白狐(1)
名は、魂を〈器〉に縛るモノ。
命を寿ぎ、呪うモノ。
だから、私の名を呼んで。
この浮世で、己を見失わずにいられるように――。
*
笛の音が鳴る。
太鼓の音が響く。
自棄酒を煽り、千鳥足で帰路に就いた文吉は、その途次で〈異形の行列〉に出くわした。
朱色の野点傘、宙を彷徨う蒼白い炎。
皆、狐の面で顔を隠している。
狐の嫁入り行列――だとは、思わなかった。
俯きながら、体を引き摺るように進む陰鬱な様は、むしろ葬列に近い。
――何だ、ありゃあ。気味の悪い。
文吉はそそくさと背を向けたはずだったが、足は勝手に行列へと向き、気づけばその最後尾に加わっていた。
――どうなってんだ? 身体が、言うことを聞かねえっ……。
行列から離れようと、心はもがいている。しかし、次第に奇妙な居心地の良さを覚え始め、文吉は抵抗を止めた。
狐面の一行は誰も振り返らないが、文吉がそこに居ることを受け入れている。
大きなものの一部となるような感覚は、酒では満たせなかった心の欠落を、緩やかに満たしてくれた。
天涯孤独の身で生国から江戸に流れ着き、孤独と無聊を酒で紛らわしながら、毎日をただ〈やり過ごす〉日々だった。
常に愛想のいい笑顔を張りつけ、長屋の近所づきあいも仕事も上手くこなしているが、誰かと深く関わることはない。故郷ではその出自から爪弾きにされ、村祭りの行列は遠くから眺めるばかりだった。
――己を捨てて、この行列の一部になれたなら。
そう願う頃には、文吉は《《己の名前を忘れていた》》。
稲荷の社の手前にある狭い小径を通り、山の木立に分け入っていく。行列は暗闇を突き進み、何の目印もない寂れた井戸へと順々に吸い込まれていった。
文吉も後に続こうとしたが、井戸の手前で何かに弾かれた。
――名が手に入った。
――けれども、我らの〈器〉は、これではない……。
幾重もの嘆きの声を聞きながら、文吉はその場に崩折れた。
もう、何も考えられない。
文吉が動けずにいると、背後から二人分の足音が近づいてきた。
「――実に、半端な〈蠱毒〉だ。お前が躊躇うから、一族で喰らいあったというのに〈一つ〉にも成り切れず……どろどろに溶け合ったまま、もがき苦しんでいるよ、真澄」
「面目ございません、ご当主様……」
「半端な覚悟は、悲劇しか生まないと分かっただろう。これは愁水の筆に吸わせるしか、使い道もないな」
「そんな……危険すぎるのでは? 愁水を死なせては、ご当主様の計画が……」
「では、蠱毒を完成させろ。《《立派な》》化物に育てば、改めて迎えに来よう。……どの道、〈空狐〉が動けば愁水の力になるだろう。人の世に介入するモノでもないが、同族のことだしな」
男が立ち去りかけて、冷たく言い放った。
「失敗は許すが、心変わりは許さない。――次はないぞ、真澄」
真澄、と呼ばれた中性的な声の主が何と答えたのか、気が遠のきかけていた文吉には、もはや聞き取れなかった。
*
早朝の境内に、清々しい風が吹き渡る。
今朝は久方ぶりの快晴で、抜けるような青空を映したように、幽世庵の庭では露草が鮮やかな青い花弁を広げている。
昼には凋むため、早朝にしか見られない光景だが、愛でるためではなく、愁水が絵具の材として植えたものだ。
露草の汁から抽出した染料〈青花〉は、浸透性が良く、和紙の上に深みのある青を表現できる。
露草を摘み始めた愁水は、ふと、庵の屋根に目をやった。
植物から色を抽出するのはもちろん、鉱石を砕いて、独自の配合で岩絵具を作ることもあるが――貝殻を屋根などの屋外で干して作る胡粉は、完成まで数年かかるため、着手していない。
一所に根を張ることなどできないだろうと、心のどこかで予感しているからだ。
愁水の作業を横目に、嗣巳は今朝も不満げな顔で朝餉を口に運んでいる。
いまは〈同居人〉が増えたため、嗣巳の前にはもう一つ箱膳がある。その一つを食べ終えた〈童女〉が、愁水の元へ駆け寄ってきた。
「……愁水さま、何をしているの?」
「絵の具を作るのに、露草を摘んでんだ。手伝ってくれるか? ――柊」
愁水が頼むと、童女は――人間に化けた柊が、嬉しげに頷いた。
ようやく化けられるほど回復した柊だが、目の前で一族が互いに〈喰らい合う〉姿を見たために、心の傷は深い。
気が紛れるなら何でもいいのだが、いまの柊には単調な作業が合っているようだ。
「露草の汁を採ったら、刷毛で和紙に塗り重ねて、日差しに当てて乾燥させる。繊細なもんで、液体や粉末では保存できねえんだ。使うときは、短冊状に切って――小皿に乗せて、水を含んだ筆で溶く」
こんなふうに、と依頼の絵に青花をたっぷり用いて描いてみせれば、柊は目を輝かせて見入る。
愁水は少しばかり考えて、仕上げに歌を添えた。
――月草の仮れる命にある人を いかに知りてか後に逢はむと言ふ
「愁水さま。これ、どういう意味?」
「――月草のように、儚い仮の命しか持たぬ身で、どうして後にも逢おうと言うのですか……ってな」
「短くても、いつか終わるとしても……また逢えるって信じているから、だよね?」
柊の解釈に、愁水は意表をつかれた。
月草は、露草のことだ。露草の青は美しいが、色が褪せやすく、水で洗うと溶けてしまうため、歌では人の心の移ろいやすさ、儚さを指すものとして詠われる。
だが柊はこの歌を、想い人に袖にされた恨み言、とは取らなかったようだ。愁水と同じように。
詠み人知らずなのだから、解釈はこれくらい自由でも構わないだろう。
「――これで完成だ。俺はもう一眠りさせてもらうぞ」
絵を仕上げた愁水は嗣巳にそう言い置いて、布団の上に身を投げ出した。
朝餉の後に二度寝をするのは珍しいことでもなく、嗣巳も昼過ぎまでは起こさない――のだが。
深く眠り込む寸前で、布団を引き剥がされた。
「何しやがる……」
体を起こした愁水は、相手の顔を見て呻き声をあげた。
烏帽子をかぶり、狩衣をまとった美貌の男が、狐目をいっそう細め、優雅に蝙蝠扇(*)を仰いでいた。
人間の齢でいえば三十過ぎの見目だが、実際はそう可愛げのあるものではない。
「……雅空殿、もう少し寝かせてやってください」
庵の戸が開き、嗣巳の声が静かに割って入った。
「あきまへんよ、こないな無精を許して。また〈うち〉に来てもろて、灸を据えてやらんといかんなあ、愁水?」
「うるせえ、人攫い」
「人聞きの悪い。師匠の間違いやろ?」
文字通り、人を喰いかねない笑みを唇の端に刻んで、雅空はゆったりと首を傾げた。
雅空のほうでは〈ありがたい修行〉を積ませている気でいるのだから、話は平行線を辿る一方だ。
――有無を言わさず、愁水を連れ去っておきながら。
――――
*蝙蝠扇:数本の骨の片面に紙を張った平安時代の扇の総称。扇子の原型。




