蛇神(4)
「――困ってんなら、俺に憑け。こっから連れ出して、じっくり話を聞いてやる」
愁水が腕を噛まれたまま振り払わずに語りかけると、蛇の顎がふっと緩んだ。
霞のように蛇体が消える。刹那、どろりとした熱塊のようなものが身の内に流れ込み、その熾熱と重圧に体がふらつきかけた。
――……祟り神か。
家の守り神のはずだが、穢れを溜め込みすぎたらしい。
嗣巳の冷ややかな目と小言が浮かび、愁水は心中で苦笑する。
「兄上は助かるのか? 早う、侍医を呼ばぬと……」
「いや、もうじき落ち着くはずだ。心配なら、この札を枕元に置いてやれ」
隼之介の呼吸が整うのを確認して、愁水は懐から鵺の札を差し出した。
「礼を言う、愁水殿。家臣も鬼火が視えると言って、怯える始末でな。〈化物絵師〉の札があれば、皆安心するだろう」
「鬼火……?」
「祭礼を欠かしたために、酷く祟った年……その代の藩主の手記には、鬼火を視た者は遠からず、死に至る――と、記されておったのだ」
蛇は、水に属するモノだ。
――その鬼火は、どこから来た?
愁水は口を開きかけたが、熱に侵されて、思考が怪しい。正直に言うと、立っているのがやっとだ。
また様子を見に来ると言い置いて、愁水は足早に城を後にした。
*
――危なかった。
水沢家の城から出た真澄は、ほんの僅かな差で城門をくぐった愁水の背を見送り、そっと息を吐いた。
黒蝶の式神に愁水を偵察させ、手近にあった木の上で待機する。成り行きを見守る間、真澄はじっと己の手を見下ろした。
傷心の白蛇に首輪を嵌めるのは、容易かった。
生涯を縛る代わりに、強力な力で願いを叶えるという守り神。祟り神へと変容しているのも、《《都合が良かった》》。
穢れは、強ければ強いほど良い。
――隼之介のためなら、何だってしてやるよ。
――あたしはもう、どうなったって構わないんだ。
必死に城主を掻き抱いていた白蛇は、真澄の甘言にあっさりと騙された。
――それなら、この首輪で力を増強すればいい。その《《若様の願い》》をきっと叶えてくれる。
真澄には、白蛇の願いが痛いほどよく分かった。城主の願いと、同様に。
真澄は懐から、朧に持たされていた雲外鏡――真実を映すという鏡を取り出した。
鏡には、城の上空に漂う鬼火の正体が映し出されている。
「……本当に、難儀だね」
真澄は小さく呟いた。
弱者が大事なものを守ろうとするのなら、己の身を差し出すしかない。そして選択肢に自己犠牲を入れたとき、結末は既に決まっているのだ。
人は、己の望み以上の未来を勝ち得ない。
そうと分かっていても、実際には長年染みついた既成観念や思い込みに囚われて、手を伸ばすことすら思いつけない――。
霧雨が降りだして、景色が灰色に沈む。
片目を閉じて、式神から送られてくる映像に集中する。
「――愁水」
指が動きかけたが、間に合わなかった。
愁水が、白蛇に噛まれた。そのうえ祟り神に体を貸すものだから、本当に無茶をする。
すぐにでも飛び出して行きたかったけれど、首輪への関与を疑われるような真似は出来ない。愁水の軽蔑の眼差しを想像して、小さく肩を震わせた。
愁水が城を出て、充分に離れるのを待ってから、木の上から飛び降りた。
あともう少ししたら、繁華な通りに出る。そこまで行ったら、後ろから声をかけて――。
真澄が歩みを速めたとき、愁水とすれ違った女が、驚いたように足を止めた。
女のほっそりと白い手が伸びて、愁水の額に触れる。
藤色の蛇の目傘から覗いた横顔は、気後れするほど美しく――優しげだった。
往来では雨を気にした人々が忙しなく行き交っており、道の端で立ち止まっている二人には目もくれない。
女が少し怒ったように、愁水の頬に手を添える。愁水は驚いたように目を瞪り、その手を掴んで――目を閉じた。
心の臓が、強烈な痛みを訴えた。
愁水はおそらく、真澄の前ではあんなふうに、弱みを見せたりしない。
――やめて……触らないで……!
心が発した悲鳴に、真澄は愕然とした。
――まさか、悋気(*)だとでも?
真澄は一歩も動けないまま、そんなはずはないと否定した。
どんな形でも、《《例え当人が望まなくても》》、愁水が《《真澄の変わりに》》幸せになってくれれば、真澄も《《報われる》》はずだった。
その想いは、いまも変わらない。
それなのに、知らない女が愁水の傍に寄り添うのを見た途端、こう思うのを止められなかった。
――奪われた、と。
「違う……っ」
体がよろめいて、転びそうになる。その拍子に、懐から雲外鏡を取り落としてしまった。
慌てて身をかがめた真澄は、その鏡に映る像を見て、凍りついた。
鏡のなかで、愁水の隣にいるのは――真澄だった。
「……知りたくなかったな」
真澄は反対の方へと歩き出したが、足がもつれて、今度は受け身も取れずに転んでいた。不幸中の幸いだったのは、そこが泥濘でなかったことか。
両手をついて、起き上がる。利き手がずきりと疼いたが、これまでにしてきたことを考えれば、己には痛がる資格すらなかった。
そのまま歩き出そうとしたところで、背後から腕を取られた。
「――何やってんだよ。ボロボロじゃねえか」
愁水の声に、息が詰まった。
振り返ると、蛇の目傘の女はいなくなっていた。
「どうせ、また無茶してんだろ。傘も差さねえで」
「愁水こそ……傘はないし、具合は悪そうだし」
「俺はいいんだ、頑丈だからな。――いままで見てきたんなら、知ってるだろ」
含みのある言葉に、真澄は息を詰まらせた。
「あの黒蝶の式神、お前のだろ」
――近づきすぎた。
悔やんだけれど、もう遅い。
「どうして……」
「何となくだ。依頼をこなすたび、俺の身を案じるみてえに、ちらちらと視界に入ってくる。――危なっかしいのはお前のほうだと、言ってやりたかった」
愁水の切れ長の目が、真澄を正面から見据えてくる。深く黒い瞳に吸い込まれそうで、ただその目を見つめ返すことしかできなかった。
「馬鹿だな。泣くほど嫌なら、やめちまえ」
「泣いてなんか……。やめるって、何を……?」
「ずっと思い詰めた目をして、苦しんでいる。――ってのは、百々目鬼の言葉だ。お前が何をしているかは知らねえが、気にするな、とも言っていたな」
それ以上、立っていられなかった。足元から崩れ落ちた真澄を、愁水の熱く大きな手が支えてくれた。
愁水の腕のなかから、鋭く力強い目を覗き込む。
――今なら、視えるかもしれない。
懐から雲外鏡を取り出したけれど、鏡面には何も映っていなかった。
〈何も〉知らず、記憶もない愁水に、真の望みなど持てるはずもない。
ふと、このまま突き進んで、真澄の思う〈幸福〉を押しつけたところで、何の意味があるのかと焦燥に駆られる。
――人は、己の望み以上の未来を勝ち得ない。
真澄は愁水の首に両腕を絡めて、抱き寄せた。自身の言葉に、突き動かされるままに。




