表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【第一部・完結】幽世庵モノガタリ ~化物絵師と鵺~【幕末妖かしバディ】  作者: Yumiko
第六幕・追憶の雨香―猫又

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

47/51

猫又(8)



 澪の野辺のべ送り(*)が済んだあと、滝は一人きりになった部屋で、ぼんやりと雨をながめて過ごすことが多くなった。


 三味線の手習いは一度も休まず、食事もきちんととっている。生きる気力だって、失ってはいない。しかし、戯作は手つかずのままだった。


 滝一人で生きていくならば、手習いだけでも十分なのだ。雨月と澪を亡くしたあの夜、滝は物語を紡ぐ理由も失ったのだろう。


 そもそもは、病床の澪を楽しませるために始めたことだった。


 ――私はきっと、長くないわね。あの世では、また皆に逢えるかしら……。


 それは、澪が珍しく弱音を吐いたときだった。


 ――気弱になっちゃいけないよ。……でも、そうだね。あの世はきっとあるし、不思議なこともあるはずだよ。


 滝にできるのは、そのささやかな願いを肯定してやることだけだった。言葉で上手く伝えられない代わりに、物語として……。


 格子窓にもたれて目を閉じると、意識が雨音で満たされる。


 柔らかな雨が、江戸中に降り注いでいるようだった。


 耳の奥にはまだ、猫のか細い鳴き声が残っている。


 こんな風に優しい雨の降る日に生まれたから、愛猫に雨月と名づけたのだ――。


「――姐さん、邪魔するぞ」


 不意に目の前に現れた男を、滝は幻かと思った。


「勝手に上がらせてもらった。まあ、そこで会った大家に許可はもらったが。長屋の連中も心配しているそうだぜ。飯は食ってるか? こっちの煮売り屋の惣菜は京助からだ」


 愁水は風呂敷から竹皮に包まれた惣菜と甘味を取り出して、呆けている滝の前に並べてみせた。


「愁さん、どうして……」


 愁水とは、あれから澪の小袖を預けたきり、一度も会っていなかった。


 滝がかすれた声で尋ねると、愁水はにっと笑って、桐の軸箱を差し出してきた。


「俺と組もうぜ、姐さん。次の戯作の挿絵は、俺が描く。姐さんの戯作に俺の絵が相応しいかどうかは、これで判断してくれ」


 滝は愁水と軸箱を交互に見てから、箱の中を確かめた。


 中身は掛け軸の表装を施した、柱絵(*)だった。大判の大首絵(*)が流行りだしてからというもの、めっきり見かけなくなった柱絵だが、幅広の柱絵は大きくて見応えがある。


 絵を見た滝は、思わず口に手をやっていた。


 橘の文様の小袖を羽織り、怪しく身をくねらせた三毛猫の絵が、上質な紙に丁寧な彩色で描かれている。


 絵の中で生きているような躍動感に、滝は目を瞠った。


 そして、上部に添えられた、万葉の歌。


 風に散る花橘を袖に受けて 


 君が御跡と思ひつるかも


 滝は、君が御跡、と口中で反芻した。


 ――あなたが残した、情愛のしるしを懐かしむ


 枯れ果てたと思ったのに、目頭が熱くなってきた。


 橘の香は古来より、愛しい人を思い出させるよすがとして謡われてきた。その文字を目にしただけで、とうに消えた橘の香が蘇ったように錯覚する。


「やっぱり、愁さんは物知りだ。こんなに、ぴったりの歌を添えてくれるんだから」


 滝が顔を上げたとき、甘く清々しい香りが鼻先をかすめ、腕に生暖かいものが触れた。


 ざらりとした、猫の舌のような――。


「えっ……」


 視線を落とすと、絵のなかの猫が消えていた。絶句している滝の傍に、猫が――雨月が二又の尾を揺らして、寄り添っていた。


「言っただろ、後悔はさせねえってな。俺は封じるんじゃなく、魂を宿らせる絵師なんだぜ」


 生前と変わらぬ様子の雨月を、滝は信じられない思いで抱きしめた。




 礼がしたいと申し出た滝に、愁水が求めたのは三味線を弾くことだった。


 それでは気が済まないと訴えてはみたが、愁水が前言を翻すはずもないと、滝はこの短い付き合いのなかでわかっていた。


 滝は小雨の音に耳を傾けながら、愁水の望み通り、三味線を爪弾いた。


 愁水は胡坐をかき、腕組みをして目を閉じている。雨月は控えめに、滝の膝の傍で丸くなっていた。


 この静けさを惜しむように、滝は三味線を奏でる。

しかしふと思い出すことがあって、愁水に尋ねてみた。


「ねえ……愁さんに絵を教えたのは、誰だった? その人に言われて、和歌を学んだって……」


「ああ……狐だよ」


 目を開いた愁水が、妖しく笑ってみせた。


「俺は江戸にたどり着くまでに、何遍も化物の拐かしに遭ってな」


「人買いじゃなくて?」


「おう。天狗やら、狐やら……色々だ。姐さんも書いてただろう。所謂、神隠しってやつだ。――俺に絵と歌を叩き込んだのは、公家に化けた狐だった。絵を描きたいなら古の歌を覚えておけ、いい絵をたくさん見て目を養えと、もっともらしいことを言ってたっけな。あんなにいい絵を、どっから盗んできやがったのか……」


 そこまで言って、愁水は「――冗談だ」と片手を振った。


「でもそれ、本当なんでしょう」


 滝が言うと、愁水は意外そうな顔をしてから、童のように破顔した。


「信じてくれるのか」


「猫又に、鼠に、鵺に――今度は、絵を出入りする妖だよ。いまさらだね。……それに、あたしは怪異を描く戯作者だよ」


 詮索を避けるうちに、愁水が身につけた軽口、ともとれたが、書き手だからこそわかることもある。作り話にしては、狐とやらの台詞が、やけに細かいのだ。


 何より、怪異を語る声音が、どこか懐かしむように優しかった。信じる理由としては、それで十分だ。


「それじゃあ、あたしも一つ、話しておきましょうか。これもやっぱり、小さい頃の話だけどね……」




 熱を出して寝込んでいたら、飼っていた猫がずっと傍にいてくれてね。布団の近くにはいなかったけど、障子に影が映っていたから、わかってたよ。


 黄昏時だったかな。うたた寝をしていたら、こんな声が聞こえてきた。


 ――良い日和じゃ、伊勢参りをせぬか?


 ――主様が病に臥せっておりますので、外へは出られません。


 応じたのは、若い女の声だった。


 ――片時も離れないと、お約束しましたから。


 その言葉で、雨月が喋っているんだと思ったよ。律儀な子だよね。寝る前に、ずっと傍にいてほしいと頼んだのを、ちゃんと覚えているんだから。


 誰かに? 話すわけないでしょう。誰も信じないだろうし……何より、聞いていたと知られたら、雨月がどこかへ行ってしまうと、子ども心にもわかっていたからね。大事に、胸にしまっていたんだよ。


 人には窺い知れない世界が、日常と隣り合わせにあるなんて、なんだか胸が躍るでしょう? ありえないと思っていたことが、ありえるかもしれない世界だよ。


 そこには、哀しみを癒してくれる何かが――深い情があると思うんだよ。


 あたしは、そんな世界に焦がれている――。




「……これが、あたしの〈書く理由〉なんだよ」


 弾き語りのような、長い独白を黙って聞いていた愁水が、満足そうに笑って立ち上がった。


「良い理由だ。それに、良い顔をしている。――次は、猫又の話で決まりだな」


 ――楽しみにしている。


 そう短く言い残して、愁水は来た時と同様、通り雨のように去っていった。


 雨はまだ、降り続いている。


 梅雨が明けるまでは、もうしばらくかかるだろう。


 雨月に見守られながら、滝は吸い寄せられるように、筆に手を伸ばしていた。




――――

*野辺送り:近親者や地域の人間が棺を担ぎ、葬列を組んで埋葬地にまで送ること。

*柱絵:柱に掛ける縦長の浮世絵。

*大首絵:歌舞伎役者や美人の顔や上半身を大きく描いた浮世絵。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ