蛇神(3)
中屋敷(*)は世継ぎの居所だが、藩士の長屋に囲まれ、表御殿で政務を執るその構造は、藩主の上屋敷と何ら変わりはない。
さいぜん通された書院の欄間といい、随所に施された精巧な細工が目を引いた。
――上等な鳥籠。
目利きだと感心する一方で、愁水は胸中でそう呟いていた。
町人の境遇は時に底抜けに残酷だが、武家のそれはただひたすら、窮屈の一言に尽きるのだ。
兄上、と卯之助が声をかけたが、隼之介は深く眠り込んでいた。
その隼之介の身体に、〈何か〉が絡みついているのが、薄っすらと視える。
そこらにいる化物とは、格が違った。肩に感じる重圧が、比べ物にならない。
――刺激する前に、若様の蒐集品でも探ってみるか。
寝所に向かう途次で卯之助が語ったところによると、水沢家では毎年、梅雨の時期に祭礼を執り行うのが習わしであった。それがかつての藩主と〈化物〉が交わした契りであり、欠かした年には酷く祟ったそうだ。
それを知っていたはずの隼之介が、《《祭事を執り行わなかった》》。
そのため城内には祟りを恐れる声が上がり、隼之介と同様に病に臥す者、あるいは故郷に逃げ帰る者が後を絶たないという。
雨の日に、水辺に佇む女。
何代にも渡って栄誉を授けるかわりに、ひとたび背けば祟るモノ――。
隼之介の私室をつぶさに観察したが、化物の憑きやすい古道具の類いは見当たらなかった。あるのは望遠鏡や顕微鏡といった、真新しい舶来品ばかりだ。
念のため、櫃の中も確認しておく。格物究理――蘭学などの医術や天文学が中心だが、最も読み込んだ様子の書を選び取ってみると、意外なことに北の風俗を記したものだった。
「……これだけ、異色だな」
開き癖のついた丁(*)には、〈ムサカリ絵馬〉が描かれていた。
〈ムカサリ〉は〈迎えられ〉――嫁に迎えて去る、つまり未婚の死者を弔う風習であり、絵馬に描かれるのは架空の花嫁との婚礼だ。
「若様は、よく寝込まれるのか?」
病弱ゆえに世を儚んで――と推察したが、卯之助はまさか、と勢い込んで否定した。
「兄上は誰よりも己に厳しいお方だ。体にも気を遣っておられるから、幼少期より滅多に……」
「――誰よりも己に厳しい、か」
難儀だなと、愁水は誰にともなく呟いていた。
助けすら求められない者というのは、一定数いる。その類を見ると、愁水はどうにも、首を突っ込まずにはいられなくなる。
何かに、急き立てられるように。
「蟇目神事は、まだ試していないのだが。どう思う?」
「ここまで弱ってりゃ、憑き物が離れても、若様も数日ともたねえだろうな」
卯之助に問われて、愁水は即座に答えた。
蟇目神事とは、鏑矢を放ち、魔を祓う鳴弦の儀のことだ。弦音そのものが破邪の力を持つため、それが神事ともなれば、穢れに侵された人間ごと滅しかねない。
「それより、御札で悪化したと言ったな。どこの社だ?」
「羽黒山の……」
「なるほど、そりゃ悪化するな」
「なぜだ? 兄上の御所望だったのだぞ」
「――相手は蛇だ。それもただの蛇ではなく、水神の化身だな」
愁水が告げると、卯之助が掠れた声で力なく言った。
「水神……代々、神を使役していたということか? なんと不遜な……」
「歴代の藩主は、わかっていたはずだぜ」
だから、〈雨障み〉という言葉を残したのだろう。
〈障み〉とは、〈ツツシム〉――神々の怒りに触れた罰として、〈慎む〉状態を指す。つまり〈雨障み〉とは、神の霊威に触れることを避ける言葉なのだ。
愁水は懐から筆を取り出し、宙にくるりと円を描いた。鵺の血を吸わせた〈魔の筆〉だけあって、絵を描く以外にも、使い道がある。
ある程度正体を掴んだ上で、円を覗けば――その正体が視える。
巨大な白蛇が、隼之介の身体に幾重にも巻き付いていた。
「羽黒山の御神体は、蛇だ。かえって力を強めちまう。稲荷か狼にしておけば、助かっただろうな」
「そんな……」
「――そなた、よくわかったな」
隼之介が目を開き、愁水を見てうっすらと笑った。
「一度、根岸で会ったな。愁水と申したか」
「……左様でございます」
床から起き上がった隼之介に手招きされ、愁水は傍に寄った。
気位の高そうな顔つきだが、水沢家の若殿といえば、その評価は二分される。
高飛車で傲慢。すでに現当主を越える切れ者ぶりで、政務の大半を担っており、徹底した合理主義ゆえに周囲からは敬遠されている。
その一方で、隼之介は卯之助の誘いで、根岸の茶会に時折顔を出している。
城主、職人、学者、商人――身分を越えて、同じ机上で談笑できる〈時代の風潮〉を最も体現しているのが、根岸に住む数寄者たちだ。
その寛容さを好んで、愁水も根岸に居を定めたのだが――。
隼之介はその茶会で、貴賤を問わず交流するだけの度量を見せている。根岸に住む文人の評価も良く、たった二言三言ほどだが、愁水も言葉を交わしたことがあった。
――そなたの絵は、自由だな。化物が人に紛れて、笑っておる。
隼之介は多くを語らなかったが、その言葉はやけに印象に残った。
自分と同じ年頃の男の、どこか厭世的な物言いが気になったというのもある。
「そなたは化物を祓えると聞いたが、真か?」
「私は、祓い屋ではござりませぬ」
――手討ちにできるものなら、してみやがれ。
愁水が荒々しく腰を浮かすと、その動きを手で制した隼之介の目許が、微かに和らいだように見えた。
――笑った?
「――済まない、気を悪くさせたようだ」
「いえ、ご無礼仕りました。ご容赦を」
愁水が素っ気なく告げると、今度ははっきりと、隼之介が笑った。
「慇懃無礼とは、そなたのためにある言葉だな。――気に入った、普段通りで良い」
「……そんなら、遠慮はしねえが。あんた、なぜ羽黒山を選んだ? 逆効果だと知っていただろう」
多少心を開いたように見えたのだが、隼之介はその問いかけに、感情の読めない虚ろな目をした。
「いや。別段、他意などないが……。そうだな、同じ蛇であれば、あれを祓えるのではないかと……」
「……祓いたいのか?」
「当然だ。私の祝言が近いのだからな」
隼之介は愁水の目を見据えて、そう断言した。
――どういうことだ?
祓い屋ではないと聞いて、隼之介が浮かべたのは安堵の笑みだったはずだ。それが、口では祓いたいと言う。何の迷いもなく。
「あんたの〈本当の望み〉は何だ? それがわからねえと――」
口を開きかけた隼之介が、突如咳込んだ。口元を押さえた手に、血がついている。ずるりと体が傾き、隼之介は倒れたまま動かなくなった。
「兄上っ!」
白蛇が錯乱したように、床をのたうっている。その首に、首輪が嵌められていた。
陰陽師が化物を使役するための、件の呪具が。
駆け寄ろうとする卯之助に、白蛇が威嚇の姿勢を見せる。
「卯之助、退いてろ!」
飛び出した愁水はとっさに九字切りをしたが、間に合わなかった。
左腕に鋭い痛みが走る。
蛇の牙が、愁水の腕に深々と突き刺さっていた。
――――
*中屋敷:江戸時代に大名が設けた、上屋敷の控えや隠居、世継ぎの住居として使われた邸宅。
*丁:ページのこと。幕末・明治期から頁の表記に。




