獏(4)
「――いやね、あんた。何言ってんの?」
娘の笑みが歪み、瞳の奥が揺れる。目の前にいるのは幼い娘ではなく、不気味なモノだと気付きはじめたときの、〈いつもの反応〉だ。
そうとわかっていて、京は止められなかった。
「本当に好いているわけじゃないなら、お兄さまに近づかないで」
見透かすように、まっすぐに瞳を見つめてやれば、人は本能的に京を恐れる。目の前の娘も後退って、踵を返した。
――あたしが、お兄さまを守らないと。
そのときは達成感すらあったのに、次の日、京はひどく後悔した。
「――ねえ。あんた、お京ちゃんでしょう?」
長屋の井戸端に集まる〈いつもの三人娘〉に声をかけられて、京は立ちすくんだ。
京は、この年かさの娘たちが怖かった。人好きのするにこやかな表情を浮かべているのに、流れ込んでくる心の声は妬みや不満でいっぱいで、絡みつくようにねばっこい。
「今日は一段と上等な簪だねえ。よく見せとくれよ。いつも遠目に見て、羨ましいと思っていたんだよねえ」
――はん、相変わらずの左団扇ってわけかい。
「清野屋さん、今日も繁盛してたわねえ。また滝亭右橘の新作がでるそうじゃないの。今度も、愁水が挿絵を描くんだってね。――ね、お京ちゃん。売り出すまえに、こっそり貸しとくれよ。ちょいと自慢してやりたくって。ね、同じ長屋のよしみってことでさ」
「お、お兄さまに聞かないと……」
京が蚊の鳴くような声で答えると、いたたまれないような沈黙が流れる。一拍置いて、心の声がどっと噴きだすように流れこんできた。
――ああ、いやだ。〈お兄さま〉だなんて、呼び方まで気取ってる。
――愛想の悪いうえに、けちときた。
――京助さんも可哀想に、この娘がいなけりゃねえ。
「やめ……やめて……」
耳をふさいでも、静止の声をあげても、心の声は止められない。
――こないだの縁談、この娘が原因で、破談になったそうじゃない。評判の小町(*)だったのにねえ。
その言葉を聞いた途端、京は膝から崩れ落ちていた。呼吸が速くなって、うまく息を吸えない。
「苦しいの? お京ちゃん、長屋には誰かいるっ?」
京は弱々しく首を振った。本当は肩を掴んでいる手を振り払いたかったけれど、力が入らない。
三人娘に体を抱えられて、京は表店の問屋のほうへ運ばれた。
京助が血相を変えて、医者を連れてくる。ほんの半時ほどで落ち着いたのだが、京は布団から出してもらえなかった。
ぼんやりと天井を見つめていると、障子の向こうから、京助の声が聞こえてきた。
「――お京のためにも、どこか別の場所にやるほうがいいかもな」
京の目から、涙がこぼれた。
どうして、あたしは上手くやれないんだろう――。
誰にも見つからないように外へ飛び出すと、大雨が降っていた。宵闇の裏通りには、人っ子一人いない。
――これから、どこへ行こう。
京が俯いていると、影が差して、雨が遮られた。京は外套にすっぽりと包まれていた。
「――その悪夢、俺が喰ってあげる」
獏が妖しい笑みを浮かべて、京を見下ろしている。
京は手を伸ばして、獏の着物を掴んだ
「――ぜんぶ、食べて」
自分で驚くほど、京の声は冷たく響いた。
「あたしの嫌いなもの、ぜんぶ食べて。それができないなら、あたしを〈ここじゃないどこか〉に連れていって」
あやすように京の背に触れていた手が止まり、獏がかすかに笑った気配がした。
「どちらも、叶えてあげようか?」
顔を伏せた京は、獏が浮かべた表情に気づかないまま、頷いた。
*
作業の手を止めた愁水は、勢いを増した雨音につられて、開け放っていた庵の柴戸から外を見遣った。
鬼が降らせたような、大雨――。
「……鬼雨、か」
奇しくも、隣で茶を飲んでいた嗣巳がそう呟いた。
「こういう陰気な日は、人間が気病みして、化物が活気づくものだが。……件の話、〈眠り病〉と呼ばれるようになったらしいな」
「ああ。呆けるだけだったやつも、とうとう眠っちまったらしい」
しかも、その数は急増している。食事を摂らずに眠り続ければ、当然、人間の体は衰弱して死に至る。
体を揺り動かせば寝言などの反応があるため、魂を奪われたわけではない、となると――。
「――獏だろう」
愁水の筆が止まったままなのを見かねてか、嗣巳が言った。
「それは俺も考えた。だけど、獏にそんな力はねえだろ」
愁水は手元にあった画譜の、獏の項目を開いた。
獏は、悪夢を食べてくれる〈縁起物〉。獏を描いた札や箱枕、獏の形をした獏枕は、室町時代から根強く好まれている意匠だ。
昔は眠っている間に魂が遊離すると信じられていたから、魂が悪鬼に攫われてしまわないよう、寝具に呪術的な工夫を凝らしたのだ。
しかしいまの時代、本気で悪夢を恐れる者はいないだろう。せいぜい、暮らしを彩る縁起物を楽しむ程度で、獏自体は一貫して恐怖の対象ではない――のだが。
「陰陽師の首輪のせいだとは思わないか?」
「まあ、そいつのせいなんだろうが……」
愁水は途中で言葉を切った。
それは、ありえる。いや、獏の引き起こした怪異、ということでいいのだが――何か、引っ掛かる。
「なんで、獏なんだろうな。大勢殺してえってんなら、他にもっと怖がられる怪異はあるだろ?」
「……殺しが目的ではないんだろう」
ふいと、嗣巳が顔を背ける。
――何か、知ってやがるな。
愁水が鋭く一瞥すると、嗣巳は気乗りしない様子で口を開いた。
「獏は、中国起源の神獣だ。喰うのは夢ではなく、人間の魂を狙う妖や精霊だった。それが室町の日本で変容した。――何故か?」
嗣巳の問いに、愁水はしばし黙考した。
獏の由来は愁水も知っている。『山海経(*)』には、『この獸は鉄と銅を食べ、他の食物を食べない』とあった。
夢といえば、中国には夢を喰う獏奇という神がいる。それから、人の心や悪夢を吞む、伯奇という巫女も。
由来は諸説あり、それらを混同した――と言えばそれまでだが、嗣巳の望む答えではないだろう。
「……人が望んだから、か?」
愁水の答えに、嗣巳は満足げに笑ってみせた。
「ご名答。――神も妖も、人が望むままに変容していくものだ。誰かが獏に願えば、目覚めぬ夢を与えることも、結果として人死が出ることもあるだろうな」
「獏だとして、どうやって捕まえりゃあいいんだよ。相手は夢の中に棲んでいるんだろ?」
「眠っている者のなかに、〈宿主〉がいるはずだ。その者を特定して、夢から獏を引きずり出せばいい」
――まるで、最初からわかっていたような物言いだ。
「……さっきから、妙に言い切るじゃねえか。お前、獏の仕業だとわかっていやがっただろ」
「匂いで、大方な」
「てめえっ、何で最初に言わなかった?」
愁水が凄むと、嗣巳は不快そうに目を細めた。
「勘違いするなよ、愁水。私は朧の思い通りになるのが不快なだけで、直接関係しないならどうでもいい。……人助けでもしていると思ったか?」
怒りのあまり、言葉が出ない。
どこかで、この鵺の〈善性〉を信じていた、己への怒りもある。
愁水は黙って、黒羽織に袖を通した。
「愁水、どこへ行く?」
「その宿主とやらを探すんだよ。わかってんのに聞くな」
嗣巳に人間を助ける義理などないと、わかっている。手前勝手だという自覚もあるが――むかつくものは、むかつくのだ。
柴戸を開け放った愁水は、振り返って尋ねた。
「……宿主の探し方は?」
「言わん」
にべもなく断られ、愁水は足音も荒く庵を出た。
「――愁水。お京が、目を覚まさねえ」
京助の地本問屋が閉まっていたため、裏長屋に回った途端、店主本人とぶつかりかけた。
京助の切迫した様子に加えて、静まり返った長屋の様子も気にかかる。
「そんで、いつから寝込んでるんだ?」
「おとといだ。もっと早く、おめえに相談すべきだった……」
「心配すんな、二日じゃ早いほうだ。お京の様子はどんなだ?」
憔悴した京助の肩を掴み、京の眠る部屋へと案内させる。
障子を開けた京助は、はっと息を呑んだ。
黒の外套を着た若い男が、ゆっくりとこちらを振り返る。浮世離れした端整な顔が、愁水を見て疲れたように笑った。
――――
*小町:評判の美女。
*山海経:古代中国の神話や地理をまとめた書。




