幕間 魂呼ばい
鵺代神社の青銅の鳥居をくぐり、羽織袴の男が大股で近づいてくる。
その羽織に、嗣巳ですら見覚えのある旗本の紋を目にした時点で、不快な依頼になるだろうという予感があった。
男が威圧的に突き出した書状に目を通し、嗣巳は案の定、と心中で舌打ちする。
書状は「依頼を断れば――」といった、露骨な脅しの文言で締めくくられていた。
ちらと横目で見やれば、嗣巳の傍で丸くなっていた白狐の子――柊は、まだ力が戻らないらしく、深く眠っている。
嗣巳は書状を懐に仕舞い、使いの者に促されるまま駕籠に乗り込んだ。
愁水に届く文全てを改めているわけではないが、この依頼に関しては、愁水の目につく前に片付けておくのが得策だろう。
たかが人間の報復、と人間社会の〈身分〉を知らずに侮れば、狡猾な罠に嵌められた挙句、最後には数で抑え込まれ、四肢を刻まれることになる――というのは、むろん嗣巳の苦い実体験だ。
「――蘇った死者を〈灰〉にせよ、とは?」
表座敷に現れた旗本の当主は、先日の水沢家の若君とは異なり、見るからに傲慢そうな風体の男だった。
嗣巳の問いかけに、当主が顎で「ついて来い」と示す。
人払いを済ませたのち、向かった先は離れの奥座敷だった。声もかけずに、当主が中へ踏み込む。
部屋の隅で、虚ろな顔で微笑む女が、男にしどけなく寄りかかっていた。男は目を閉じて座しており、微動だにしない。
「魂のない、抜け殻ですか」
「妹が懸想していた男だ。数日前に死体で見つかった。それを、陰陽師などと妖しい者を呼び、このような塵屑を造りおって……」
馬鹿馬鹿しい、と当主が忌々しげに吐き捨てる。
「人間を生き返らせる術など、あるものか」
「……仰る通り」
件の陰陽師――朧の残り香を感じ取ったが、死体にあるべきはずの腐敗臭がない。
あれに陰陽師の秘術、中国の冥界の神である泰山府君のような死者蘇生や延命の術が使えるはずもなく、死体の腐敗を留めているだけだと察する。
死者と見紛うほど蒼白い顔をした女は、壊れたからくり人形のように、男の名を耳元に囁き続けていた。
――魂呼ばい、か。
死者の名を呼ぶ、故人の衣服を揺らす――そのような所作を繰り返すことで、魂を呼び戻そうとする古来の術。
――諦めずに呼び続けたなら、人の想いは、死をも覆せるだろうか。
厄介な好奇が疼いたところで、当主が今すぐ死体を始末しろと、震える声でがなり立てた。
土気色の顔に浮かぶのは、嫌悪と――明確な怯え。
その視線の先を追えば、男の首に縫い目があった。
なるほど、と得心する。家臣に命じればいいものを、わざわざ神主を呼んだのは――己が始末した男を、《《再び》》葬るのが恐ろしかったのだろう。
臆病な男の身勝手な命令も、死体を処理することで体にこびりつくであろう〈穢れ〉も――何もかもが、忌々しい。
だが、愁水が目をつけられることだけは避けたい。
無造作に男の首を掴んで引き離すと、女が悲鳴を上げた。
「やめて……!」
男の体に取りすがって、気丈にも嗣巳を睨み上げてくる。
「……魂の抜けた体など、ただの〈器〉だ。諦めろ」
しかし、嗣巳の無情な言葉にも、女は怯まなかった。
「貴方は諦められる? 失っても呼ばずにはいられない名前が、貴方にはないのっ?」
女の叫びに、伸ばしかけた手が止まる。
思い出したのは、祟り神を身に宿し、嗣巳の腕のなかに倒れ込んできたときの、愁水の――人間一人の、体の重みだった。
あのとき、傍若無人で無鉄砲な男でも寝込むのかと、嗣巳は静かに衝撃を受けていた。ある意味心のどこかで、愁水を《《信じすぎていた》》のかもしれない。
――死なない人間など、いるはずもないというのに。
女とその細腕に抱えられた死者に、己と愁水の姿が重なり、嗣巳は微かに肩を揺らして動揺した。
早くやれ、と喚く声に急かされ、逡巡を断ち切るように、再び手を伸ばす。
愁水が他の人間に追い詰められる姿を想起するのは、酷く不愉快だ。己のように、成すすべもなく。そんな姿は、あの男には似合わない。
しかし、振り上げた手を背後から掴まれ、動きを止められた。
「――下らねえことしてんじゃねえぞ、嗣巳」
「愁水……」
何故ここに、と絶句して振り返れば、愁水の肩に白い子狐が――柊が乗っていた。
「余計なことを……」
軽く舌打ちしたが、肩に飛び移ってきた柊が嗣巳の身を案じるように、小さな舌で頬を舐めてくる。
叱る気も失せて、嗣巳は言葉を呑み込んだ。
「無礼者――」
と、喚きながら詰め寄る当主を、愁水は鋭い一瞥で射竦めた。
「願いに善悪なんざ、つけられねえよな。ただ、力を持った奴の願いが叶うだけだ。だったら、互いに手前の願いを貫くしかねえが――〈因果応報〉は受け入れろよ?」
当主の肩が、ぎくりと揺れる。その反応を誤魔化すように何か言いかけたが、愁水が遮った。
「こいつをやるから、あんたが選べばいい」
そう言って、女の前に膝をつき、懐から呪符を取り出してみせる。
「誰にも邪魔させねえように結界を張るか、術を解呪してその死体を手放すか」
女は震える手で、愁水から呪符を受け取った。
「……良いのですか。私が前者を選んでも」
「死者を抱いたまま、生きていくのもいいだろうよ。こんだけ想われたら、そいつも嬉しいだろうな。……ただし、後追いなんて《《楽なほう》》には逃げるなよ」
気丈な女には、愁水の言葉が響いたらしい。
「逃げたりなど、するものですか。生きることこそ、最大の復讐となりましょう」
「貴様っ……」
当主が威勢良く凄んで見せたものの、女の持つ呪符を恐れていることは明らかだった。
「よくも、このような小細工を……!」
「文句があるなら、いつでも来い。化物絵師が怖くねえならな」
ちらと、愁水がこちらに目配せをする。嗣巳は深く溜息を吐き、鵺の姿に転じてみせた。
盛大に尻餅をついた当主が、金切り声を上げて泡を吹く。
愁水は冷めた目でその醜態を見下ろし、座敷を後にした。
「――お前なあ、胸糞悪い依頼は断れよ。おい、聞いてんのか?」
返事をせずにいると、先を歩く愁水が不審そうに振り返る。
嗣巳は我知らず、立ち止まっていた。
耳の奥で、女の悲鳴の残響が尾を引いている。
――失っても呼ばずにはいられない名前が、貴方にはないのっ?
なぜ、人間は〈名を呼ぶこと〉に拘るのか。
ただ個体を識別するためのものではなく、そこに生命や魂そのものを結びつけているらしいことが、不思議でならなかった。
嗣巳に〈最初に〉名を意識させたのは、件の巫女だ。
――名前を、呼んであげて。
そう言って、巫女は何を思ったか、嗣巳の腕に双子の赤子を抱かせた。
巫女の体は既に限界を迎えており、崩落寸前の洞穴から、よくも赤子を抱えて脱出できたものだと、嗣巳は傍観者として感心したものだ。
――私は、もう呼んであげられないから。
ずり落ちそうになった赤子を、思わず抱え直す。嗣巳のその様を見て、巫女が微笑んだ。
――名前は、愁水と水代よ。
巫女の力の籠もった言霊につられて、嗣巳はその名を復唱していたのだった。
思えば、人間の名を呼んだのは、あれが初めてだったのではないか。
「ぼやっとしてんなよ。早く帰ろうぜ、嗣巳」
愁水の呼び声に、嗣巳は意識を引き戻された。
嗣巳の返事も待たずに、当たり前のように先を行く愁水の背を見ながら、嗣巳は小さく呟いた。
「いま行く。……愁」




