獏(7)
「――どうだ? 呪いとやらは解けたか?」
「いえ……残念ながら。けれど、弱まったのは確かです。この絵は、俺の止まり木になってくれそうですね」
「それじゃ、また旅に出るのか」
獏の答えを聞く前に、京が獏の外套の端をそっと握って、不安そうに見上げる。その京助を宥めるように笑って、獏は答えた。
「ええ。でも、時々戻ってきますよ。〈家〉ができましたからね」
「……時々」
「名をくれるなら、呼べばいつでも戻って来るよ」
獏は不満げな京に向き直って、切り出した。
「名前?」
「名付けも、一種の〈呪い〉だけどね」
願いをこめて、存在を祝うこと。名前を呼んで、相手を認めること。そこにはどうしたって、繋がりが――〈縁〉ができてしまう。
その説明を理解したのかどうか、京は小難しい顔をして考え込んでいる。
「化物との縁なんて、本当はないほうがいいんだけどね。……命名は、己の魂の欠片をくれてやるのと同じことだ。そう何度もできることじゃ――」
「――千里」
と、京がぱっと顔を上げて言った。
「遠く、どこまでも行ける代わりに、どれだけ離れていてもきっと帰ってきてね――という意味よ」
「……お京」
心配して呼び掛けた京助に、京は断固として首を横に振った。
「だめ、名前はあたしがつけるの。誰にも譲らないから!」
千里の首に抱きついた京を見て、京助はぐっと何かを呑み込んでいた。反対すれば、それ以上の反発が返ってくるだけだ――と、想像はつくが、こと生き方に関わる問題だ。その胸中は、複雑だろう。
「いいのか、京助?」
愁水が確認を込めて問うと、
「いや、これでいいんだ。一緒に居てえって奴らを引き離すことが、正しいとは思えねえ。この先に起こる良いことも悪いことも、全部あいつらのもんだ。俺のもんじゃねえ」
その〈悪いこと〉だって、いつか何かの糧になるかもしれねえし――と言った後で、京助がなぜか、真正面から愁水を見据えた。
「お京に聞いた。お滝ちゃんと雨月もそうだが、愁水と嗣巳も……。互いを想い合ってるってんなら、傍に居るのが一番だよな」
「待て、そこは一緒にするんじゃねえよ」
訂正を試みたが、京助は訳知り顔で「いいんだ、わかってら」と取り合わないため、早々に諦めた。
「――お茶が入りましたよ」
間が悪い、と言うべきか、嗣巳が茶菓子を盆に乗せて、運んでくる。
「おう、ありがとさん。俺ぁ、あんたのことも応援しているからな、嗣巳」
茶器を受け取りながら、京助が片手で嗣巳の肩に手を置いた。
両手が塞がっている嗣巳は、「何だ、こいつは」と目だけで愁水に問いかけてきたが、京助の対応は任せることにして、京の隣に胡座をかいた。
「それにしても、よく嗣巳や雨月の正体がわかったな」
言いたくなければ、それでも構わない。言外にそう滲ませての問いだったが、京は屈託なく打ち明けた。
「あのね、化物の心は読めないの。だから、わかったの」
「ああ、そういうことか」
「でも……愁水も、ちょっと読めないの。心配してくれてるとか、そういうのは何となく伝わるんだけど……。他の人たちみたいに、はっきりと言葉が浮かばなくて……」
京の声が、たどたどしくなる。気にするなと頭を撫でたが、傷のない己の腕を見て、ふと真顔になる。
京助が夢の中で受けた傷は、かすり傷と言えないほどには深かった。京に気取らせまいとして、微塵もそんな様子は伺わせていないが、それなりに痛みもあるはずなのだ。
対して、愁水は傷一つ残っていない。
今までは、人より頑丈なだけだと、流していたが――。
「――それにしても、よ。俺たちゃみんな、お滝ちゃんに救われたんだよなあ」
滝の名につられて、愁水は顔を上げた。
あの日、京が音曲の手習いに来ないのを案じた滝が、長屋に踏み込んで、全員の名を呼ばなかったら――。
京介の言う通り、夢に閉じ込められたまま、生きてここにはいなかっただろう。
――愁さん、起きて。
滝に名を呼ばれたとき、愁水は柔らかく抱き締められたように錯覚した。
実際には、滝が抱えていたのは篠笛(*)だったのだが。
聞けば雨月の助言に従って、その笛を夕七つから夜五つ(*)まで吹き、合間に名を呼び続けたというのだから驚かされた。
だが当の本人は、疲れなど伺わせず、朗らかに笑ってみせた。
――お京ちゃん。笛が上手になりたいって言ってたいたでしょう。
――お寝坊さんには厳しいお稽古だけれど、ついて来られる?
力を込めれば脆く崩れてしまいそうに細い体躯だが、見た目に反して、滝は芯が強い。
愁水は滝の声と笛の音とを思い出しながら、獏を描いた絵に、歌を書き足した。
寝ても見ゆ寝ねでも見えけりおほかたは
空蝉の世ぞ夢にはありける
――寝ていても夢に現れて、寝なくてもあなたを幻に見る。大体、この空蝉の世こそが、夢のようなものだ。
歌の本意からは逸れるのだろうが、それでも愁水は、この歌に託したのだ。
例え全てが夢であったとしても、この憂き世で出逢いたいのだ、と。
そう思えたなら、京と獏は互いを縁として、この先も生きていけるのではないか――。
ふと顔を上げると、庭先に飛んでいた黒蝶が目に入って、あいつはどうしているだろうかと気にかかった。
滝とは正反対の、男装の同心。強いように見えて、必死に弱さを隠している娘――。
愁水は息を吐いて、筆を置いた。
――――
*篠笛:木管の横笛のこと。
*夕七つから夜五つ:夕方四時から夜八時頃




