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幽世庵モノガタリ~化物絵師と鵺~【幕末あやかしバディ・民俗学ミステリー】  作者: Yumiko
第八幕 雨夜の月―蛇神

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蛇神(6)


「――愁水。兄上が本復されたのは、そなたのおかげだ。何と礼を申してよいか……」


 愛宕あたごの中屋敷を訪ねると、愁水の顔を見るなり、卯之助が深々と頭を下げた。


「気にすんな。それより、若様に渡してえ物がある。お目通り願えるか?」


 例によって人払いは済んでいるが、愁水の砕けた口調に、かたわらの嗣巳が呆れたような視線を向けてくる。


「嗣巳、お前は来なくていいって言っただろ」


 平生通り、嗣巳には何も告げずに庵を出たのだが、門番に声をかけた時には背後に立っており、さすがの愁水も肝が冷えた。


「……ただの気まぐれだ。見物してやるから、さっさと済ませろ」


「急かすくらいなら、帰っちまえ」


「何を申すか、愁水。私は神主殿にも御札の礼を直接言いたかったのだ。さ、神主殿もこちらへ」


 卯之助が機嫌良く、隼之介の居る座敷へと促す。愁水は嘆息一つで収め、その後についていった。


 書物の山が築かれた座敷で、隼之介は蒼白い顔で政務に没頭し、筆を走らせていた。


「……そなたが、あれを祓ったのか?」


 書物から顔を上げた隼之介が、硬い声で問いかけてきた。


「それが望みだったんじゃなかったのか?」


 そう問い返すと、隼之介の瞳が揺れた。


「あ、あ……そうだ。水沢家の当主ともあろう者が、化物に惑わされるわけにはいかぬから――」


「そんなに惑わされたのか?」


 隼之介の反論を遮り、愁水は携えていた桐箱から掛け軸を取りだした。


 月夜の蒼黒い闇に浮かぶ、白装束の女の絵。


 周囲に咲く姫百合の花からは、白蛇が鎌首をもたげている。


 うつむき、祈るように目を閉じる女の横顔は、薄闇にかげっている。


 月と女、光と影の陰影に何を見るかは鑑賞者次第だが、絵には歌が添えてある。


 ――夏草の繁みに咲ける姫百合の 知らえぬ恋は苦しきものそ


 人知れず想う恋は、辛い――。


「……百合は、最後に何と?」


 ややあって、隼之介は静かに尋ねた。


 ――動揺も見せないか。


 その徹底ぶりが、かえって痛ましい。本心を見失うほどに、己を取り巻く環境に雁字搦めになっている様は、見ていてひどくもどかしい。


「己を絵に封じてほしい、とだけ」


 愁水の答えに、そうかと言ったきり、隼之介は何も言わない。


「この絵を破って、それで終いだ。――最後は、己の手で始末したいだろ?」


 愁水は澄ました顔で、掛け軸を隼之介の手に預けた。嗣巳と卯之助に目配せして、その場を辞す。


 障子を閉めると同時に、愁水の耳に、かすかな声が届いた。


 ――どうか、私を許さないでくれ。





 隼之介は微かに震える手で、掛け軸をき抱いた。


 腹の底から泥濘ぬかるみのような、どす黒い怒りが込み上げてくる。


 ――祓い屋ではないと、申したではないか。


 だがすぐに、何に対しての怒りなのか、あるいは喪失感なのか、判別がつかなくなる。


 ――最後は、己の手で始末したいだろ?


 愁水の声が、耳に木霊する。


「違う……」


 我知らず、かすれた声が漏れる。その力のない響きを耳にしてはじめて、隼之介は己の身勝手な願いを思い知った。


 終わらせたかったのは、己自身だ。


 ――馬鹿だね。あんな一方的な口約束は、契約とは言わないんだよ。あんたに何の益もないだろ。


 いつまで経っても戯れに言葉を交わすばかりで、祟る素振りも見せない百合に、隼之介もいい加減、揶揄からかわれているだけだと気づきはじめていた。


 ――なぜ、私と契約しないんだ。ここを離れて、自由になりたくないのか?


 その問いに、百合は小さく、困ったように笑った。


 ――あんた、初代当主サマに似ているんだよ。それで、ちょいと揶揄からかってやっただけさ。


 ――だから、もうあたしに逢いに来なくていいよ。あんたを解放してあげる。縁談があるんだろ?


 無頓着な物言いに、胸が掻き乱された。色恋に疎い隼之介でも、百合が誰かの面影を探していることは、薄々と気づいていた。


 百合が己を縛る契約を恨みつつも、何かの証を愛でるように、手放せずにいることも。


 そして、隼之介には〈証〉一つ残そうともしないことが、さらに焦燥を募らせたのだ――。


 額から、汗が流れ落ちる。


 気づけば、掛け軸を抱えたまま動かずにいた隼之介の周囲を、蒼白い火が飛び交っていた。


 呆然と見つめているうちに、火は一つの渦となって、隼之介を取り囲んだ。


 ――熱い。息が、できない。


 炎は瞬く間に書物に燃え移り、座敷を焼き尽くそうとする。

 

 ――早く、鎮火しなければ。


 そう思うが、魅入られたように、指一本動かせない。


 はじめて鬼火を見たとき、恐怖以上に奇妙な安堵があったのを思い出す。


 その理由が、いまならばわかる。


 城ごと燃え尽きれば、百合は未来永劫、この家の者と契りを交わすことはないだろう。


 そんなどうしようもない悋気りんきと執着を体現したのが、この鬼火なのだ。


 ――せめて、好いた女の手で、終わらせてほしかった。


 不意に浮かんだ想いに、隼之介は力が抜けた。


「こんなことが、俺の望みだったのか……」


「――どうした、若様。化物と、あの世で結ばれたいのか?」


 そこへ、力強く、深みのある声が響いた。


 化物絵師と呼ばれる男が、炎に怯みもせずに、大股で座敷に乗り込んでくる。


 若い鷹を思わせる、鋭利な目。蒼白い炎よりも強く、燃えるような目をした男だ。


「ああ……そなたが、その望みすらも絶ったがな」


「何が望みだ。この期におよんでもまだ、〈本当の願い〉がわからねえか?」


 隼之介はその絵師――愁水の鋭い揶揄やゆに、酷く動揺した。


「おい、ここで問答を始めるな。こんなむさ苦しい心中に付き合う気はないぞ、私は」


 神主らしき男が現れ、愁水の腕を掴んだ。その背後で、卯之助が必死にこちらへ手を伸ばす姿が垣間見え、心が揺れた。


「俺だってねえから、心配すんな。おい、このまま可愛い弟まで丸焼きにしちまっていいのか?」


 命の危機に、隼之介の額に幾筋もの汗が流れ落ちる。


 愁水だけが、平生だった。流れ落ちる汗を拭って、獰猛な笑みを浮かべている。


「今更自害して、あんたに得るもんがあるとも思えねえが」


「……どうすれば、この火を消せる?」


 観念して問えば、


「本心を認めねえかぎり、鬼火は消えねえよ。――なあ、若様。もし御家断絶と言われたら、最後に何がしたい?」


 愁水に問い返され、隼之介は深く項垂れた。


こくなことを聞く……」


「こうでも聞かねえと、答えられねえだろう」


 愁水は咳き込みながら笑った。その背後で、神主が愁水の腕を引き寄せ、苛立った様子を見せる。


 もう少し待てと、愁水はその手を軽く叩いて、なだめていた。


 ――何がしたい、だと?


 隼之介は狼狽うろたえた。


 そんなこと、考えたこともなかった。


 周囲の期待に応えるべく、努力してきたつもりだったが、実際は流されていただけだったのかもしれない。


 己の頭で考えることを、放棄して――。


 できれば、最後まで気づきたくなかったことだ。


 ――もし、全てを失ったとしたら?


 恐怖と同時に、安堵もする。


 全て失って、最後に一つだけ手に入るとしたら――。


 その刹那、眼裏に浮かんだのは、百合の寂しげな笑みだった。


「私は、百合と添い遂げたかった……」


 ――何より、百合の孤独を癒すのは、己でありたかった。


 ようやく出た答えがこれかと、乾いた笑みがこぼれる。答えなど、初めから出ていたようなものだ。


「なら、そうすりゃ良かっただろ」


 憎らしいほど、愁水は事も無げに言った。


「無理だ……化物と添うなど、許されるはずもない」


「それを一番許さねえのは、あんた自身だろうな」


 愁水の言葉は正しく、容赦がない。


「我を通すだけの力がないのなら、誰にも文句を言わせねえくらい、力をつけりゃいい。――今世での生は、一度きりだ」


 わかってるだろ、と念押しして、愁水が距離を詰めてくる。鬼火は愁水の言葉に反応して、勢いを弱めていた。


「……わかってはいるが、心のままに生きるよりは、縛られているほうが楽だった」


 長年のかせを下ろして、隼之介は力なく笑った。


「俺にはあんたの重圧がどれほどのもんか、わからねえがな。目の前の些事さじに囚われちまうっていうのは――わかるぜ」


 因習を振り払うことが、どれだけ難しいか――。


 思いがけず共感を示され、隼之介の胸には憤りでなく、安堵が広がっていた。


 その言葉で、何かを許されたような気がした。


「――隼之介。嗚呼、嬉しい」


 その時、白蛇が――百合が絵のなかからするりと現れ、隼之介に寄り添った。


 



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