幕間 飛縁魔
嗣巳の前に、真っ二つに割れた鉄製の首輪がある。
愁水の文机に置かれたそれを、嗣巳は腕を組んで見下ろしていた。
先日、滝を襲った鼠――長く生きた鼠の化物を、旧鼠という――その首につけられていたもので、雨月と嗣巳の二人がかりで、苦労して外したのだった。
化物に力を与える代わりに、術者の式神となす呪具。
その首輪には朧の呪力が込められており、柊の語った蠱毒といい、嗣巳は朧の動きが〈次の段階〉へと進んだのを感じ取っていた。
対応が後手に回るため、愁水は不服そうだが――。
嗣巳は主のいない部屋で寝転び、己の腕を点検した。旧鼠の噛み痕が綺麗に消え去っているのを見て、嗣巳は己の力が増しているのを確信する。
――朧め、京で好き放題やっているな。
愁水には明かしていないが、朧の狙いはある程度、見当がついている。
鵺の逸話に尾ひれをつけて流し、自作自演の怪異騒動で恐怖を煽る。人々の恐れが増すほど、嗣巳の力となる。
――そうして力をつけた鵺を、己の式神として下す。
蠱毒の末に生まれる式神は、嗣巳を捕らえるためのものだろう。
けれど、こうした江戸での騒動すら、あくまで目眩ましにすぎないこともわかっていた。
朧の本拠地が京であることも承知の上で、嗣巳はあえて、愁水を江戸に連れて来たのだ。
嗣巳自身、力をつけて損はない。けれど、朧に使われてやるつもりもない。
そんな風に、ある部分では《《利用》》できると踏んでいるから、今はぎりぎりまで泳がせておく。
朧の行動の是非など、知ったことではなかった。
化物や人がどれほど巻き込まれようとも、仲間を持たずに生まれてきた嗣巳は、いつだって外側から眺めるだけなのだ――。
畳の藺草の香りに目を閉じると、竹林に風が吹き渡り、笹の葉の揺れる音が耳に届く。
この庵で過ごしていると、外界から切り離されたように感じることが多い。
――だから、〈幽世庵〉などと呼ばれるのだろうな。
あまりに静かすぎるせいか、ありもしない、筆の走る音が耳の奥で木霊する。
「――おい、寝るなら布団で寝ろよ。敷いてやるからよ」
不意に、香木に似た深みのある香りがしたかと思うと、顔に柔らかなものが降ってきた。
嗣巳が飛び起きると、愁水が黒の羽織を拾って、首を傾けた。
「お前が昼寝なんて、珍しいな」
「……寝るつもりはなかったんだが」
「いいじゃねーか、昼寝ぐらい。ここ数日は何の依頼もなくて、お互い暇だったろ」
愁水はそう言うが、人間の気配に気づかないほど寝入るなど、嗣巳にとっては自害に等しいのだ。
「束の間の、貴重な暇かもしれねえし」
「お前、言霊という言葉があるだろう。そういうことを言うと――」
「ごめんください……!」
嗣巳が言い終わらないうちに、外から女の声が響き、思わず顔を見合わせた。
「――あたし、丙午の生まれなんです」
滝に三味線を習っている、という娘は、暗い顔でそう打ち明けた。
何のことだと、愁水が目で問いかけてくる。
「六十年に一度巡る、干支の組み合わせだ。丙も午も火性、この年は火事が多い――という俗信があってな」
そこに、かつて放火で火刑に処された娘も丙午の生まれだという噂が混ざり、浄瑠璃などで数々の物語となり――。
いつの間にか、丙午の年に生まれた女は気性が荒く、夫を潰すもの、という俗信が定着して、縁談にまで響くようになった――と、化物の万屋から、世間話として聞いたことがある。
そう説明を加えてやれば、
「なんだ、ただのくだらねえ迷信じゃねえか」
愁水のあっさりとした応えに、娘はいまにも泣きそうな顔になった。
「そう思わない人もいるんです。特に、義母が……」
もともと皮肉の絶えない義母だが、まずいことに、家で連続して小火が起きてしまった。
そして最近では、家の周りで鬼火が飛ぶ始末。その責任が全て娘に降りかかり、夫も庇ってくれなくなったのだという。
「あの、お滝さんもあたしと同い年で、〈飛縁魔〉なんです」
飛縁魔、と復唱した愁水が、また嗣巳を見る。
「飛縁魔は、丙午の俗信から生まれた化物だ。外見は菩薩、中身は夜叉で、男を喰う」
「なるほど。化物を生むほどの俗信じゃ、あんたもしんどかったな」
娘は目を潤ませて、何度も頷いた。他人の理解を得たのは初めてだ、とでも言いたげな様子で、娘の声に熱が宿る。
「お滝さんも最近、落ち込んでいるようだったんですけど、昨日久しぶりに会ったら明るくなっていて……。長屋の人たちは、こちらの鵺代神社の幽世庵に行ったおかげじゃないかって」
一応、愁水と分担しているつもりなのだが、近頃は祈祷も画業もごたまぜになって、化物全般を扱う万屋のような扱いになっているらしい。
しかし何にせよ、嗣巳にしてやれることはなかった。
この娘からは、化物の匂いがしない。
「――それは、〈気のせい〉ですね」
「でも、鬼火が……?」
「小火も鬼火も、貴女の義母の、言霊によるものです。貴女が真に受けて呼応するものだから、二人してありもしないものを引き起こしているんですよ」
「それじゃあ、どうしたら……」
「呪符をお渡ししましょう。これで安心だと説得するもよし、義母が引き起こしていたのだと周囲に訴えるもよし。使い方は貴女次第です」
そう言って懐から取り出したのは、鵺の血を混ぜていない、ただの紙切れだった。けれど影響を受けやすいらしい娘ならば、こんな紙切れでも効果がある。
むしろ、なまじ力のある呪符を渡すよりも、紙切れのほうが安全と言えるだろう。
「てめえの呪いだったと、直接言ってやれよ。言霊は呪いになるんだって、教えてやりゃあいい」
と、愁水が野次を飛ばすようにけしかける。嗣巳は呆れて言った。
「愁水、誰もがお前のように強くあれると思うな」
「じゃあ、どうすんだよ。言葉で縛ってくるやつを、説得なんてできるか? 何なら、俺が一芝居打ってやろうか」
「やめておけ。お前が引っ掻き回してどうする?」
それらしく窘めたが、本音を言えば、何故そこまで首を突っ込むのか理解できなかった。
損得に無頓着なのは、傲慢さの表れ、とも取れるのだが――。
「だってよ、やられっぱなしなんて、聞いてるだけでむかつくじゃねえか」
やはり何も考えていないのだろうと、嗣巳は結論づけた。
「……お前は羨ましいほど、直情的だな」
「なんだそりゃ。馬鹿って言いてえのか」
「褒めているんだ、これでも」
ただ、嗣巳はこうも思うのだ。
誰にでも親切である、というのは、誰にも執着していないことと、同義ではないか、と。
「――ありがとうございます。絵師様に、自分のことみたいに怒ってもらって……気が晴れました」
黙ってやり取りを聞いていた娘が、不意に笑って言った。
「神主様が気のせいだと言われるなら、私ももう、気にしないことにします。このお札は、御守りとして持っておきますね」
そう頭を下げて、娘は帰っていった。
この手の相談は後味の悪さを予感させるものが多いのだが、珍しく健全な幕引きであった。
嗣巳が拍子抜けしていると、
「やっぱ、姐さんの知り合いは心持ちが良いんだな」
愁水が感心したように言い、嗣巳はおや、と意外に思った。
愁水がこんな風に好意的に語る相手は、化物と決まっていたのだが。
「姐さんは、気性が荒いってのとは違うんだよな。……あんなに華奢でしとやかなのに、愛猫が怪我をしたとあっちゃ、平手打ちだもんな」
感心するのは、そこなのか。
いや、それより、殴られていたのか――。
噛み殺そうとしたのだが、その光景が目に浮かぶようで、笑いが込み上げてくる。
もしも、執着心が――誰か一人を特別に想う心がわからない、と溢した男が、それを知ったなら。
平手打ちよりも、さらに間の抜けた顔をするに違いない。
意地の悪いことを考えていると、何かを察したらしい愁水が、顔をしかめた。心底、嫌そうに。




