蛇神(2)
「おまえ……」
そう言いかけて、隼之介は逡巡した。呼ぶべき名を知らなかったのだ。
――あたしに名前なんて、あるわけないだろ。
そう答えたときの、女の横顔をふと思い出す。
拗ねたような、羨むような。
隼之介は熱の痛みも忘れて、こいつに名を与えてやりたい、と思った。それこそ、焦がれるように。
「おまえを、百合、と呼んでもかまわないか? 初めて見たとき、おまえを百合のようだと思ったんだ。白くて――」
隼之介はとっさに口をつぐんだが、女がはっと息を呑むのが伝わった。
「……好きに呼びな」
と、蓮っ葉な答えが返ってきたが、その声は喜色に満ちていた。隼之介は思わず唇を緩めたところで、己がこの無礼な物言いを楽しんでいたことに、遅れて気がついた。
――なるほど、この晩はたしかに、心細かったのかもしれない。
「……百合」
隼之介は百合に向かって、手をのばしていた。
「この姿じゃ、あんたの手を握ってやることもできないんだよ。あたしはあの池を離れると、ただの蛇になっちまうのさ」
そう言って、百合は近寄ろうとしない。
「あたしの身体は、冷たいから……」
隼之介は己でもそうと気づかぬまま、百合に笑いかけていた。
「俺は、冷たいほうがいい」
だから、触れてくれ――と頼むまえに、百合は隼之介の首筋に、ひたりと身を寄せてきた。
思ったとおり、蛇の体は冷たくて、心地が良い。
真っ赤な瞳と視線が交わると、人の本能ゆえか、頭の隅で警鐘を鳴らすように、静止の言葉が次々と隼之介を苛んだ。ここまでの努力全てが、水の泡と成り果てるような危惧さえあった。
――気を許してはいけない。
そんなことは、わかっている。隼之介はいまだけだと、己に言い聞かせた。
化物に心まで囚われるなど、あってはならぬのだから。
そう己を戒めたとき、視界の端、格子窓のむこうに、蒼白い炎が現れた。人魂のように、その炎は不安定に揺れ続けている。
「なぜ……」
百合の声が、震えていた。
「あたしは、呪ってなんかいないのに……!」
「何の話だ? あれは、何――」
そう問いかけようとして、隼之介は激しく咳き込んだ。
「隼之介……!」
百合が悲鳴じみた声をあげる。口を押えた手に、血がついているのが夜目にもはっきりと見えた。
水沢家歴代藩主の手記にあった文言を思い出し、隼之介は顔を歪めた。
鬼火を視た者は遠からず、死に至る――。
*
「――どこへ行くんだ、粧しこんで」
薄墨色の袴に、黒の長羽織——平生よりも身なりを整えた愁水を見て、庵に顔を出した嗣巳が片眉を上げて言った。
夏の訪れを感じさせる蒸し暑い雨の日が続いているが、絽の羽織は透け感があって、涼しげに見えるだろう。何より、品がある。武家の依頼も多いため、無礼にあたらない程度の装いを、と適当に見繕っておいたのだ。
「粧しこむ、か。なんだ、いい男に見えるか?」
愁水がにやりと笑ってみせると、嗣巳は大真面目に頷いた。
「平生ほど、胡散臭くは見えないな」
「珍しいじゃねえか、お前が素直に褒めるなんて」
「いまのが、褒め言葉に聞こえたのか……?」
軽口を叩きながら、愁水は懐から文を取り出した。
「愛宕の中屋敷(*)だ。若様が化物に魅入られて寝込んでいるから、一度見てくれ、だと。送り主は若様の弟だ」
「お前こそ珍しいな。祓い屋ではないと、捨て置きそうなものを」
「この兄弟ってのが、全く知らねえわけでもねえからな。まあ、見るだけだ」
「無礼な態度で手討ちにされぬよう、気をつけることだな」
嗣巳の言葉に、愁水はひらひらと手を振った。
殿様であろうが豪商であろうが、気に入らない注文は何度も跳ね除けてきた。そこがまた豪気で良いと、依頼者の大半は好意的に受け取っている。
一触即発の事態も、なくはないが――〈化物絵師〉の通り名を怖れて、実行に移した者はいない。
――さて、件の若様は、そのどちらか。
庵を出ると、朝から続いていた雨は降りやんでいた。青葉の木立から蜻蛉玉のような雫が、煌めきながら零れ落ちていく。
濡れた草木の匂いと生暖かく湿った風に包まれて、愁水は静かな巳の刻、青時雨のなかを歩きだした。
愛宕山が視界に入ると、愁水は桜川と称する放水路の傍で足を止めた。
愛宕の下藪小路を訪れるのは初めてではないが、いずれも依頼で訪れたため、のんびりと物見を楽しんだことはない。
江戸では最も高い山で、町から内海までを一望できる月見の名所でもあり、付近には大名屋敷も多い。
――武家好みの絵、か。
依頼人がこぞって口にする言葉を、愁水はあまり深く考えてこなかった。
見る者によって「荒々しさ」だの「色気」だのと、評価が変わるからだ。
人は己の見たいものを、好き勝手に見るものだ。
それは真理だが、武家屋敷の前に立つ時の〈忌避感〉については、言語化できずにいる。
――己の自由を、奪う場。
愁水は浮かんだ言葉を掻き消して、長屋門の門番に声をかけた。
御用部屋から取次役に連れられた愁水は、書院らしき座敷に通された。
そこに現れた若殿の弟――卯之助は、愁水の顔を見て困惑したように言った。
「なぜ、ここに愁水殿が?」
「なぜって、あんたが文を寄越したんだろう」
砕けた口調で応じたのは、以前、根岸の好事家達の集まりで知り合った際に、卯之助からそう頼まれたからだ。
「私が、文を……? いや、これは私ではないし、兄上の字でもないぞ」
――では、差出人は誰だ。
卯之助は不気味そうにぶるりと身を震わせて、文に目を走らせた。
「だが、ここに書かれてあることは真だ。加持祈祷は効かず、神社の札も取り寄せたが……兄上の容態は、かえって悪化した」
「この、若様が魅入られたという化物とは?」
「私にも、詳しいことはわからぬ。ただ……我が水沢家には、代々〈雨障み〉という禁戒がある。雨の日には、池庭に出るなと言われておる」
眼差しで問いかけると、卯之助は半信半疑といった様子で語った。
「橋に化生の女が立つそうだ。栄誉と引き換えに、少しでも契約を違えると、祟るとも。兄上はその女に呪われたのであろうと、乳母が泣いていた……」
溜息をついた卯之助は、気を取り直して愁水に向き直った。
「愁水殿が来てくれたのは、心強い。経緯はともかく、兄上の様子を見てもらえぬか?」
「俺は――」
「祓い屋ではないのだろう。重々、承知の上だ。私としても、長年この地に棲まう化物に、無体なことをしたいとは思わぬよ」
「あんたなら、そう言うと思った。だから来たんだ」
「……差出人不明というのが、不気味ではあるが。奇妙なことばかり続いているのだから、一つひとつ落着させるしかないな」
卯之助は疲れたように笑って、表御殿から、主家の暮らす裏御殿の寝所へと向かった。




