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幽世庵モノガタリ~化物絵師と鵺~【幕末あやかしバディ・民俗学ミステリー】  作者: Yumiko
第八幕 雨夜の月―蛇神

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蛇神(5)


「……真澄?」


 すぐに体を離した真澄は、愁水の伸ばした手をするりとかわして、こちらを振り返らずに走り去った。


 意識が混濁しはじめ、追うことは叶わない。


 真澄の去った方角をしばし見つめてから、愁水もその場を後にした。


「――愁水」


 平生を装って根岸まで戻り、鵺代ぬえしろ神社の鳥居をくぐったところで、嗣巳が足早に近づいてきた。


 その背後に黒蝶がちらと見え、説明は不要かと観念して笑う。


 嗣巳の手が、こちらに伸びる。愁水はそのまま、意識を手放した。




 気づけば、愁水はどこかの池庭に立っていた。


 雨が緑青の水面を叩き、大小の波紋が浮かんでは消えていく。


 その様に見入っていると、銀色の髪に緋色の目をした女がかたわらに立った。


「――皆、最期は鬼火に焼かれちまうんだ」


 女の視線の先を追えば、橋のたもとで、幾つもの幻影が現出と消失を繰り返していた。


 そのどれもが、蒼い炎に焼かれて消えゆく、様々な男達の姿だ。


 最後に現れたのは、おそらく元服を過ぎたばかりの青年。凛としたその顔立ちに隼之介の面影を認めて、愁水は納得した。


 これは愁水の夢であり、白蛇の見せる過去だ。


 ――百合。お前は、黒い百合を見たことがあるか?


 隼之介に自覚はないのか、花がほころぶような笑みを浮かべている。


 ――北方の民族は、黒い百合を使って想いを伝えるそうだ。こっそりと相手のそばに黒百合を置き、気づいた相手が手に取れば、思いが通じ合うのだと……。


 ――べつに、欲しくなどない。書物に書いてあったから、教えてやっただけだ。


 ――渡したい相手など、おらぬ。


 隼之介が顔を背けると、景色が変わった。


 愁水も足を踏み入れた座敷に、いまよりも少し若い隼之介が横たわっている。寝込んでいるわけではなく、ただ眠っているようだ。そこに白蛇が現れて、黒百合を枕元に落としていった。


 目を覚ました隼之介は、黒百合に気づくと、手に取って名をささやいた。


 ――百合。


 残影を残して、愛しそうに黒百合を抱えた隼之介の姿が、ゆっくりと夢の闇に沈む。


「あたしは、隼之介の望みを叶えてやりたいだけなんだよ……。他の女と添ったって、かまやしない。それなのに、隼之介の体は悪くなる一方で……」


 まただ、と白蛇は嘆く。


 あの蒼い炎が、愛しい者を焼き尽くしてしまう――。


 白蛇の慟哭どうこくが、愁水の意識を揺さぶる。これ以上感情の波に巻き込まれれば、こちらの精神が危うい。


 夢から目覚めなければ――。


「どうした、愁水。苦しいのか?」


 不意に名を呼ばれて、愁水は目覚めた。


 嗣巳が顔を覗き込んでおり、次いで、見慣れた庵の天井が視界に入った。青銅の鳥居をくぐったところまでは覚えているが、最後の最後で気を抜いたらしい。


 行燈に照らされて、庵の障子には黒々とした化物の影が映っている。


 蛇の尾に、狸の胴、虎の四肢――見ずとも、血の如く真っ赤な顔や鳥のような羽根が、眼裏に浮かぶ。


 本性は奇怪な見目の化物だが、反面、愁水を見つめる表情は、酷く人間臭い。


「世話かけたな」


 愁水は笑って、片手を振ってみせた。


今更いまさらだな」


「そりゃ、はばかりさま」


 軽口で応じて起き上がると、嗣巳の顔に安堵の色――めいたものが浮かび、愁水は無遠慮にその顔を観察した。


「……どうした。頭も打ったのか?」


「いや、お前でもそんな顔をするのか、と思っただけだ」


「私が、どんな顔を――」


 怪訝そうな顔をしていた嗣巳が、不意に言葉を切った。


「……お前こそ、寝込む姿は初めて見たな」


 ああ、と愁水は生返事で応じた。


 確かに、記憶にある限りでは寝込んだことがない。定かではない幼少の頃も、看病をする側であったような気がする。


かゆなら食えるか?」


 と、嗣巳が箱膳はこぜん(*)に載せた粥のわんを持ち上げた。


 手料理というだけで面食らうものを、嗣巳はさらに、さじで粥をすくい、愁水の口に運ぼうとする。


「正気かよ。お前は親鳥か」


 愁水が匙を取り上げると、嗣巳は不思議そうに首を傾げた。


 性質たちの悪い嫌がらせかとも思ったが、恐ろしいことに、嗣巳のほうは大真面目だ。


「看病というのは、こうするのではないのか?」


「どこで覚えたんだ、そんなもん」


「お前が――」


 そう言いかけて、嗣巳は再度言葉をにごした。


「……どうでもいいから、早く食え」


 不器用なかわし方だと思ったが、追及はしない。


 この鵺が〈人間不信〉なのは分かっているため、愁水はただ、どちらがお人好しか――という言葉を呑み込むだけだ。


 粥を口に入れた愁水は、眉をひそめた。


「……味がしねえぞ」


「お前の味付けが濃すぎるんだ。素材の味が分からないとは、嘆かわしい」


「何が素材の味だ。今度から生で出してやるからな」


 もはや挨拶代わりのような応酬を交わしながら、粥を平らげる。


「ご馳走さん」


「……お粗末様でした」


「本当にな」


 早く寝ろ、と伸びてきた嗣巳の手をかわし、愁水は布団から出て胡座あぐらをかいた。


「――そんじゃ、そろそろ話を聞かせてもらえるか? あんただろ、俺に文を寄越したのは」


「そうだよ。化物絵師様に、あたしを祓ってもらおうと思ってね。まさか、こんな化物贔屓だとは思わなかった」


 愁水の呼びかけに応じて、銀髪に緋色の目の女が現れた。体から熱が引き、呼吸が楽になる。


 嗣巳に睨まれたが、軽く手を振っていなした。


「期待に応えられなくて悪ぃな。それより、俺が聞きてえのは――あんたが呪っていねえなら、その鬼火は何なのか、って話だ。そいつが出る前兆に、心当たりはねえか?」


 何も、と言いかけて、白蛇は目を伏せた。


「皆、物思いにふけって……あたしを遠ざけようとするね。まあ、化物なんだから当然――」


「皆ってのは、水沢家の歴代当主か?」


 白蛇が首肯しゅこうし、愁水はふと考えた。隼之介が禁を破り、白蛇との逢瀬を続けた理由など問うまでもない。


 だが、己を律してきた男が――武家の嫡男が、化物と添い遂げることなど、出来ただろうか。


 連綿と続く家名を己の代でけがす覚悟など、持てただろうか。


 ムサカリ絵馬――あの世で結ばれることを願ったのだとしたら。


 わざと祟りを受けて、愛しいモノの手で死のうとしたのではなかったか――。


「水沢家には、あんたに逢うことを禁じる〈雨障あまつつみ〉という言葉が伝わっていてな。雨を避けて籠もる、ってな意味の古語だが――」


 万葉の言葉らしく、そこには言外の情が込められている。


「要はな、雨を言い訳にして、恋しい女の元へ通うのを諦める、ってことだ」


 白蛇が何か言いかけて、両手で顔を覆う。小刻みに震える肩を見守っていると、嗣巳が興味深げに呟いた。


「それなら、鬼火はその男の生霊だな。あれは、傍に居たいという強い執着の表れで、本人に自覚がないのが特徴だからな」


「吐血は蛇の呪いじゃなく、心労か」


「もともと、気に病みやすい気質の一族なのだろうな」


 ある意味、蛇の呪いより厄介な――己が己にかける呪い、自縄自縛というものだ。


「呪いどころか、火の気を抑えてやっていたくらいだ。相克、と教えただろう?」


 五行思想において、蛇は水に属するモノで、火の相克――火を抑えるモノだ。


「あたしが鬼火を抑えていたとしても……そもそも、あたしがいなけりゃ、こんなことには……。お願いだよ、愁水さま。あたしを絵に封じておくれな……!」


 白蛇の必死の懇願に、嗣巳がちらと愁水を見て笑った。


「どちらの願いを叶えてやるんだ?」


「分かってて聞くんじゃねえよ。――いいぜ、とびきり美人に描いてやるよ」


 愁水は懐から、件の筆を取り出した。


 妖の妖力を吸って生長する、〈魔〉の筆を――。




――――

*箱膳:

江戸時代から昭和初期にかけて普及した、一人分の食器(飯椀、汁椀、小皿、箸、湯呑み)を収納できる木製の箱型お膳

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