獏(5)
「――お前、獏か?」
愁水の問いかけに、獏は素直に頷いてみせた。
「ええ。外から〈化物絵師〉様のお名前が聞こえたので、ご挨拶をと思いまして」
茶化すような物言いだが、愁水は取り合わなかった。
「それで、俺にどうして欲しいんだ?」
単刀直入に問えば、獏は困ったように微笑んだ。
「俺にもわからないんです。利害が一致して、この娘の願いを叶えたのに……苛立って仕方がない。どうしてだと思います?」
獏の背後で眠る京は、年相応の、あどけない寝顔を見せている。
天真爛漫そうに振る舞いながら、常に人の顔色を伺って、己の立ち位置を慎重に測っている幼い娘。
人の世では生きづらいのだろうと、愁水も察してはいた。
しかし――。
「そりゃそうだ。幸せな夢を与えたって、所詮は実感のない幻だ。このまま眠らせるってんなら、そいつはお京の未来を――〈あり得たかもしれない幸せ〉を、お前が奪っちまうってことだろ?」
「ええ、そうなりますね」
愁水の突き放した言葉にも、獏は動じなかった。
――わかってんなら、なおさら始末に負えねえな。
獏は人を殺める化物ではないが、外套の隙間に見える〈首輪〉が、予断を許さない。
「俺には人間の幸せがどういうものか、わからないんです。だから――俺に、見せてくれませんか?」
――人の望む、〈結末〉を。
獏の声が、耳の奥で反響する。
「京助っ、耳塞げ!」
京助を庇おうとしたが、間に合わなかった。視界が反転し、伸ばした手は京助に届かず――そこで、意識が途切れていた。
黄八丈(*)の小袖が、闇のなかをひらひらと楽しげに、黄蝶のように舞っている。
――勝ってうれしい、花一匁。
――あの子が欲しい、あの子じゃわからん。
己を取り囲む大人たちを見上げながら、京は幸せそうに唄っていた。
愁水も童遊びをした覚えはないが、それでも唄の順番がでたらめなのはわかる。
「愁水……ここは、どこだ? あれは、本物のお京なのかっ?」
京助の慌てた声が、闇のなかで反響する。光もないのに、人物だけが鮮明に見えるのは――。
「お京の夢の中、だろ。あの男――獏に引きずり込まれたんだ」
「じゃあ、あそこにいるお京を連れて行けばいいんだなっ? おい、お京――」
京助が近づいた途端、お京を取り込んでいた人間たちが、こちらを振り返った。
「愁水っ、俺の二親が……」
「慌てんな。ありゃ、幻だ」
京助と、二人の両親。滝と雨月、そして――。
夢見る京が〈傍に居て欲しい〉と願ったなかには、愁水と嗣巳の姿もあり、複雑な心持ちになった。
愁水はただ、「いつでも来い」と言っただけで、特別何かしてやった覚えもない。嗣巳に至っては、まともに会話したこともなかったはずだ。
しかし、そのたった一言が――拒絶されなかったということが、京にはそんなにも嬉しかったのだ。
同年代の童は一人も見当たらず、それが京の孤独を物語っているようだ――と、京助も気がついたらしい。
「お京……? なあ、みんなで遊びてえなら、早く目を覚まして起きてくれよ」
京がそっと手を伸ばすと、京は悲鳴をあげて後退った。
「――そんな目で、見ないでっ!」
「そんなって……どういう意味だよ? 俺ぁ、おめえのことを――」
「化物が好きって言ったくせにっ。お兄さまだって、《《本物》》は気味が悪いんでしょ! こんな……人の心が読める化物なんて……っ」
京がぼろぼろと涙を溢して叫ぶと、ぱっと血飛沫が飛んだ。京助の着物の肩口に、裂傷が見える。
「お、お兄さま……もう、こっちに来ないで……!」
京が真っ青になって、震えだした。
ここは、京の夢の中――。京の拒絶は目に見えない刃となって、京を傷つける者を排除するのだろう。
「おい、京助」
一歩踏み出した愁水の腕にも、何かが掠めて、血が流れた。
「愁水、手ぇ出さねえでくれ」
「任せて平気か?」
答えの代わりに、京助がひらひらと手を振る。愁水が眉根を寄せたが、腕を組んで、見守ることにした。
精神体とはいえ、現実の体が無傷であるとも思えない。けれどここで退けば、京は永久に心を閉ざすだろう――と、お互いにわかっていた。
相手を傷つけずにはいられないほど、京は怖がっている。言葉にできない代わりに、自分を受け入れてほしいと、全身で訴えている――。
「あのなあ、心が読めるだと? どこがだよ。俺の心なんざ、これっぽっちも読めてねえじゃねえか!」
京助は片手で肩を押さえながら、さらに距離を詰めようとする。腕や頬に無数の切り傷を作りながら、それでも京助は歩みを止めなかった。
「おめぇは俺に遺された、たった一人の妹で……天涯孤独じゃねぇとわかって、俺がどんだけ嬉しかったか……。俺は、何度もそう伝えてきたじゃねえか。その言葉も信用しねえで、勝手に決めつけて……ふざけんじゃねえ」
京助の声が、いつしか震えを帯びていた。
「だ、だって……あたしを、どこか別のところにやったほうがいいかもしれないって……」
「何を聞いてたんだ? 俺ぁ、長屋を変えちまって、地本問屋も別のところでやったほうがいいかもしれねえと言ったんだぜ。同じ長屋に、うるせえ三人組がいただろ?」
京は声もなく、その場にへたりこんだ。
「ほらよっ。誤解が解けたなら、帰ろうぜ」
京助の差し出した手を、京はまだ取れずにまごついている。
「何だよ? 気になることがあるなら、この際、全部ぶちまけてみろよ」
「あの、獏が……獏っ?」
京が虚空に呼びかけると、外套姿の男が傍らに現れた。
「眠ってみる夢は、人の想像を超えませんからね。苦しみのない代わりに、そこには生きる喜びもない――と、いったところでしょうか」
獏の解釈に、愁水は言葉を返せない。人生のほとんどの記憶を失っている愁水は、その間の苦しみを覚えていないのだ。苦しみの傍に、喜びがあったのか、どうかも――。
獏が指を鳴らすと、両開きの扉が現れた。
「どうぞ、現にお帰りください」
あっさりと帰り道を示した獏に、驚いたのは京だった。
「ねえ、現に戻っても、また獏に逢えるよね?」
「俺とは、ここでお別れだよ。本来なら毎夜、宿主を変えなければいけなかったのに……無理をした。君の傍に居るのが、楽しかったから」
己の着物の裾を必死に握り締めている京を見下ろして、獏は小さく微笑んだ。
「やっぱり、君は眠っているより、そうやって動いて笑っているほうがずっといい」
京に自分の手を重ねて、獏はそっとその手を引き剥がした。
「どうしてっ? あたしが死ぬまで、ずっとあたしの夢に棲めばいいのに」
「俺は神の供物に手を出した、大喰いの獏――呪い持ちの獏だから、永遠に彷徨う定めなんだよ。その呪いに逆らえば、存在ごと消されてしまう」
聞き分けない京の前に膝をついて、獏は辛抱強く言った。
「どの神様にやられたのっ? あたしがやっつけてあげるから――」
「呪ったのは人間で、そいつはもういないから」
「じゃあ……」
と言ったきり、京が言葉に詰まっていると、獏の体がふらりと揺れた。
「――逃げてください」
早く、と獏が掠れた声で繰り返す。
「どうしたの、苦しいの?」
京が獏の首輪に手を伸ばしたが、火花が散って弾かれた。
首輪にかけられた術が、暴発しかけている。
「お京、退けっ!」
愁水は脇差を抜いたが、今度は切っ先が首輪に届く前に弾かれた。
――不味い。
咄嗟に腕を伸ばして、兄妹を背後に庇う。光が炸裂し、視界が白く染まったが――首に衝撃が走っただけで、痛みはなかった。
「――私が教えてやった結界術は、どこへ行ったんだ?」
冷ややかな声が背後で聞こえ、愁水は目を閉じたまま笑った。
――――
*黄八丈:江戸時代に伊豆諸島の八丈島で生産された、黄色、樺色、黒色の三色を基調とした絹織物。歌舞伎役者や庶民の間で大流行。




