白狐(3)
「――やだっ、愁水先生じゃない。どうしたの?」
茶屋に集まっていた娘の一団が、愁水に気づいてにわかに色めき立つ。
娘らは神職姿の嗣巳には遠慮がちだが、それでも密かに、狩人のような視線を向けてくる。
品定めされるのが煩わしく、嗣巳は物珍しそうに通りを見回す柊を連れて、距離を取った。
「よお、久しぶりだな。最近は、妙なことは起きてねえか?」
愁水が話を振ると、我先にと声が上がった。
「聞いてよ先生。ここのところ、真夜中に獣の鳴き声がするんだけど――」
「もう、それはあたしが言おうと思ったのにっ。狐の鳴き声でしょ?」
「ええ、鵺じゃなかった?」
「鵺の声は、女の悲鳴に似ていると言うが――」
愁水が呟くと、やだ愁水先生、と弾んだ声が上がる。その語頭につく「やだ」が何を指すのか、嗣巳には分からない。
「――とにかくね、不気味な鳴き声ってこと。〈神隠し〉の騒ぎもあるし、無関係じゃないかもしれないわ」
「神隠し? 行方不明者がいるのか」
愁水が問い返すと、
「老若男女問わず、よ。最初は文吉っていう職人だったかしら」
「あら、文吉さんなら帰ってきたじゃない」
「でも、自分の名前も思い出せないって話じゃない。ずうっとぼんやりしててさ」
「あとは……有名な版元さんの家も、娘さんが夜に出ていったきりって聞いたけれど。ね、気になるなら、迷子探しの石標を覗いてみたら?」
「ああ、そうさせてもらう。いつもありがとな」
娘らが名残惜しそうな声を上げながら、嗣巳には意味ありげな流し目を送ってくる。
返礼として微笑んではみたが、愁水は何とも言えない顔だ。
「まさか、それで笑ったつもりかよ?」
「愛嬌について、お前にとやかく言われたくないな」
「何言ってやがる。俺は愛嬌たっぷりだろうが」
「ふてぶてしい、の間違いだろう」
軽口を叩きながら、愁水は一石橋で足を止めた。東西にかかる八つの橋が一望できるため、〈八ツ見橋〉とも呼ばれる橋だ。
その橋の南際に、子どもの似顔絵を張った石標が立っていた。
「これが〈満よひ子の志るべ〉、迷子探しの石標だ」
この辺りは盛り場だから、迷子も多い。迷子が出た場合は町内が保護することになっており、保護者が見つかるまでの養育費は町の地主が出し合うため、このような仕組みができたのだ。
迷子を探す者は右に、保護した者は左に紙を貼るのだが――。
「……清野屋の、京」
右に京の名を見つけた愁水は、歩き疲れたらしい柊を嗣巳の腕に預け、素早く身を翻した。
*
京助の店は閉まっており、愁水は裏長屋に回って京助を訪ねた。
「京助、お京は?」
「ああ……今朝がた、千里が連れ戻してくれた……」
やつれた様子の京助が、のっそりと戸口に現れた。
「お京はな、同じ長屋に住む、小せえ娘の面倒を見てやってたんだよ。親が帰って来ねえってんで、長屋みんなで面倒を見てたんだけどよ……」
上がってくれ、と京助が力のない声で促す。
長屋には既に、滝と雨月の姿があった。滝の腕に抱かれて、京はぼんやりと虚空を見つめている。
「愁さん……」
滝がすがるように、愁水を見上げてくる。
京を抱きながら、三味線の撥を握るその指は皮が剥けて、赤く腫れている。獏のときのように、必死に呼び続けていたのだろう。
愁水は滝の手から、そっと撥を取り上げた。
「姐さん、その辺でやめておけ。今回は勝手が違うみてえだ」
視線をずらせば、布団に寝かされている青年――京が千里と名付けた獏が、苦悶の表情で眠っている。
「京は、その娘が〈化物の行列〉について行こうとするのを止めに入って、身代わりになったんだ。千里のおかげで助かったみてえだが……その千里も、話の途中で倒れちまって……」
この有様を見れば、助かったとは言い難い。
「二人とも、魂は抜けていない」
愁水が目で問うと、嗣巳が簡潔にそう答えた。
「お京も千里も、助かるってことか……?」
一睡もしていないらしく、そう呟いた京助がふらりとよろめいた。
「お京は目を離しちまうと、どこかに行こうとすんだよ。そんで、愁水を呼ぶのに手間取っちまって……。みんな、来てくれてありがとな……」
「どうにかしてやるから、落ち着けよ。――嗣巳、こいつはどういう状態だ?」
「強烈な暗示にかかっているようなものだな。どうにかしたいなら、〈形代〉を使え。やり方は教えただろう」
嗣巳が懐から、人形の紙を差し出した。穢れを移した形代で身代わりの式神を作り、〈化物の行列〉の後を追わせろ、ということだ。
愁水はその紙を京の口元に近づけ、吐息に触れさせる。
簡単な命令文を唱えたのち、中国漢代の公文書末尾に書かれた言葉である、「急々如律令」、つまり「|急いで律令の如くに行え《法のように急いで施行せよ》」、と陰陽術のやり方で付け加えれば、京にそっくりの動く人形の出来上がりだ。
「そんなら、夜になるまで待つか。俺が見ているから、今のうちに休んでろよ」
滝と京助は気が抜けたように、深く息をついて頷いた。
梅雨の湿気を含んだ生暖かい夜風が、急に冷え込んだ。
霧が忍び寄り、群青色の闇を覆う。行灯を持つ手元さえ白く霞み、一歩先も覚束ない。
「こいつは役に立たねえな」
戸口で京助に行灯を返し、京から絶対に目を離すなと言い含めておく。
「柊、本当について来るんだな?」
愁水が再度尋ねると、柊はしっかりと頷いた。
「この闇夜では、狐火がお役に立つはずです」
青みを帯びた白銀の狐火が虚空に幾つも浮かび、周囲を照らす。
失敗した蠱毒の状態がわからないまま、取り込まれる恐れのある柊を連れて行くのは気乗りしないが、約束は約束だ。
しかし、奮然と歩みだしたそばから、柊が足を取られ、顔から転びそうになる。
愁水が寸前で襟首を掴んで引き戻すと、柊は驚いた拍子に飛び出した狐の耳を伏せて、か細い声で謝った。
「お願いです、愁水さま。弱くても、置いていかないで……」
「あのな、常に強く在る必要はねえんだ。ここぞという時に、全力を出せればいい。それまで温存しとけよ。俺が連れて行ってやるから」
頷いた柊が、びくりと肩をすくませる。霧に紛れて、引き摺るように行進する足音が幾重にも重なって聞こえてきた。
京の姿をした形代の式神を振り返ったとき、雨月と共に戸口から顔を出していた滝の、案じるような眼差しと目が合った。
何か言いかけたようだが、霧が流れ込み、眼前を白く塗り潰す。
視界が塞がれる寸前、形代の式神が破裂した。
「――穢れを溜め込めなかったか。小娘を押さえておかんと、逃げるぞ」
愁水の耳元で、嗣巳が忠告する。
「お京――」
愁水が一歩踏み出す前に、すぐそばを軽い足音が駆け抜けた。
「お京ちゃん!」
滝が悲鳴をあげて、その後を追う。
「待て、姐さんっ」
愁水は咄嗟に手を伸ばしたが、着物の裾が指をすり抜け、掴み損ねた。
柊を脇に抱え、即座に走り出す。京助と雨月の騒ぐ声がしたが、すぐに途切れた。嗣巳が止めたのだろうと察して、その場は任せることにする。
愁水、と嗣巳に名を呼ばれた気がしたが、不意に全ての音が消失した。方向感覚も狂い、己がどこに向かって進んでいるのかも判然としない。
――化物の通り道に入ったか?
ほんの僅かな間だが、暗がりを突き抜けると、足裏に感じる土の感触が変わった。
むせ返るような、緑の濃い匂いに包まれる。気づけば、愁水はどこか山の麓の木立に立っていた。
首を巡らせれば、遠くに火の見櫓の提灯が小さく揺れているのが見えた。市中でないことは確かだが、江戸近郊であることは確かだ。
「お京ちゃん……!」
背後で滝の悲鳴が上がり、愁水は声の方へと走った。
「どこだ、姐さん!」
「愁さん、ここに井戸が……!」
「――愁水さま! 水の匂いはあっち!」
脇に抱えていた柊が、腕をすり抜けて駆け出した。狐火で照らされた道を追うと、その先の井戸で、滝が京と揉み合っていた。
虚ろな目をした京が、井戸へ身を投げようとしている。
いち早く駆けつけた柊が、京に手を伸ばす。その刹那、腐敗臭のする黒く太い腕が何本も這い出し、柊と京を井戸へ引きずり込もうとした。
柊の指が腰の刀を抜こうともがくが、絡みつく腕に阻まれて、届かない。
愁水は黒い腕と柊の間に滑り込み、その柄を逆手に掴み取った。
抜き放った刀を反転させ、切っ先を突きつける。黒い腕が怯んだように揺れ、拘束が緩んだ隙に刀を捨てて柊と京の腕を掴むと、背後に突き飛ばした。
「その刀持って、今すぐ離れろ!」
――器、見つけた。
指示を出したその僅かな間に、愁水の眼前で、眼孔のない黒い顔が、裂けるような大口を開けていた。
視界が激しく揺れ、背中から水面に叩きつけられる。その衝撃で、どろりと粘ついた液体を口に流し込まれていた。
昏い水のなかで、呼吸を奪われ、黒い腕が無数に体を這い回る。
懐の札に伸ばした手も絡め取られ、肺に残った最後の空気が、愁水の口元から大きな気泡となって、ごぼりと零れた。




