生きていないと》》、意味がない……あんたはそう思わないのっ?」


「貴様の説教など――」


 苛立ちもあらわに詰め寄ろうとしたが、はねの溶けかけた黒蝶が、嗣巳の視界を遮った。


 愁水を見張っていた真澄の式神が、痛々しい姿で戻ってきたということは――。


「行って! 愁水が危ない……っ」


 そう叫んだ真澄の目を、正面から見据える。逡巡したのはわずかな間で、嗣巳は黙って黒蝶の後を追った。


 常人であれば方向を見失う〈化物のかよ〉を疾走するも、嗣巳の耳には真澄の言葉が木霊こだましていた。


 ――愁水が、愁水らしく生きていないと、意味がない……。


 不老不死となれば、愁水もその長すぎる生をむようになるだろう。


 そうなれば、愁水らしさは失われるのだろうか。


 それでも、己は〈道連れ〉がいることに、満足するのだろうか――。


 水代みよの体に封じられたあの日、嗣巳は〈儀式〉の直前に《《背後から》》射られて気を失ったため、その後に起きたことを知らない。


 しかし双子が互いを守るために、嗣巳を見捨てることは充分にあり得た。嗣巳をあの場までおびきき寄せ、その身を差し出したのだ、と。


 双子が危険を冒してまで、嗣巳を守る義理などありはしない。


 ――裏切られたと感じるほうが、滑稽こっけいなのだ。


 そう納得しつつも、ぎの体に相応ふさわしく、心は千々《ちぢ》に乱れている。


 双子を憎む気にもなれず、さりとて己の〈我欲〉を捨てて、人間としての幸福を純粋に願ってやることもできず――。


 物思いに沈みかけた嗣巳の前で、黒蝶が破裂した。


 既に化物の道を通り抜けており、嗣巳は見知らぬ山麓さんろくに飛び出していた。辺りは邪気に満ちて、腐り落ちた草木が異臭を放っている。


何処どこにいる……?」


 道標を失い、焦りをにじませた嗣巳の耳に、かすかな水音が届いた。


 水面を叩き、苦しげにもがく音――。


 愁水の持つ筆は、嗣巳の血を吸わせてある。その気配と水の音源が重なった途端とたん、血の気が引いた。


 密集した木立の奥に、古井戸が見える。その周囲に滝と京、柊が倒れているが、愁水の姿だけがない。


 嗣巳は迷わず井戸の底に飛び降り、沈みかけていた愁水の体を引き上げて、跳躍ちょうやくした。


 愁水の体を地面に横たえ、すぐに肩を抱き起こしたが、愁水は糸の切れた人形のようにぴくりとも動かない。

 

 初めはただ、気絶しているだけだと思っていた。


 ――表情がごっそりと欠落した、愁水の虚ろな目を見るまでは。


「――おい、起きろ」


 頬を打ったが、愁水の目は何も映していなかった。


 心臓が、早鐘を打つ。


 体を奪われたわけではない。魂も、確かにそこに在る。


 では、失われたものは何か。


 ――心?


 人間の心のことなど、嗣巳にわかるはずがない。


 口に指を入れ、強引に水を吐かせたが、体が咳き込むばかりで反応らしい反応がない。


 ――これでは、手の施しようがない。


 救う術があるのかどうかも、わからない。


 愁水を抱える手に違和感を覚え、嗣巳は緩慢かんまんに己の手を見遣った。


 指先が、微かに震えていた。


 何故かと、己に問うまでもない。


 七百年もの時を生きる〈大妖〉である己が、初めて味わう喪失の痛みに、身動き一つ取れずにいるのだ。


 ――よお、《《お帰り》》。


 愁水の何気ない声がよみがえる。


 己が、守っているつもりでいた。


 だが、本当に守られていたのは――。


「……この身など、くれてやればよかったな」


 嗣巳の口から、言葉が零れ落ちていた。


 失うことが、これほど痛みをともなうのであれば。


 最初から、にえの役を《《代わって》》やればよかったのだ。


 双子が嗣巳を恐れず、怪我を手当てしてくれただけで、充分だったはずなのだから。


 ――双子のどちらも救えず、何が〈大妖〉だ。


 嗣巳がうつむきかけたそのとき、脳裏に〈声〉が響いた。



『――つぐっ、諦めるなっ!』



 はた迷惑なほど大きな、娘の声。


 まさか、とは思ったが。


「……水代みよ?」


 そう問い返すが、応える声はない。


 そこへ、今度は背後から声がかかった。


『――その子の名前を、呼んであげて』


 目を見開く嗣巳に、体を起こした滝がゆったりと微笑みかける。


 滝では、ない。《《誰かが》》、滝に乗り移っている。


 かつて、嗣巳にその言葉をかけたのは――。


 滝の手が、持ち歩いていなかったはずの三味線を抱えて、音をかなで始める。


「愁水……」


 嗣巳は歯を食いしばり、かすれた声でその名を呼んだ。


 ――愁、と。


 水代がそう呼んでいたように。何度も、何度も。

 




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