獏(3)
「化物の匂いって、雨月のか?」
愁水は羽織の袖に鼻を近づけたが、わからない。
「あの猫又の匂いじゃない。お前のほうは薄いから、直接会っていないんだろう」
「だったら、寝込んでるやつらの長屋だな。お京はほとんど引きこもってるって話だから――」
「……化物を引き寄せる、化物好きの娘か。さぞかし、人の世では生きにくいのだろうな」
体を離した嗣巳が、庵を見やって呟いた。
童に怖がられる嗣巳だが、京は《《一目で》》嗣巳にも心を開き、にっこりと微笑んで見せたのだ。
嗣巳の困惑顔は見ものだったが、京助の気苦労を思えば笑ってもいられない。
正体を見破った上で、鵺を怖れない童とは――。
「――なあ、愁水。〈化物好みの人間〉がどういう者か、わかるか?」
嗣巳が縦長の瞳を細め、楽しげに問いかけてくる。
「わからねえが、どうせろくでもねえ理由だろ」
愁水は一蹴したが、鵺の瞳の底に深い闇を見た気がして、憎まれ口を叩く気は失せた。
*
――この子の簪、もう流行遅れなのよねえ。
――この帯、もう少し帯幅が広ければ買ったのに。
通りを歩きながら、流行りに敏感そうな人の目を見つめて、心を読む。
番付を作ったときも、京はこうして流行りを掴んだのだ。
あまりやると頭が痛くなるのだが、京は流行りを知るために――京助の役に立つために、苦手な雑踏の中を果敢に進んでいく。
目当ては、京助と一緒に住む大伝馬町一丁目の長屋のすぐ近く、二丁目から三丁目の問屋街だ。
一丁目、二丁目は木綿問屋で賑わうが、二丁目からは薬種や文具を扱う問屋が目立ちはじめる。三丁目になると鼈甲や象牙細工、宝飾品の問屋が立ち並び、行き交う人々もどことなく華があるように見える。
「お京、はぐれるなよ」
京助に手を差し出されて、そっと手を乗せる。
京助を仰ぎ見ると、物言いたげな――困惑した表情を浮かべていた。
――俺は、お京のことをわかってやれねえ。
そんな心の声が聞こえて、京はひゅっと息を呑んだ。
心の臓が早鐘を打ち、体が芯から冷えていく。
通りの店を見に行きたい、と言い出したのは京だ。それなのに、行き交う人間の顔ばかり見つめていたのだから、不審に思われて当然だと思う。
けれど、兄には――母の面影を残すこの顔には、そんな目で見られたくなかった。
立ち止まりかけたとき、獏の声が、京の耳の奥で響いた。
――顔を上げて、胸を張って。
あの時、獏はそう言ったのだ。
「人間は外見に騙される。内実が伴わないものは看過されるけど、中身はいずれ、外見に引きずられるものだよ」
京が首を傾げると、男――獏は、笑って言い直した。
「後から〈本当〉にすればいいんだから、侮られないように、自信を持って胸を張りなよ――ってこと」
獏は京の手を引かれ、地本問屋へと連れて行かれ――。
快活に笑う兄を遠目に見て、京はきゅっと唇を噛んだ。目元が、母に似ていた。京は、母には似ていないのだけれど――。
「君、名前は何て言うの?」
獏は別れ際、京に名を尋ねた。
「京……」
「お京ちゃんね。妹の京だと、胸を張って言っておいで。それから……忠告してあげる。化物に、こんな風に名前を教えてはいけないよ」
獏はひらりと手を振って、雑踏のなかに消えていった。
あれ以来、姿を見かけていないけれど――。
「……お京?」
京助に声をかけられて、はっと顔を上げる。
――お兄さまの心は、もう読みたくない。
「流行りはわかったから、もういいわ。帰ろう、お兄さま」
京は明るく笑って、ぱっと顔を背けた。
実際、流行りそうなものはわかった。
男女問わず、皆、品のある〈ありがちな意匠〉に飽いている。
けれど下品なほど派手なものは馬鹿にされるため、程よく教養を滲ませなければ、振り向いてもらえない。
こういうときは――。
京は辺りを見回して、ちょうど良い二人組みを見つけた。
大通(*)と呼ばれそうな、渋い色合いの紬(*)の羽織を着た壮年の男二人が、書物屋(*)の画譜(*)を熱心に覗きこんでいる。
その二人が立ち去ったあとで、京はそこに描かれていたものを指差して言った。
「お兄さま。愁水先生に〈これ〉を描いてもらったら、きっと売れるわ」
京は自信たっぷりに――あえて、普通の娘ではないのだと強調するように言った。
隠してもどうせ不気味がられるのだから、それならいっそ、振り切ってしまえばいい。発言に説得力を持たせるために、本音を押し殺して演技する。
今度こそ、上手く立ち回らなければ。
役に立つ娘なのだと、価値を示さなければ――。
内心で焦る京には、京助の眼差しの意味がわからなかった。
「――〈蜃気楼図〉、これでいいか?」
愁水が京に手招きして、仕上がった版下絵(*)を見せてくれた。
大ハマグリが煙のような妖気を吐き、その中に楼閣が浮かび上がるという、蜃気楼の図だ。
京が書物屋で買ってもらった画譜を示して、〈地本問屋として〉依頼したものだった。
――奇抜で、幻想的。
中国の古の記述による構図だけれど、愁水の阿蘭陀画法(*)による浮絵(*)との組み合わせで、新たに発見されたような趣がある。
ベロ藍(*)で描かれた空と海は境が曖昧で、静かに佇む幻の楼閣と、現の景色も混ざり合って見える。
「ね、愁水先生。海に雲母(*)の粉をまいたら、もっと綺麗じゃない?」
「先生はよせって言ってるだろ。――それにしても、雲母摺りか。お京は目利きだな」
愁水は童と侮ることなく、真剣な顔で言った。
相変わらず、愁水の心は読めない。けれど、〈京助の妹〉という立場を利用して遊びに来る京を、愁水は拒まなかった。
――好きな時に来りゃいい。
愁水の無頓着な物言いや態度は、京を安心させてくれる。少なくとも、ここに居てもいいのだと思わせてくれる――。
「――愁水、客だ」
庵に顔を出した嗣巳が、壮年の男を連れてきた。今日は嗣巳のいる鵺代神社のほうにも参拝客が二組来ており、昼前だというのに忙しそうだ。
その客が帰ったかと思えば、嗣巳が不機嫌そうに、愁水の絵を指して言った。
藍色の浴衣を着た女たちが、大鉢に浮かぶ紅白の白玉(*)を覗き込んで、嬉しげに目を細めている絵だ。
「今日はこれにしてくれ。白玉なら、お前でも失敗しないだろう?」
「てめえ、俺がいつも失敗してるみてえじゃねえか」
「自覚があって何よりだ」
一見剣呑とした会話だが、憎まれ口を叩きながらも、愁水の横顔はどこか楽しげに見える。
嗣巳は表情を変えないけれど、愁水にしか敬語を崩さないし、何より――愁水のことを、よく見ている。
――あたしには、そんな相手がいない。
こっちを見てほしい、と見つめてみたけれど、二人とも京の視線に気づかずに、それぞれ庵を出ていってしまった。
たったいま、ここに居てもいいのだと安心したところなのに、もう不安に揺れている。
蜃気楼図を手元に引き寄せた京は、心惹かれ、目を逸らせなくなった。
ハマグリの吐く煙に浮かんだ、遠景の楼閣。
ここには、誰もいない。
――この絵の中に、入れたらいいのに……。
初めから誰もいなければ、孤独を感じることもないかもしれない。
「そいつが気に入ったか?」
白玉の入った器を持って戻ってきた愁水が、京の顔を覗き込んできた。
「うん……」
「よし。俺と賭けをしようぜ、お京。もしこの絵が売れたら、俺がお前に肉筆画を描いてやるよ」
「売れなかったら?」
京がむくれて尋ねると、愁水がにっと笑って言った。
「反対に、お京が俺に絵を描くんだ」
「いやだ!」
「じゃあ、しっかり売らねえとな。――ほら、白玉」
愁水が白玉を渡そうとすると、
「待て、私が毒味してやるから」
と、嗣巳が至極真面目な顔で言うので、京は少しだけ笑えた。
蜃気楼図は、京の予想通りよく売れた。
愁水は肉筆画を描いてくれると言ったし、京助は職人に頼んで、一点物の簪——峰全面に煙と楼閣とを螺鈿金蒔絵で描いた、見事な鼈甲の簪を贈ってくれた。
――ここに居ても、いいのかもしれない。
そう思えるようになったある日、京は長屋の前で綺麗な娘と出くわした。
「あら、あんたが京助さんの妹さん?」
勝ち気そうな人だと思ったけれど、優しく好意的な目だと思った。
こくりと頷くと、娘は親しげに肩を抱いてきた。
「そうなの、仲良くしてちょうだいね」
娘と目を合わせた京は、ぞっとして肩を震わせた。
――京助さんに近づくためには、妹を取り込んでおかなくちゃね。
娘の目から流れ込んでくる思念は、京助の商いや容姿の評判など――打算的なものばかりだった。
「……お兄さまは、あなたの装飾品じゃない」
京は思わず、娘の〈心の声〉に反論してしまった。
――――
*大通:遊芸などに詳しい、粋な人物。江戸時代のカリスマ。
*紬:糸の段階で染色をした後に布を織った絹織物。
*書物屋:専門的な学術書などを出版、販売。絵草紙や浮世絵を売る地本問屋(絵草紙屋)と区別された。
*画譜:花鳥風月などの手本を載せた、絵の教科書、見本帳。
*版下絵:木版画の墨一色の清書原画。
*阿蘭陀画法:西洋の透視図法/遠近法のこと。
*浮絵:背景が奥に、手前の景色が浮き出して見える絵。
*ベロ藍:
*雲母:
*紅白の白玉:江戸時代の白玉は、食紅や紅花などで着色したものが主流で、砂糖水や冷や水に浮いていた。江戸っ子の夏の風物詩。




