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【第一部・完結】幽世庵モノガタリ ~化物絵師と鵺〜  作者: Yumiko
第八幕 雨夜の月―蛇神

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蛇神(1)



 ――雨の晩には、池庭の橋に〈化性けしょうの女〉が立つでしょう。


 ――けっして、お声をかけませぬように……。


 それは隼之介じゅんのすけが幼い頃から、乳母に繰り返し聞かされてきた言葉であった。





 くだんの女を初めて見たのは、隼之介が十五の時だった。


 暮れ六つ時――〈魔〉が現れるという、逢魔時おうまがどきのこと。


 弟が隼之助の作ってやった〈からくり箱〉をなくしたと泣くものだから、ひそかに屋敷中を探していたところで――例のいましめを忘れて、小雨の降る池庭に出た。


 小規模ながら、手入れの行き届いた池泉ちせん回遊式庭園(*)だ。園路を巡りながら、池に設けた小島や橋を眺め、最後は茶亭から庭を一望できる。


 心字池しんじいけ(*)のほとりの曲線部には姫百合が群生しており、朱塗りの欄干橋から見る眺めが、最も風情がある。


 弟はこの橋から鯉を眺めるのがお気に入りで、よく身を乗り出しては、乳母にいさめられていた。


 大方、この辺りで落としたのだろう。身を屈めて橋の周辺を探していると、視界の端でひらりと、白い着物のそでが揺れた。


 驚いて提灯を取り落としたが、月も見えない宵闇であるのに、周囲は蒼白く、ほの明るかった。


「――それ、あんたの?」


 りんとして勝気そうな声が、頭上から降ってきた。


 全身から血の気が引く。


 この時、隼之助は丸腰であった。


 慎重に目線を上げると、白く透き通った手が、ある一点を指していた。


 女の指先を追う。姫百合の根元に、寄木よせぎ細工の箱が落ちていた。


「何の箱だい? 空のようだけど……なんだ、開かないじゃないか」


 隼之介の手からかすめ取るように、女のほっそりとした指が箱を拾い上げた。


 相手を睨みつける。ここで初めて、隼之介は女の顔を見た。


 銀色の長い髪に、姫百合のような――くすぶり続ける炎のような、鮮やかな緋色の瞳。


 強気の奥に、孤独を秘めている者の目だと思った。あるいはそこに、己の姿を見ただけかもしれなかったが。


「……私が弟に作ってやった、七回仕掛けの秘密箱だ。手順を踏まねば、開けられない」


 返せ、と手を差しだせば、女は隼之介の手に素直に箱を乗せてくれた。


 出入りの職人に教わってたわむれに作ったものだが、自分でもなかなか良く出来たと思っている。


 女は期待を込めた眼差しで、箱を見つめていた。見つけてもらった手前、無視して立ち去るのも後味が悪い。


 隼之介は指の腹で板を少しずつずらし、その動作を七回繰り返して、箱を開けてやった。


「上手いもんだね。……あんた、優しいんだ。弟思いだよ」


 女は化物に似つかわしくない声音で、そう感心してみせた。


 昔から手先は器用な性質たちだが、それを知るのは弟と乳母だけだ。


 興味があるのは学問と剣術ばかりの、冷たい武骨者ぶこつもの――と、周囲の者に思われているのは承知の上で、隼之介自身、武家の嫡男として、あえてそう見えるように振る舞ってもいる。


 だから、女の言葉に虚を突かれて――つい頬をゆるめたのが、間違いだった。


「ふうん。当代の若様の大事なものは、弟かい」


 可愛いもんだね、と女がわらう。


 勝ったと言わんばかりの口調に、隼之介は青ざめた。


 なぜ、よりによって、化物などに隙を見せたのか――。


 隼之介は敵意を込めて睨んだが、女は痛痒つうようを感じた様子もなく、機嫌が良さそうに取引を持ち掛けてきた。


「弟に手を出されたくなかったら、雨の日の逢魔時には必ずここへ来て、あたしを楽しませるんだよ」


「楽しませる、だと?」


「そうさ。あたしはあんたの先祖のせいで、雨の日にしか目覚めないし、この橋から離れられないんだよ。……元は守り神だったのに、いまじゃ祟り神だ。子孫のあんたをなぶってやらなきゃ、気が済まないのさ」


 言葉は物騒だが、恐ろしいとは思わなかった。


 むしろ――。


 ――なぜ、そんな切なそうな目で俺を見る?


 そう思った時には、女に囚われていたのかもしれない。


「……理由はどうでもいい。約束は守れよ」


 隼之介に選択肢などなく、そう念押しするのが精一杯であった。


 幸い、屋敷には兄弟の教育の一環として、舶来品や諸国の珍しいものが定期的に運び込まれており、女はどんなに他愛のないものでも、隼之介が持って行けばそれなりに楽しんでいるようだった。


 女が最も興味を示したのは、蒔絵まきえ(*)をほどこした望遠鏡であった。これで月面を観察できるのだと言えば、隼之介が意外に思うほど、女の驚きようは大層なものだった。


「月か……。見たいねえ……」


 女の呟きには、ほろ苦い響きがあった。


 隼之介は厚ぼったい雲に覆われた夜空を見上げて、問いかけてみた。


「月を見ることは、ないのか?」


「もう数百年は見ていないね」


 それ以来、隼之介は雨が降るとたびたび夜空を見上げるようになったが、生憎あいにくと月の見える夜はなく、ぼんやりとした輪郭すら掴めなかった。


 代わりに持っていった、月面の模写――銅版画「月輪真景図がちりんしんけいず」を、女はしげしげと、飽きることなく眺めていた。


 女といる間はいつも、柔らかな霧雨が降っていた。長く話し込むわけでもないため、見せるのが紙の類でないかぎり、わざわざ傘を持って行くことはない。


 しかし、ある日の暮れ方――女と言葉を交わすようになって、三年の月日が流れていた――南蛮なんばんの顕微鏡を見せていると、瞬く間に雨が勢いを増した。


 つぶてのような雨は女の上にも等しく降り、女の白装束を派手に濡らす。


 見ているだけで寒々しくなり、隼之介は反射的に自分の羽織を脱いで、女に被せていた。


「……馬鹿だね、あんた。あたしは冷たくもなんともないんだよ。それより、あたしの手にかかるまえに、病なんかで倒れたら承知しないよ」


 女が呆れて言ったその日の晩に、隼之介は高熱を出して倒れた。


 次期当主として多忙であり、日頃の疲れが一度に噴き出したのだろうが、うつる病でないとも言い切れない。しぶる乳母を説き伏せて、隼之介は早々に人払いを済ませておいた。


 ――弱っている姿など、見せるものではない。


 明日になっても熱が下がらなければ、侍医じいを呼ぶだけだ。医者以外の者が傍にいたところで、意味はない。


 乳母にそう告げたのも本心からだったが、時が進むにつれ、心の奥が妙にざわついた。


 節々の痛みよりも、そのざわつきのほうが落ち着かない。


 硬く目を閉じたとき、


「――心細いのかい?」


 暗がりから、もはや聞き慣れた女の声がした。


 さいぜん乳母に行灯を消させたため、目を凝らしてもはっきりと見えないが、人の形をしていないことは確かだった。


 輪郭からは判別がつかない。人より大きいということはないが、けっして小さくはない。そして、おそらく――白いのだろう。


 ひんやり、ぐにゃり――。


 見つめているうちに、あまり覚えのない質感を想起する。しかし、やはり恐ろしいとは思えなかった。



――――

*池泉回遊式庭園:中央の池(池泉)の周りの園路を回遊し、景色の移り変わりを楽しむ庭園。


*心字池:日本庭園の形式の一つで、漢字の「心」の草書体をかたどった池。


*蒔絵:漆器の表面にうるしで絵や文様を描き、金粉や銀粉をきつけて定着させる技法。

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