白狐(4)
*
「お京っ、行くな――」
京助が叫び、霧の中に飛び出そうとする。その首にすかさず手刀を入れ、嗣巳は崩れ落ちた体を雨月に押しつけた。
「嗣巳さま、お待ちくださいっ。私も――」
「此処で、大人しく待っていなさい」
けれど、と追い縋る雨月に、嗣巳は冷ややかに言い放った。
「――空狐の眷属に敵うとでも?」
獣の本性を剥き出しにした嗣巳の一瞥に、雨月は蒼ざめた顔で後退る。
説明するのも煩わしく、嗣巳は袖を翻し、深い霧の中へと踏み込んだ。
化物に魅入られた人間たちが列を成し、ふらふらと何処かへ向かっている。
嗣巳は地を蹴り、行列の先頭へと躍り出た。
だが、目に入るのは目的を見失ったように右往左往する人間ばかり。愁水の匂いも蠱毒の気配も、そこで絶たれていた。
――どこへ行った?
立ち止まったところへ、夥しい血の匂いが近づいてくる。
待ち構えていると、男装の陰陽師――真澄が、肩の傷口を押さえ、よろめきながら現れた。
「愁水、そこにいるの……?」
「余計なことばかりしてくれるな、小娘」
顔を上げた真澄が、悔しげに唇を噛む。蠱毒を鎮めようとして、返り討ちに遭ったというところだろう。
「お願い、愁水を蠱毒に近づけないで……!」
「――それで、〈お前たちの目的〉は果たされるわけだな」
真澄の肩が、分かりやすく揺れた。
「お前、どこまで知って……?」
「朧の動機はどうでもいいが、私に力をつけて、〈あれ〉を喰わせる算段だろう?」
嗣巳は芝居がかった冷笑で、真澄の動揺を嗤ってみせた。
愁水が気がかりではあるが、弱みと思われるのは業腹だ。
――二度と、利用などされてやるものか。
「《《二度も》》儀式に失敗しておきながら、まだ〈あれ〉を御せる気でいるのだから、強欲とは恐ろしいものだな」
「違うっ、ご当主様は強欲なんかじゃないっ」
「何を吹き込まれたか知らんが、あの男のことは朧と名乗る前……〈維月〉と呼ばれていた頃から知っている。不気味な童で――」
「そんなこと、いまはどうでもいいっ。愁水を助けに行ってよ……!」
真澄の必死の叫びに、嗣巳は冷笑を掻き消した。
「……何を慌てている?」
愁水には呪符を持たせてあるし、共にいる柊は天狗の刀を携えている。
だが、さいぜんから忍び寄るこの焦燥は、一体何なのか――。
「愁水は〈贄代〉神社に眠るモノの器……〈依代〉だから、器を欲しがるモノには無防備になるんだよっ! あんな穢れの塊を受け入れたりしたら、呪いが一気に進行して……!」
真澄が咳き込み、唇から赤い血が零れる。
〈呪い〉の一言に、嗣巳は目を細めた。嗣巳が食い止めてはいるが、いっそ進行してしまえばと、魔が差したことがないとは言えない。
器となる贄に、〈あれ〉が施す呪いは――不老不死だ。
「不死の〈生き神〉と成る呪い。結構なことだろう?」
嗣巳は自嘲の笑みを零した。
古来より、大陸の皇帝、道士――数多の権力者や学者が生涯をかけて熱望し、得られぬままに散っていった。
実際の不老不死など、いつか生に飽くだろう。不老不死ではない嗣巳が、既にそうであるように。
けれど、人の生はあまりに短い――。
「器に強度があったって、中身は――〈心〉は耐えられないっ。ご当主様の《《試作》》は皆そうだった……! あんたは、愁水を空っぽの人形にしてもいいの?」
「――何?」
問い返した声が、僅かに掠れていた。
「このまま、何も思い出さずに過ごして欲しいって、私も思ったよ。でも、やっぱり愁水に記憶を取り戻して欲しい。ご当主様に背くことになったっていい。愁水が、《《愁水らしく生きていないと》》、意味がない……あんたはそう思わないのっ?」
「貴様の説教など――」
苛立ちも露わに詰め寄ろうとしたが、翅の溶けかけた黒蝶が、嗣巳の視界を遮った。
愁水を見張っていた真澄の式神が、痛々しい姿で戻ってきたということは――。
「行って! 愁水が危ない……っ」
そう叫んだ真澄の目を、正面から見据える。逡巡したのは僅かな間で、嗣巳は黙って黒蝶の後を追った。
常人であれば方向を見失う〈化物の通い路〉を疾走する間も、嗣巳の耳には真澄の言葉が木霊していた。
――愁水が、愁水らしく生きていないと、意味がない……。
不老不死となれば、愁水もその長すぎる生を倦むようになるだろう。
そうなれば、愁水らしさは失われるのだろうか。
それでも、己は〈道連れ〉がいることに、満足するのだろうか――。
水代の体に封じられたあの日、嗣巳は〈儀式〉の直前に《《背後から》》射られて気を失ったため、その後に起きたことを知らない。
しかし双子が互いを守るために、嗣巳を見捨てることは充分にあり得た。嗣巳をあの場まで誘き寄せ、その身を差し出したのだ、と。
双子が危険を冒してまで、嗣巳を守る義理などありはしない。
――裏切られたと感じるほうが、滑稽なのだ。
そう納得しつつも、継ぎ接ぎの体に相応しく、心は千々《ちぢ》に乱れている。
双子を憎む気にもなれず、さりとて己の〈我欲〉を捨てて、人間としての幸福を純粋に願ってやることもできず――。
物思いに沈みかけた嗣巳の前で、黒蝶が破裂した。
既に化物の道を通り抜けており、嗣巳は見知らぬ山麓に飛び出していた。辺りは邪気に満ちて、腐り落ちた草木が異臭を放っている。
「何処にいる……?」
道標を失い、焦りを滲ませた嗣巳の耳に、微かな水音が届いた。
水面を叩き、苦しげにもがく音――。
愁水の持つ筆は、嗣巳の血を吸わせてある。その気配と水の音源が重なった途端、血の気が引いた。
密集した木立の奥に、古井戸が見える。その周囲に滝と京、柊が倒れているが、愁水の姿だけがない。
嗣巳は迷わず井戸の底に飛び降り、沈みかけていた愁水の体を引き上げて、跳躍した。
愁水の体を地面に横たえ、すぐに肩を抱き起こしたが、愁水は糸の切れた人形のようにぴくりとも動かない。
初めはただ、気絶しているだけだと思っていた。
――表情がごっそりと欠落した、愁水の虚ろな目を見るまでは。
「――おい、起きろ」
頬を打ったが、愁水の目は何も映していなかった。
心臓が、早鐘を打つ。
体を奪われたわけではない。魂も、確かにそこに在る。
では、失われたものは何か。
――心?
人間の心のことなど、嗣巳にわかるはずがない。
口に指を入れ、強引に水を吐かせたが、体が咳き込むばかりで反応らしい反応がない。
――これでは、手の施しようがない。
救う術があるのかどうかも、わからない。
愁水を抱える手に違和感を覚え、嗣巳は緩慢に己の手を見遣った。
指先が、微かに震えていた。
何故かと、己に問うまでもない。
七百年もの時を生きる〈大妖〉である己が、初めて味わう喪失の痛みに、身動き一つ取れずにいるのだ。
――よお、《《お帰り》》。
愁水の何気ない声が蘇る。
己が、守っているつもりでいた。
だが、本当に守られていたのは――。
「……この身など、くれてやればよかったな」
嗣巳の口から、言葉が零れ落ちていた。
失うことが、これほど痛みを伴うのであれば。
最初から、贄の役を《《代わって》》やればよかったのだ。
双子が嗣巳を恐れず、怪我を手当てしてくれただけで、充分だったはずなのだから。
――双子のどちらも救えず、何が〈大妖〉だ。
嗣巳が俯きかけたそのとき、脳裏に〈声〉が響いた。
『――嗣っ、諦めるなっ!』
傍迷惑なほど大きな、娘の声。
まさか、とは思ったが。
「……水代?」
そう問い返すが、応える声はない。
そこへ、今度は背後から声がかかった。
『――その子の名前を、呼んであげて』
目を見開く嗣巳に、体を起こした滝がゆったりと微笑みかける。
滝では、ない。《《誰かが》》、滝に乗り移っている。
かつて、嗣巳にその言葉をかけたのは――。
滝の手が、持ち歩いていなかったはずの三味線を抱えて、音を奏で始める。
「愁水……」
嗣巳は歯を食いしばり、掠れた声でその名を呼んだ。
――愁、と。
水代がそう呼んでいたように。何度も、何度も。




