幕間 神人共食
「ありがとうございます、愁水先生」
肉筆画の入った桐箱を抱えて、初老の男が何度も頭を下げながら帰っていく。
客が、愁水の絵を――自分のためだけに描かれた、一点物の肉筆画を手に取る時、その顔は一種独特の驚きと喜びに満ちている。
あるいは、安堵の表情。誰にも理解されなかった孤独な苦しみが、一枚の美しい絵として認められた――とでもいうように。
そして心癒された客は、〈空蝉の世〉(*)に戻る踏ん切りをつけて、帰ってゆく。
愁水が客の想いや事情を踏まえて描く様を、ある客がこう評したこともあった。
人間を現世へ、化物を異界へ――それぞれが〈在るべき場所〉で、自分の物語を続けるための儀式のようだ、と。
愁水が次の作業に移るのを、嗣巳は茶を飲みながら眺める。
愁水がいま描いているのは、前回と構図を変えた〈蜃気楼図〉だ。京の予想通りに売れたこの図は、連作として売り出すことになっている。
右端に大きく描かれた蛤を見ると、伊勢の桑名宿名物である、焼きハマグリを思い出した。
「……春先に食ったやつ、美味かったよな」
同じことを考えたらしい愁水が、ふと呟いた。
「寄り道した甲斐があっただろう」
「まあな。寄り道どころか、遠回りだったけどな」
相変わらずの減らず口だが、松ぼっくりの上で焼いたハマグリの、ふっくらとした大きな身は、愁水も納得の美味さだったのだ。
「あれ、汁が零れねえように紐で縛ってたよな。そんで、その貝汁も美味くて――」
と、珍しく食に関心を示す愁水の傍らに、いつの間にか〈奇妙なモノ〉があった。
駕籠に並んだハマグリが、薄紅色の煙を吐いている。
「愁水、何だそれは」
「シロが持ってきた」
シロというのは、近所で飼われている犬だ。非常に賢く、齢を重ねて化物に近づいているのか、時折遠出をしては、人の世に出回らないような〈珍しいモノ〉を咥えてくる。
芝戸を開け放つと、シロが庭の隅に伏せて、怯えた眼差しで嗣巳を見上げていた。
害はない――どころか、犬猫は有益であることの方が多いのだが、気に入った者に〈土産〉を届けにくる彼らの習性には、困ることも多い。
ハマグリが実際に煙を吐くはずもなく、人の世のモノでないことは一目瞭然だが、愁水ならば面白がって食いかねない。
「出所不明のモノは食うな、と言っているだろう」
嗣巳が駕籠ごと取り上げると、愁水は不満げな顔をしたものの、抵抗には至らない。何事においても、執着というものを知らない男だ。
「いいじゃねえか。化物の食いもん――いわゆる〈ヨモツヘグイ〉(*)なんざ、とっくやっちまっただろ」
と、愁水は片手を振って、嗣巳の説教を軽く流してしまう。
本能的に、毒への耐性に気づいているのだろうか。
愁水のこの豪胆さは、恐怖や不安を感じる機能が壊れてしまっているせいではないかと、時々思う。
愁水が忘れた記憶――強力な毒を何度も盛られ、苦しむ童の姿を覚えている嗣巳にとっては、その豪胆さは不快でしかない。
ならば、と魔が差したように考える。
体の一部でも喰われれば、さすがの〈化物贔屓〉も、無防備ではいられなくなるだろうか――。
嗣巳が愁水の背に手を伸ばしかけたとき、外から聞き慣れた声が、二人の名を呼んだ。
「――今日は六月十六日、〈嘉祥の日〉(*)でしょ。愁水が探していたの、見つけてあげたんだから」
遊びに来た京が、菓子の包みを突き出して言った。
その京に文字通り手を引かれて、今日は兄の京助だけでなく、音曲の師匠である滝と雨月も顔を見せに来た。
閑静な庵が、あっという間に賑やかになる。
「ああ、悪ぃな。錦玉羹だろ?」
錦玉羹、と口中で反芻した嗣巳に、京が得意げに説明してみせた。
曰く、寒天と水飴を煮詰めて冷やし固めた、羊羮の一種らしい。
透明感のある菓子は、紫陽花の形をしていた。涼しさを目で味わう、ということで、人気の菓子らしい。
「氷の結晶みてえで、珍しいだろ?」
と、愁水が笑いかけてくる。
ふと、幼少期の〈あれ〉を思い出したのかと勘繰ったが、愁水は平生通りだ。
「……何だよ?」
嗣巳はいや、と短く答えて、菓子を口に運んだ。
口に含むと、すっきりとした甘さだった。確かに、夏向きの菓子だ。
「――そんで、地本問屋は順調なのか」
愁水が尋ねると、京助は「まあな」と控え目に首肯したが、唇の笑みを隠しきれていない。
「そりゃ、本町通りだもんな」
と、愁水が感心してみせる。
目で問うと、愁水が応えて言った。
「通油町に面した本町通りといやあ、五街道の一つ、日光街道も兼ねた交通の要衝――目抜き通りってやつだ。隣の馬喰町なんか、旅人宿が集まって、宿場町みてえなもんだしな」
なるほど、と嗣巳は頷いた。かさばらない錦絵は、旅人に土産として好まれる――と、これくらいは嗣巳にもわかる。
「それにな、いまあの辺りの長屋の住人は、ほとんど版元が雇った版木屋――彫師なんだ」
と、京助が清々したように言った。
「噂話なんざ、している暇はねえ。まあ、どこに行っても、やっかみはあるもんだけどよ」
「でもあたし、ちゃんとお別れの挨拶は自分でしたのよ。錦絵を一枚ずつあげたの。倒れたとき、あたしを運んでくれたから」
目下、むやみに人の心を読まないように訓練中だという京は、それなりに成果を上げているらしく、他人の目を見て話せるようになった。
そんな京を、滝が嬉しげに見守っている。雨月は滝に寄り添うだけで満足らしく、会話には入ってこない。
兄妹の近況を一通り話終えると、話柄は出版界隈の事情で盛り上がった。
最初は勉強がてら話を聞いていた京だが、途中で飽きたらしい。菓子の小皿を持って、嗣巳の隣に移動してきた。
「愁水が、〈神人共食〉が大事って言ってたの。それって、みんなで食べたほうが美味しいってことでしょ?」
京が、期待に満ちた眼差しを向けてくる。嗣巳は小さく笑っていた。鵺相手に物怖じしない姿が、かつての愁水と水代を思い出させる。
「お陰様で、美味しく頂いていますよ。今日は、貴女の獏は?」
「また、どっか行っちゃった……」
京の横顔に、寂しげな陰が差す。
「ずいぶん、獏を気に入ったんですね」
「うん。可愛いでしょ?」
変わった童だと思った。獏――白黒のまだら模様をした、丸みのある体躯象のような鼻に、牛のような尾、虎のような短い脚を持った、化物。
現存する動物の継ぎ接ぎのような体躯は鵺に似て、常人であればとても「可愛い」とは言えないだろう。それがいなくて、寂しがるなどということも。
――化物を傍に置く人間は、一様に危うい。
嗣巳が何気なく愁水を見遣ると、その眼差しをどう解釈したのか、京が首を傾げて言った。
「愁水のこと、心配?」
「心配……私が?」
唖然として反応が遅れたが、京は無邪気に首肯した。
「あのね、化物は寂しい人間が好きなんだって、獏が言うの。それって、幸せになって欲しくて、とくべつに見守りたくなるってことだよね?」
嗣巳が絶句しているところへ、件の獏が、ふわふわと宙を浮かびながら庵に入ってきた。
「千里ってば、お菓子につられて来たんでしょ?」
京が手を伸ばすよりも早く、白いモノ庵に飛び込んできた。まだ庭に居たらしいシロが、見たこともないような形相で牙をむいている。
畳に着地したばかりの獏は、素早く動けるような体型ではないし、何しろ突然のことで、人に化ける暇もなかった。
「おい、噛むなよ――」
愁水が手を伸ばしたが、普段は温厚なシロの変貌ぶりに、こちらも反応が遅れたようだ。
「千里っ!」
と、京が悲鳴を上げる。
嗣巳は思わず目を閉じたが、哀れな鳴き声は耳に残った。
――〈賑やか〉を通り越して、酷く騒がしい。
当人達は慌てふためいているが、傍で見ている嗣巳は、ふっと笑ってしまう。
その喧騒の中心にいる愁水を見て、安堵に似た心持ちになったのが――嗣巳の〈答え〉なのだろうか。
――あたし、でっかい生き物が好き!
――俺も。でかいってことは、強いってことだろ?
耳の奥で、愁水と水代の声が響く。初めて鵺の姿を見せた時、流れる血を案じる様子は見せても、変わらず嗣巳を受け入れた――奇特な双子。
あの日は、朝から雪が降っていた。
祭りが終わった後の、夕暮れ時。愁水は社殿の奥に隔離されていた水代に会いに行き、伯父の差し向けた刺客に襲われて――兄妹揃って、懸造の欄干を飛び降りたのだった。
誰よりも地勢に精通していた愁水には、無事に着地する算段があったらしい――というのは後で知ったことで、傍で見ていた嗣巳は肝が冷えた。
四肢も揃わぬまま、鵺の体に転じて飛び出し、兄妹をその背に受け止めて、飛翔した。
命の危機など、とうに慣れてしまった兄妹は、寸前のことなど忘れて無邪気に笑っていた。
空が近い。
雪の結晶を見た気がする――と。
地上に降ろした後も、双子の興奮は冷めやらぬようで、二人して鵺の頭を撫で回す始末だった。
――あの日の笑顔が、頭から離れない。
あれが最後の笑顔だったからこそ、尚更だ。
物思いに耽ったまま、愁水の背を眺めていたらしい。振り返った愁水と、目が合った。
「どうした、珍妙な顔しやがって。変なもんでも食ったのか?」
怪訝そうに片眉を上げて、愁水が隣にどかりと腰を下ろす。
下らない感傷も吹き飛ばすような、明朗闊達な声。
嗣巳は嘆息して、答えた。
「――お前と同じものしか、食っていない」
――――
嘉祥:菓子を食べて無病息災を願う日。「獏(2)」既出。




