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【第一部・完結】幽世庵モノガタリ ~化物絵師と鵺〜  作者: Yumiko
第七幕・鬼雨に喰らう―獏

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獏(6)



 間一髪の所を、嗣巳に助けられたらしい、と察したが、今更そんなことで礼を言い合う仲でもない。


「結界だとかちまちましたもんは、やっぱり俺の性に合わねえな」


 礼の代わりに飄々《ひょうひょう》と応じれば、


「わかりきった嘘を吐くな。お前、獏のほうに結界を施しただろう」


 嗣巳が溜め息を一つ落として、愁水の襟首から手を離した。


 目の奥で散っていた光が収まり、くらんでいたまなこにも、嗣巳の非難がましい顔がはっきりと見えた。


 嗣巳の足元では、兄妹がお互いを庇い合って身をすくめている。嗣巳が当然のように二人を助けたのは意外だったが、何も言わないことにした。


 薮蛇やぶへび、というやつだ。


 喰らえば痛手を負う暴発ではあったが、距離さえ取れば、兄妹と自分の身は守れると思ったのだ――という弁明も、やめておく。


 嗣巳が鼻先で一笑するのが、目に見えている。


「おい、生きてるか?」


 愁水の呼び掛けに、獏は反応しなかった。気絶して人型を保てず、獣の姿で倒れている。


 嗣巳が、舌打ちをした。


「――閉じ込められたぞ」


 どこに、と問う必要はなかった。獏の作った扉が消えていたからだ。


「俺の結界は、上手く作用したんだよな?」


 獏の体に触れて検分したが、傷は見当たらない。それでも目を覚まさないのは――。


「さっきの、〈巫女の呪い〉というやつだろう」


 嗣巳の言葉に、愁水は目を細めた。


 ――獏は、〈巫女〉とは言わなかったはずだ。


 嗣巳は顔色一つ変えていないが、己の《《失言》》に気づいていないあたり、思ったより深刻な事態らしい。


「獏が目を覚ますまで、待てばいいんじゃねえのか?」


うつつでお前が絵に描いてやらん限り、目を覚まさんぞ。魂と体が壊れかけているからな」


 ふいと顔を背けた嗣巳が、忌々《いまいま》しげに言った。


「これだから、夢や精神といった領域には、お前を近づけたくなかった。危険だと言っても聞きやしない」


「そりゃ、後悔したくねえからな」


 その言葉に反応したのか、嗣巳の顔がわずかに傾いたようだったが、表情までは見えない。


 それにしても、どう打開すべきか――。


 闇のなかで、火花が散る勢いで思考を巡らせるが、妙案は思いつかない。


 その時ふと、耳元で声がした。


 ――愁さん、起きて。


 鈴のような、涼しげで柔らかな声音。


 透明感のある、華やかな笛の音色。


 気づけば、愁水は畳の上に寝転がっており、滝が心配そうに顔を覗き込んでいた。


「……あねさん?」




「――よし、仕上がったぞ」


 愁水が筆を置くと、両側から兄妹が絵を覗き込んだ。


 左上は楼閣、左下は海。右下は幻を吐くハマグリと獏――ときて、右上部には大きな余白がある。


 その余白を凝視して、京助が真剣な面持ちで尋ねた。


「なあ、愁水。荘厳そうごんで、すげえ絵だと思うんだけどよ……本当に、人間の魂は吸い込まれたりしねえんだよな?」


「しねえんじゃなく、できねえんだよ。心配すんな、心の空白を満たせるのは己のみ。絵はちっとばかし、慰めてやることしかできねえよ」


「ねえ、お兄さま。あたし、もう絵のなかに逃げたいなんて、思ってないわ。試してみたいこと、いっぱいあるんだもの」


 京がにっこり笑って言うと、京助はわかりやすく相好そうごうを崩した。店の手伝いをしたがる幼い妹が、可愛くて仕方ないらしい。


 この表情を目の当たりにして尚、京が疑心に囚われていたとは――思い込みの力も、さもありなん、だ。


 京助の妹を思うが故の行動力は凄まじく、あっという間に問屋と住まいとを、日本橋の通油町とおりあぶらちょうへと移した。


 いまの大伝馬町とそう離れてはいないが、一流の版元が集う界隈だ。養う者を得たからこその、京助の野心と覚悟の表れ――と、愁水は見ている。


 新参は苦労するだろうが、競争は激しくとも、客には事欠かない一等地。京助の落ち着きようを見るに、根回しもとっくに済んでいるのだろう。


 人の良さそうな顔をして――実際、かなりのお人好しではあるが――なかなか抜け目がないと愁水が漏らせば、言われた本人も、満足げに笑っていた。


「そんじゃあ、この余白はいったい何だよ?」


 と、まだ気にしている京助に、愁水は『本朝画法大伝ほんちょうがほうたいでん』(*)と記された書を手に取って、振ってみせた。


「『白紙も模様のうちなれば心にてふさぐべし』――ってな。余白に好きなものを想像して、楽しんでくれってことだ」


「――ねえ。起きなさいよ、獏。愁水が、あんたの絵を描いてくれたわよ」


 京が腕に抱いた獏を絵に近づけると、目を覚ました獏が、短い手をのろのろと伸ばした。


 〈巫女の呪い〉と、〈鵺の魔の筆〉――どちらが勝つかと見守っていたが、獏の手が触れた途端、絵が淡く発光した。


 魂が上手く定着したときに、こぼれる光。瞬きの内に、獏の姿が外套姿の男へと変わった。




――――

*本朝画法大伝:日本最古の技術的画法書。1690年(元禄3年)土佐光起とさみつおき著。


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