獏(6)
間一髪の所を、嗣巳に助けられたらしい、と察したが、今更そんなことで礼を言い合う仲でもない。
「結界だとかちまちましたもんは、やっぱり俺の性に合わねえな」
礼の代わりに飄々《ひょうひょう》と応じれば、
「わかりきった嘘を吐くな。お前、獏のほうに結界を施しただろう」
嗣巳が溜め息を一つ落として、愁水の襟首から手を離した。
目の奥で散っていた光が収まり、眩んでいた眼にも、嗣巳の非難がましい顔がはっきりと見えた。
嗣巳の足元では、兄妹がお互いを庇い合って身をすくめている。嗣巳が当然のように二人を助けたのは意外だったが、何も言わないことにした。
薮蛇、というやつだ。
喰らえば痛手を負う暴発ではあったが、距離さえ取れば、兄妹と自分の身は守れると思ったのだ――という弁明も、やめておく。
嗣巳が鼻先で一笑するのが、目に見えている。
「おい、生きてるか?」
愁水の呼び掛けに、獏は反応しなかった。気絶して人型を保てず、獣の姿で倒れている。
嗣巳が、舌打ちをした。
「――閉じ込められたぞ」
どこに、と問う必要はなかった。獏の作った扉が消えていたからだ。
「俺の結界は、上手く作用したんだよな?」
獏の体に触れて検分したが、傷は見当たらない。それでも目を覚まさないのは――。
「さっきの、〈巫女の呪い〉というやつだろう」
嗣巳の言葉に、愁水は目を細めた。
――獏は、〈巫女〉とは言わなかったはずだ。
嗣巳は顔色一つ変えていないが、己の《《失言》》に気づいていないあたり、思ったより深刻な事態らしい。
「獏が目を覚ますまで、待てばいいんじゃねえのか?」
「現でお前が絵に描いてやらん限り、目を覚まさんぞ。魂と体が壊れかけているからな」
ふいと顔を背けた嗣巳が、忌々《いまいま》しげに言った。
「これだから、夢や精神といった領域には、お前を近づけたくなかった。危険だと言っても聞きやしない」
「そりゃ、後悔したくねえからな」
その言葉に反応したのか、嗣巳の顔が僅かに傾いたようだったが、表情までは見えない。
それにしても、どう打開すべきか――。
闇のなかで、火花が散る勢いで思考を巡らせるが、妙案は思いつかない。
その時ふと、耳元で声がした。
――愁さん、起きて。
鈴のような、涼しげで柔らかな声音。
透明感のある、華やかな笛の音色。
気づけば、愁水は畳の上に寝転がっており、滝が心配そうに顔を覗き込んでいた。
「……姐さん?」
「――よし、仕上がったぞ」
愁水が筆を置くと、両側から兄妹が絵を覗き込んだ。
左上は楼閣、左下は海。右下は幻を吐くハマグリと獏――ときて、右上部には大きな余白がある。
その余白を凝視して、京助が真剣な面持ちで尋ねた。
「なあ、愁水。荘厳で、すげえ絵だと思うんだけどよ……本当に、人間の魂は吸い込まれたりしねえんだよな?」
「しねえんじゃなく、できねえんだよ。心配すんな、心の空白を満たせるのは己のみ。絵はちっとばかし、慰めてやることしかできねえよ」
「ねえ、お兄さま。あたし、もう絵のなかに逃げたいなんて、思ってないわ。試してみたいこと、いっぱいあるんだもの」
京がにっこり笑って言うと、京助はわかりやすく相好を崩した。店の手伝いをしたがる幼い妹が、可愛くて仕方ないらしい。
この表情を目の当たりにして尚、京が疑心に囚われていたとは――思い込みの力も、さもありなん、だ。
京助の妹を思うが故の行動力は凄まじく、あっという間に問屋と住まいとを、日本橋の通油町へと移した。
いまの大伝馬町とそう離れてはいないが、一流の版元が集う界隈だ。養う者を得たからこその、京助の野心と覚悟の表れ――と、愁水は見ている。
新参は苦労するだろうが、競争は激しくとも、客には事欠かない一等地。京助の落ち着きようを見るに、根回しもとっくに済んでいるのだろう。
人の良さそうな顔をして――実際、かなりのお人好しではあるが――なかなか抜け目がないと愁水が漏らせば、言われた本人も、満足げに笑っていた。
「そんじゃあ、この余白はいったい何だよ?」
と、まだ気にしている京助に、愁水は『本朝画法大伝』(*)と記された書を手に取って、振ってみせた。
「『白紙も模様のうちなれば心にてふさぐべし』――ってな。余白に好きなものを想像して、楽しんでくれってことだ」
「――ねえ。起きなさいよ、獏。愁水が、あんたの絵を描いてくれたわよ」
京が腕に抱いた獏を絵に近づけると、目を覚ました獏が、短い手をのろのろと伸ばした。
〈巫女の呪い〉と、〈鵺の魔の筆〉――どちらが勝つかと見守っていたが、獏の手が触れた途端、絵が淡く発光した。
魂が上手く定着したときに、零れる光。瞬きの内に、獏の姿が外套姿の男へと変わった。
――――
*本朝画法大伝:日本最古の技術的画法書。1690年(元禄3年)土佐光起著。




