蛇神(6)
「――愁水。兄上が本復されたのは、そなたのおかげだ。何と礼を申してよいか……」
愛宕の中屋敷を訪ねると、愁水の顔を見るなり、卯之助が深々と頭を下げた。
「気にすんな。それより、若様に渡してえ物がある。お目通り願えるか?」
例によって人払いは済んでいるが、愁水の砕けた口調に、傍らの嗣巳が呆れたような視線を向けてくる。
「嗣巳、お前は来なくていいって言っただろ」
平生通り、嗣巳には何も告げずに庵を出たのだが、門番に声をかけた時には背後に立っており、さすがの愁水も肝が冷えた。
「……ただの気まぐれだ。見物してやるから、さっさと済ませろ」
「急かすくらいなら、帰っちまえ」
「何を申すか、愁水。私は神主殿にも御札の礼を直接言いたかったのだ。さ、神主殿もこちらへ」
卯之助が機嫌良く、隼之介の居る座敷へと促す。愁水は嘆息一つで収め、その後についていった。
書物の山が築かれた座敷で、隼之介は蒼白い顔で政務に没頭し、筆を走らせていた。
「……そなたが、あれを祓ったのか?」
書物から顔を上げた隼之介が、硬い声で問いかけてきた。
「それが望みだったんじゃなかったのか?」
そう問い返すと、隼之介の瞳が揺れた。
「あ、あ……そうだ。水沢家の当主ともあろう者が、化物に惑わされるわけにはいかぬから――」
「そんなに惑わされたのか?」
隼之介の反論を遮り、愁水は携えていた桐箱から掛け軸を取りだした。
月夜の蒼黒い闇に浮かぶ、白装束の女の絵。
周囲に咲く姫百合の花からは、白蛇が鎌首をもたげている。
うつむき、祈るように目を閉じる女の横顔は、薄闇に翳っている。
月と女、光と影の陰影に何を見るかは鑑賞者次第だが、絵には歌が添えてある。
――夏草の繁みに咲ける姫百合の 知らえぬ恋は苦しきものそ
人知れず想う恋は、辛い――。
「……百合は、最後に何と?」
ややあって、隼之介は静かに尋ねた。
――動揺も見せないか。
その徹底ぶりが、かえって痛ましい。本心を見失うほどに、己を取り巻く環境に雁字搦めになっている様は、見ていてひどくもどかしい。
「己を絵に封じてほしい、とだけ」
愁水の答えに、そうかと言ったきり、隼之介は何も言わない。
「この絵を破って、それで終いだ。――最後は、己の手で始末したいだろ?」
愁水は澄ました顔で、掛け軸を隼之介の手に預けた。嗣巳と卯之助に目配せして、その場を辞す。
障子を閉めると同時に、愁水の耳に、微かな声が届いた。
――どうか、私を許さないでくれ。
*
隼之介は微かに震える手で、掛け軸を搔き抱いた。
腹の底から泥濘みのような、どす黒い怒りが込み上げてくる。
――祓い屋ではないと、申したではないか。
だがすぐに、何に対しての怒りなのか、あるいは喪失感なのか、判別がつかなくなる。
――最後は、己の手で始末したいだろ?
愁水の声が、耳に木霊する。
「違う……」
我知らず、掠れた声が漏れる。その力のない響きを耳にしてはじめて、隼之介は己の身勝手な願いを思い知った。
終わらせたかったのは、己自身だ。
――馬鹿だね。あんな一方的な口約束は、契約とは言わないんだよ。あんたに何の益もないだろ。
いつまで経っても戯れに言葉を交わすばかりで、祟る素振りも見せない百合に、隼之介もいい加減、揶揄われているだけだと気づきはじめていた。
――なぜ、私と契約しないんだ。ここを離れて、自由になりたくないのか?
その問いに、百合は小さく、困ったように笑った。
――あんた、初代当主サマに似ているんだよ。それで、ちょいと揶揄ってやっただけさ。
――だから、もうあたしに逢いに来なくていいよ。あんたを解放してあげる。縁談があるんだろ?
無頓着な物言いに、胸が掻き乱された。色恋に疎い隼之介でも、百合が誰かの面影を探していることは、薄々と気づいていた。
百合が己を縛る契約を恨みつつも、何かの証を愛でるように、手放せずにいることも。
そして、隼之介には〈証〉一つ残そうともしないことが、さらに焦燥を募らせたのだ――。
額から、汗が流れ落ちる。
気づけば、掛け軸を抱えたまま動かずにいた隼之介の周囲を、蒼白い火が飛び交っていた。
呆然と見つめているうちに、火は一つの渦となって、隼之介を取り囲んだ。
――熱い。息が、できない。
炎は瞬く間に書物に燃え移り、座敷を焼き尽くそうとする。
――早く、鎮火しなければ。
そう思うが、魅入られたように、指一本動かせない。
はじめて鬼火を見たとき、恐怖以上に奇妙な安堵があったのを思い出す。
その理由が、いまならばわかる。
城ごと燃え尽きれば、百合は未来永劫、この家の者と契りを交わすことはないだろう。
そんなどうしようもない悋気と執着を体現したのが、この鬼火なのだ。
――せめて、好いた女の手で、終わらせてほしかった。
不意に浮かんだ想いに、隼之介は力が抜けた。
「こんなことが、俺の望みだったのか……」
「――どうした、若様。化物と、あの世で結ばれたいのか?」
そこへ、力強く、深みのある声が響いた。
化物絵師と呼ばれる男が、炎に怯みもせずに、大股で座敷に乗り込んでくる。
若い鷹を思わせる、鋭利な目。蒼白い炎よりも強く、燃えるような目をした男だ。
「ああ……そなたが、その望みすらも絶ったがな」
「何が望みだ。この期に及んでもまだ、〈本当の願い〉がわからねえか?」
隼之介はその絵師――愁水の鋭い揶揄に、酷く動揺した。
「おい、ここで問答を始めるな。こんなむさ苦しい心中に付き合う気はないぞ、私は」
神主らしき男が現れ、愁水の腕を掴んだ。その背後で、卯之助が必死にこちらへ手を伸ばす姿が垣間見え、心が揺れた。
「俺だってねえから、心配すんな。おい、このまま可愛い弟まで丸焼きにしちまっていいのか?」
命の危機に、隼之介の額に幾筋もの汗が流れ落ちる。
愁水だけが、平生だった。流れ落ちる汗を拭って、獰猛な笑みを浮かべている。
「今更自害して、あんたに得るもんがあるとも思えねえが」
「……どうすれば、この火を消せる?」
観念して問えば、
「本心を認めねえかぎり、鬼火は消えねえよ。――なあ、若様。もし御家断絶と言われたら、最後に何がしたい?」
愁水に問い返され、隼之介は深く項垂れた。
「酷なことを聞く……」
「こうでも聞かねえと、答えられねえだろう」
愁水は咳き込みながら笑った。その背後で、神主が愁水の腕を引き寄せ、苛立った様子を見せる。
もう少し待てと、愁水はその手を軽く叩いて、宥めていた。
――何がしたい、だと?
隼之介は狼狽えた。
そんなこと、考えたこともなかった。
周囲の期待に応えるべく、努力してきたつもりだったが、実際は流されていただけだったのかもしれない。
己の頭で考えることを、放棄して――。
できれば、最後まで気づきたくなかったことだ。
――もし、全てを失ったとしたら?
恐怖と同時に、安堵もする。
全て失って、最後に一つだけ手に入るとしたら――。
その刹那、眼裏に浮かんだのは、百合の寂しげな笑みだった。
「私は、百合と添い遂げたかった……」
――何より、百合の孤独を癒すのは、己でありたかった。
漸く出た答えがこれかと、乾いた笑みが溢れる。答えなど、初めから出ていたようなものだ。
「なら、そうすりゃ良かっただろ」
憎らしいほど、愁水は事も無げに言った。
「無理だ……化物と添うなど、許されるはずもない」
「それを一番許さねえのは、あんた自身だろうな」
愁水の言葉は正しく、容赦がない。
「我を通すだけの力がないのなら、誰にも文句を言わせねえくらい、力をつけりゃいい。――今世での生は、一度きりだ」
わかってるだろ、と念押しして、愁水が距離を詰めてくる。鬼火は愁水の言葉に反応して、勢いを弱めていた。
「……わかってはいるが、心のままに生きるよりは、縛られているほうが楽だった」
長年の枷を下ろして、隼之介は力なく笑った。
「俺にはあんたの重圧がどれほどのもんか、わからねえがな。目の前の些事に囚われちまうっていうのは――わかるぜ」
因習を振り払うことが、どれだけ難しいか――。
思いがけず共感を示され、隼之介の胸には憤りでなく、安堵が広がっていた。
その言葉で、何かを許されたような気がした。
「――隼之介。嗚呼、嬉しい」
その時、白蛇が――百合が絵のなかからするりと現れ、隼之介に寄り添った。




