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【第一部・完結】幽世庵モノガタリ ~化物絵師と鵺〜  作者: Yumiko
第八幕 雨夜の月―蛇神

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蛇神(2)



「おまえ……」


 そう言いかけて、隼之介は逡巡しゅんじゅんした。呼ぶべき名を知らなかったのだ。


 ――あたしに名前なんて、あるわけないだろ。


 そう答えたときの、女の横顔をふと思い出す。


 ねたような、うらやむような。


 隼之介は熱の痛みも忘れて、こいつに名を与えてやりたい、と思った。それこそ、焦がれるように。


「おまえを、百合、と呼んでもかまわないか? 初めて見たとき、おまえを百合のようだと思ったんだ。白くて――」


 隼之介はとっさに口をつぐんだが、女がはっと息を呑むのが伝わった。


「……好きに呼びな」


 と、はすな答えが返ってきたが、その声は喜色に満ちていた。隼之介は思わず唇を緩めたところで、己がこの無礼な物言いを楽しんでいたことに、遅れて気がついた。


 ――なるほど、この晩はたしかに、心細かったのかもしれない。


「……百合」


 隼之介は百合に向かって、手をのばしていた。


「この姿じゃ、あんたの手を握ってやることもできないんだよ。あたしはあの池を離れると、ただの蛇になっちまうのさ」


 そう言って、百合は近寄ろうとしない。


「あたしの身体は、冷たいから……」


 隼之介は己でもそうと気づかぬまま、百合に笑いかけていた。


「俺は、冷たいほうがいい」


 だから、触れてくれ――と頼むまえに、百合は隼之介の首筋に、ひたりと身を寄せてきた。


 思ったとおり、蛇の体は冷たくて、心地が良い。


 真っ赤な瞳と視線が交わると、人の本能ゆえか、頭の隅で警鐘けいしょうを鳴らすように、静止の言葉が次々と隼之介をさいなんだ。ここまでの努力全てが、水の泡と成り果てるような危惧きぐさえあった。


 ――気を許してはいけない。


 そんなことは、わかっている。隼之介はいまだけだと、己に言い聞かせた。


 化物に心まで囚われるなど、あってはならぬのだから。


 そう己をいましめたとき、視界の端、格子窓のむこうに、蒼白い炎が現れた。人魂のように、その炎は不安定に揺れ続けている。


「なぜ……」


 百合の声が、震えていた。


「あたしは、呪ってなんかいないのに……!」


「何の話だ? あれは、何――」


 そう問いかけようとして、隼之介は激しく咳き込んだ。


「隼之介……!」


 百合が悲鳴じみた声をあげる。口を押えた手に、血がついているのが夜目にもはっきりと見えた。


 水沢家歴代藩主の手記にあった文言を思い出し、隼之介は顔を歪めた。


 鬼火を視た者は遠からず、死に至る――。





「――どこへ行くんだ、めかしこんで」


 薄墨色の袴に、黒の長羽織——平生よりも身なりを整えた愁水を見て、庵に顔を出した嗣巳が片眉を上げて言った。


 夏の訪れを感じさせる蒸し暑い雨の日が続いているが、の羽織は透け感があって、涼しげに見えるだろう。何より、品がある。武家の依頼も多いため、無礼にあたらない程度の装いを、と適当に見繕っておいたのだ。


「粧しこむ、か。なんだ、いい男に見えるか?」


 愁水がにやりと笑ってみせると、嗣巳は大真面目に頷いた。


「平生ほど、胡散うさん臭くは見えないな」


「珍しいじゃねえか、お前が素直に褒めるなんて」


「いまのが、褒め言葉に聞こえたのか……?」


 軽口を叩きながら、愁水は懐から文を取り出した。


愛宕あたごの中屋敷(*)だ。若様が化物に魅入られて寝込んでいるから、一度見てくれ、だと。送り主は若様の弟だ」


「お前こそ珍しいな。祓い屋ではないと、捨て置きそうなものを」


「この兄弟ってのが、全く知らねえわけでもねえからな。まあ、見るだけだ」


「無礼な態度で手討ちにされぬよう、気をつけることだな」


 嗣巳の言葉に、愁水はひらひらと手を振った。

 

 殿様であろうが豪商であろうが、気に入らない注文は何度も跳ね除けてきた。そこがまた豪気で良いと、依頼者の大半は好意的に受け取っている。


 一触即発の事態も、なくはないが――〈化物絵師〉の通り名を怖れて、実行に移した者はいない。


 ――さて、件の若様は、そのどちらか。


 庵を出ると、朝から続いていた雨は降りやんでいた。青葉の木立から蜻蛉とんぼ玉のような雫が、きらめきながら零れ落ちていく。


 濡れた草木の匂いと生暖かく湿った風に包まれて、愁水は静かなこく、青時雨のなかを歩きだした。




 愛宕あたご山が視界に入ると、愁水は桜川と称する放水路の傍で足を止めた。


 愛宕の下藪小路したやぶこうじを訪れるのは初めてではないが、いずれも依頼で訪れたため、のんびりと物見を楽しんだことはない。


 江戸では最も高い山で、町から内海までを一望できる月見の名所でもあり、付近には大名屋敷も多い。


 ――武家好みの絵、か。


 依頼人がこぞって口にする言葉を、愁水はあまり深く考えてこなかった。


 見る者によって「荒々しさ」だの「色気」だのと、評価が変わるからだ。


 人は己の見たいものを、好き勝手に見るものだ。


 それは真理だが、武家屋敷の前に立つ時の〈忌避感〉については、言語化できずにいる。


 ――己の自由を、奪う場。


 愁水は浮かんだ言葉を掻き消して、長屋門の門番に声をかけた。


 御用部屋から取次役に連れられた愁水は、書院らしき座敷に通された。


 そこに現れた若殿の弟――卯之助うのすけは、愁水の顔を見て困惑したように言った。


「なぜ、ここに愁水殿が?」


「なぜって、あんたが文を寄越したんだろう」


 砕けた口調で応じたのは、以前、根岸の好事家達の集まりで知り合った際に、卯之助からそう頼まれたからだ。


「私が、文を……? いや、これは私ではないし、兄上の字でもないぞ」


 ――では、差出人は誰だ。


 卯之助は不気味そうにぶるりと身を震わせて、文に目を走らせた。


「だが、ここに書かれてあることは真だ。加持祈祷は効かず、神社の札も取り寄せたが……兄上の容態は、かえって悪化した」


「この、若様が魅入られたという化物とは?」


「私にも、詳しいことはわからぬ。ただ……我が水沢家には、代々〈雨障あまつつみ〉という禁戒がある。雨の日には、池庭に出るなと言われておる」


 眼差しで問いかけると、卯之助は半信半疑といった様子で語った。


「橋に化生の女が立つそうだ。栄誉と引き換えに、少しでも契約を違えると、祟るとも。兄上はその女に呪われたのであろうと、乳母が泣いていた……」


 溜息をついた卯之助は、気を取り直して愁水に向き直った。


「愁水殿が来てくれたのは、心強い。経緯はともかく、兄上の様子を見てもらえぬか?」


「俺は――」


「祓い屋ではないのだろう。重々、承知の上だ。私としても、長年この地に棲まう化物に、無体なことをしたいとは思わぬよ」


「あんたなら、そう言うと思った。だから来たんだ」


「……差出人不明というのが、不気味ではあるが。奇妙なことばかり続いているのだから、一つひとつ落着させるしかないな」


 卯之助は疲れたように笑って、表御殿から、主家の暮らす裏御殿の寝所へと向かった。


 


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