猫又(8)
澪の野辺送り(*)が済んだあと、滝は一人きりになった部屋で、ぼんやりと雨をながめて過ごすことが多くなった。
三味線の手習いは一度も休まず、食事もきちんととっている。生きる気力だって、失ってはいない。しかし、戯作は手つかずのままだった。
滝一人で生きていくならば、手習いだけでも十分なのだ。雨月と澪を亡くしたあの夜、滝は物語を紡ぐ理由も失ったのだろう。
そもそもは、病床の澪を楽しませるために始めたことだった。
――私はきっと、長くないわね。あの世では、また皆に逢えるかしら……。
それは、澪が珍しく弱音を吐いたときだった。
――気弱になっちゃいけないよ。……でも、そうだね。あの世はきっとあるし、不思議なこともあるはずだよ。
滝にできるのは、そのささやかな願いを肯定してやることだけだった。言葉で上手く伝えられない代わりに、物語として……。
格子窓にもたれて目を閉じると、意識が雨音で満たされる。
柔らかな雨が、江戸中に降り注いでいるようだった。
耳の奥にはまだ、猫のか細い鳴き声が残っている。
こんな風に優しい雨の降る日に生まれたから、愛猫に雨月と名づけたのだ――。
「――姐さん、邪魔するぞ」
不意に目の前に現れた男を、滝は幻かと思った。
「勝手に上がらせてもらった。まあ、そこで会った大家に許可はもらったが。長屋の連中も心配しているそうだぜ。飯は食ってるか? こっちの煮売り屋の惣菜は京助からだ」
愁水は風呂敷から竹皮に包まれた惣菜と甘味を取り出して、呆けている滝の前に並べてみせた。
「愁さん、どうして……」
愁水とは、あれから澪の小袖を預けたきり、一度も会っていなかった。
滝がかすれた声で尋ねると、愁水はにっと笑って、桐の軸箱を差し出してきた。
「俺と組もうぜ、姐さん。次の戯作の挿絵は、俺が描く。姐さんの戯作に俺の絵が相応しいかどうかは、これで判断してくれ」
滝は愁水と軸箱を交互に見てから、箱の中を確かめた。
中身は掛け軸の表装を施した、柱絵(*)だった。大判の大首絵(*)が流行りだしてからというもの、めっきり見かけなくなった柱絵だが、幅広の柱絵は大きくて見応えがある。
絵を見た滝は、思わず口に手をやっていた。
橘の文様の小袖を羽織り、怪しく身をくねらせた三毛猫の絵が、上質な紙に丁寧な彩色で描かれている。
絵の中で生きているような躍動感に、滝は目を瞠った。
そして、上部に添えられた、万葉の歌。
風に散る花橘を袖に受けて
君が御跡と思ひつるかも
滝は、君が御跡、と口中で反芻した。
――あなたが残した、情愛のしるしを懐かしむ
枯れ果てたと思ったのに、目頭が熱くなってきた。
橘の香は古来より、愛しい人を思い出させるよすがとして謡われてきた。その文字を目にしただけで、とうに消えた橘の香が蘇ったように錯覚する。
「やっぱり、愁さんは物知りだ。こんなに、ぴったりの歌を添えてくれるんだから」
滝が顔を上げたとき、甘く清々しい香りが鼻先をかすめ、腕に生暖かいものが触れた。
ざらりとした、猫の舌のような――。
「えっ……」
視線を落とすと、絵のなかの猫が消えていた。絶句している滝の傍に、猫が――雨月が二又の尾を揺らして、寄り添っていた。
「言っただろ、後悔はさせねえってな。俺は封じるんじゃなく、魂を宿らせる絵師なんだぜ」
生前と変わらぬ様子の雨月を、滝は信じられない思いで抱きしめた。
礼がしたいと申し出た滝に、愁水が求めたのは三味線を弾くことだった。
それでは気が済まないと訴えてはみたが、愁水が前言を翻すはずもないと、滝はこの短い付き合いのなかでわかっていた。
滝は小雨の音に耳を傾けながら、愁水の望み通り、三味線を爪弾いた。
愁水は胡坐をかき、腕組みをして目を閉じている。雨月は控えめに、滝の膝の傍で丸くなっていた。
この静けさを惜しむように、滝は三味線を奏でる。
しかしふと思い出すことがあって、愁水に尋ねてみた。
「ねえ……愁さんに絵を教えたのは、誰だった? その人に言われて、和歌を学んだって……」
「ああ……狐だよ」
目を開いた愁水が、妖しく笑ってみせた。
「俺は江戸にたどり着くまでに、何遍も化物の拐かしに遭ってな」
「人買いじゃなくて?」
「おう。天狗やら、狐やら……色々だ。姐さんも書いてただろう。所謂、神隠しってやつだ。――俺に絵と歌を叩き込んだのは、公家に化けた狐だった。絵を描きたいなら古の歌を覚えておけ、いい絵をたくさん見て目を養えと、もっともらしいことを言ってたっけな。あんなにいい絵を、どっから盗んできやがったのか……」
そこまで言って、愁水は「――冗談だ」と片手を振った。
「でもそれ、本当なんでしょう」
滝が言うと、愁水は意外そうな顔をしてから、童のように破顔した。
「信じてくれるのか」
「猫又に、鼠に、鵺に――今度は、絵を出入りする妖だよ。いまさらだね。……それに、あたしは怪異を描く戯作者だよ」
詮索を避けるうちに、愁水が身につけた軽口、ともとれたが、書き手だからこそわかることもある。作り話にしては、狐とやらの台詞が、やけに細かいのだ。
何より、怪異を語る声音が、どこか懐かしむように優しかった。信じる理由としては、それで十分だ。
「それじゃあ、あたしも一つ、話しておきましょうか。これもやっぱり、小さい頃の話だけどね……」
熱を出して寝込んでいたら、飼っていた猫がずっと傍にいてくれてね。布団の近くにはいなかったけど、障子に影が映っていたから、わかってたよ。
黄昏時だったかな。うたた寝をしていたら、こんな声が聞こえてきた。
――良い日和じゃ、伊勢参りをせぬか?
――主様が病に臥せっておりますので、外へは出られません。
応じたのは、若い女の声だった。
――片時も離れないと、お約束しましたから。
その言葉で、雨月が喋っているんだと思ったよ。律儀な子だよね。寝る前に、ずっと傍にいてほしいと頼んだのを、ちゃんと覚えているんだから。
誰かに? 話すわけないでしょう。誰も信じないだろうし……何より、聞いていたと知られたら、雨月がどこかへ行ってしまうと、子ども心にもわかっていたからね。大事に、胸にしまっていたんだよ。
人には窺い知れない世界が、日常と隣り合わせにあるなんて、なんだか胸が躍るでしょう? ありえないと思っていたことが、ありえるかもしれない世界だよ。
そこには、哀しみを癒してくれる何かが――深い情があると思うんだよ。
あたしは、そんな世界に焦がれている――。
「……これが、あたしの〈書く理由〉なんだよ」
弾き語りのような、長い独白を黙って聞いていた愁水が、満足そうに笑って立ち上がった。
「良い理由だ。それに、良い顔をしている。――次は、猫又の話で決まりだな」
――楽しみにしている。
そう短く言い残して、愁水は来た時と同様、通り雨のように去っていった。
雨はまだ、降り続いている。
梅雨が明けるまでは、もうしばらくかかるだろう。
雨月に見守られながら、滝は吸い寄せられるように、筆に手を伸ばしていた。
――――
*野辺送り:近親者や地域の人間が棺を担ぎ、葬列を組んで埋葬地にまで送ること。
*柱絵:柱に掛ける縦長の浮世絵。
*大首絵:歌舞伎役者や美人の顔や上半身を大きく描いた浮世絵。




