獏(1)
――ゆうべの夢は、獏にあげます。
悪い夢を見たときは、そう唱えるのだ。
きっと、獏が喰ってくれるから――。
*
「――あいつが、父上の大事な顕微鏡を壊したんだっ! 俺達じゃない!」
「そうだよ、俺も見た!」
後妻の息子達が結託して、京に罪を擦り付けるのはいつものことだ。特に、二つ下の義弟は、京をこの屋敷から追い出そうと躍起になっている。
母の連れ子であった京は、いまの父とは血の繋がりがなく、どんなに無罪を訴えても聞き入れてもらえない。
初めて〈断罪〉されたとき、助けを求めて周囲を見渡した京は、絶望して凍りついた。
取り囲んで成り行きを見ていた奉公人たちは、京の〈不幸〉を《《楽しんで》》いた。
真偽など、はなから問題ではなかったのだ。
この広い屋敷に、京の居場所はどこにもない。それならばせめて、出来るだけ目立たず、静かに縮こまっていようと決めたのだが――。
「違う、あたしじゃないっ……!」
今日は、必死に抗った。
南蛮から取り寄せたという顕微鏡はとても高価なもので、義父は誰も触れるなと厳命していたのだ。
次に何か壊せば絶縁する、と義父から言い渡されていた京には、後がなかった。
十歳の娘が――身の回りのことは下女に任せきりだった旗本の娘が、その身一つで放り出されれば、どうなるか。
――お前、知っているか?
と、知識を仕入れてきた義弟にさんざん脅されてきた京は、震え上がった。
「――また、お前か」
断罪の場に現れた義父は、片手を握ったり開いたりして、何らかの衝動を抑えているようだった。
――本当は、京を斬ってしまいたいのだ。
刀で斬って、井戸に落とす。鮮血と暗い水を想起して、京は口を利けなくなった。
「路銀を持って、今すぐ出て行け」
「あ、あたしは……」
早く行け、と怒鳴ったきり、義父は背を向けて、二度と京を振り返らなかった。
屋敷から叩き出された京に、下女から巾着を奪った義弟が、路銀を投げつけてきた。
義弟は、勝ち誇っていた。そこに悪意はない。純粋に、〈化物〉を退治してやったと得意になっているのだ。
「お願い、何か一つでもいいから、母様の物をちょうだい!」
京は哀願したが、義弟は馬鹿にして嗤った。
「そんなもの、母上がとっくに捨ててしまったさ」
「家紋の入った印籠もっ?」
「なんにも残っちゃいないんだから、そうだろうな」
京の最後の〈希望〉が、音を立てて崩れた。
――お京。貴女のお兄さまは、錦絵や草双紙を作っていなさるのよ。
一家が没落して離散した後、母がこの家に嫁いでから生まれた京は、十歳年上の〈お兄さま〉と会ったこともなかった。
この家に入る条件として、母は兄を奉公に出したきり、何も告げずに行方をくらませたのだ。
兄は、母を恨んでいるかもしれない。それでも、妹が訪ねてくれば、助けてくれるのではないか。
そういう希望が、たったいま、無惨にも壊されてしまったのだ。
兄妹を示すものは、もう何もない。あるとすれば、名前に同じ字を持つということだけ。
京は地面に這いつくばったまま、義弟を睨み上げた。
「あんた、自分より弟のほうがお父様に期待されているから、必死なんだよね。今も、お父様と弟のことを考えている……」
平生は決してやらないことを、京は怒りに任せてやった。つまり、義弟の目を真っ直ぐに見て、考えを《《読んで》》やったのだ。
「お前っ、この化物! やっぱり、人の心が読めるんだろっ?」
「そうだよ。あんたの考えていることは、全部わかる。この恨みは、大人になっても忘れないから。あんたが一番困るときに現れて、きっと仕返ししてやるから……!」
さっと青ざめた義弟が、喚きながら履いていた草履を京に投げつけ、逃げて行った。
草履は、京の頬を強かに打った。京は痛みと悔しさで顔をぐしゃぐしゃにしながら、路銀をのろのろと拾った。
誰か、呼び止めてくれるのではないか。期待したのは僅かな間で、冷たい雨に耐えかねて歩きだした。
――妹だって、信じてもらえないかもしれない。でも、それでもお兄さまのところに行かないと……。
京はすれ違う者に道を聞きながら、地本問屋の集う日本橋を目指した。
小雨が降り始め、やがて本降りとなる。京は俯きながら、ぐるぐると同じことを考えた。
――もしお兄さまが受け入れてくれても、心を読めるなんて、疑われないようにしなきゃ。
相手の目を見ると、その時、最も強く考えていることが頭に流れ込んでくる。それは言葉であったり、風景であったりもするが、相手が困っているときはつい、口を挟んでしまう。
京が優しいから、ではない。自分が優しくされたいから、必死になってしまうのだ。
――寂しい。辛い。
実の母ですら、京の異能をもて余していた。
顔も知らない兄となれば、きっと――。
ぐっしょりと雨に濡れた小袖が肌にまとわりついて、京の体温を奪っていく。
今年の梅雨は底冷えするほど寒く、心まで凍てつきそうになる。
日が暮れて宵闇になる頃、京はようやく繁華な通りにたどり着いた。
知っているのは「京助」という名と、「錦絵や草双紙」を売っていることだけ。それでも、母が誇らしげに言っていたのだから、きっと見つかるだろう。
最後の力を振り絞って走り出そうとしたとき、京は腕を捕まれて、人気のない路地に引きずりこまれていた。
抵抗する間もなく、路銀の入った巾着を奪われる。
「着物も高そうだな。剥いじまうか?」
容赦ねえな、と野太い笑い声が上がる。
京は震えながら、取り囲む男たちの顔を見た。京より少しばかり年上の、まだ幼さの残る顔立ちだが、こんな悪事には慣れているようなのが見て取れる。
「――ゆうべの夢は、獏にあげます」
もうだめだ、と思ったとき、京の口から、そんな言葉が零れていた。
京が悪夢を見るたびに、母が教えてくれた呪文だった。
「ああ? 何言ってんだ、こいつ」
「――その〈悪夢〉、俺が喰ってあげる」
穏やかな声が、不意に割って入った。男たちが瞬く間に倒れ伏し、寝息を立て始める。
元服(*)したかどうか――といった年頃の男子が、涼しげな顔に薄い笑みを浮かべていた。
着物の上に外套を羽織り、さっぱりと短い総髪という、異人のような恰好をしている。
それに――鉄の〈首輪〉。
どう見ても奇妙な風体だが、それ以上に、京を驚かせたことがあった。
――このひと、《《心が読めない》》?。
「君は良い〈客〉になりそうだ。困ったことがあれば、いつでも俺を呼んで」
「もしかして、獏……?」
一層笑みを深めた男に手を引かれ、京は表通りに出た。
昨今は異人が闊歩することもあり、男の美しい容姿――女形の役者みたい、という声が京の耳に届いた――に惹かれて視線が集中するものの、排他的な眼差しは見当たらない。
京が自分の足を見つめて歩いていると、〈呪文のような言葉〉をかけられた。
男が――獏が、笑っている。
京は頷いて、立ち止まった獏の視線の先にいる男――兄である、地本問屋の京助を見つめ、その背に向かって走りだした。




