蛇神(8)
「――何だ、それは」
愁水が酒を携えて社務所に顔を出すと、嗣巳は呆れたように言った。
「若様から御酒を賜ってきた。付き合えよ」
「愁水、お前下戸だろうに」
「お前が好きだろ?」
嗣巳は意外そうな顔をしたが、何かを察したように、澄まして答えた。
「なるほど。では、いただこうか。月見酒――は、もう少し先か」
「みてえだな」
嗣巳につられて、雨障子の隙間から二人並んで顔を出す。雨霧が庵を包み、射干玉の闇は一層深く、濃厚な気配を漂わせる。
「雨夜の月、か」
愁水はふと呟いた。
逢えない恋人の姿を想像することを、〈雨夜の月〉と言う。池庭の橋から解放された白蛇には、もはやその憂いもないが――。
「本当の願いってのは、ささやかなもんなんだな。それすら叶わないんじゃ、浮世を憂世と呼ぶわけだ。まあ、記憶のねえ俺にはわからねえが……」
嗣巳の盃に酒を注ぎながら、独り言ちる。
特に感慨を込めたわけではないが、常に皮肉げな顔でいる嗣巳が、真剣な面持ちでこちらを見つめていた。
「不安か?」
いや、と即答したものの、愁水は黙って盃に口をつけた。
誰よりも《《背負うものがない》》からこそ、強気でいられるのではないか――という疑念が、時折頭を掠めるのは確かだ。
「過去を忘れたまま、生きて行こうとは思わなかったのか。お前は、いまの生活を気に入っているだろう?」
珍しく、嗣巳が含みのある問いかけで畳み掛けてくる。
「……何が言いたい?」
眼光鋭く横目で凄んだが、嗣巳の色素の薄い瞳は澄んだまま、感情が読み取れない。
「〈些事〉は私に任せて、絵を描くことに専念したらどうだ。筆に化物の力を吸わせていれば、いずれ妹は取り返せる」
「その些事ってのは、陰陽師野郎のことだろ。こっちは迷惑被ってんだ、一発くらい殴らせろ」
秘め事を明かさない相手に、本音を聞かせてやるつもりはない。一笑した愁水に、嗣巳はそっと嘆息した。
「……程々にな」
愁水の答えなど分かっていただろうに、それでも聞かずにはいられなかったのだとしたら。
お前こそ、と言いかけたのを、酒で流し込む。
愁水を危ういと言いながら、この鵺のほうこそが――人間に四肢を切り刻まれ、利用され続けてきた化物こそが、ふとした拍子に大事なものを諦めそうだ。
――気に食わねえな。
そう言ったつもりだったが、早くも酔いがまわって、眠気が忍び寄る。言葉が音になったのか、判別がつかなかった。
「――愁水。もっと筆に化物の力を吸わせて、私を封じられるほど強くなれ」
壁に背を預けた愁水に、嗣巳が囁くように言った。
力の強すぎる化物は、愁水の筆では描けない。筆のほうが、壊れてしまうのだ。
だから、嗣巳を――この美しい化物を描くには、まだまだ力不足だ。
「だから、祓い屋じゃねえって言ってるだろ……」
愁水は夢現に、嗣巳の言葉を鼻で笑ってやった。




