猫又(5)
長く項垂れていた滝は、寒々しくなった部屋を見渡してから、鏡台に映る己の姿に目を留めた。
目の下に、うっすらと隈ができている。寝るには早いが、滝は布団を敷いて、横になった。
静まり返った部屋が、雨音で満たされる。
この部屋で一人きりで眠るのは初めてのことで、滝は何度も寝返りを打った。
――とうとう、正体を暴いてしまった。
暗がりから噴き出すように、後悔がどっと押し寄せて来る。
――一人でいることは、こんなにも心細い。
澪の異変に気づかないふりをしてきたのは、問えば失うとわかっていたからだ。
怪異譚のお決まり。正体を見破られた化物は、例外なく去っていく。
「たとえ、化物でも……」
滝は零れ出た言葉を呑みこんで、目を閉じた。
翌朝、雨月は根岸までの道のりを数歩後下がってついてきた。人の姿になっても、言葉を交わしても、愛猫は相変わらず不器用だ。
滝は苦笑を隠して、何も言わずに歩き続けた。
本石町から根岸まで、小雨の中を歩いて半時ほど。繁華な問屋街を通り過ぎ、寺の立ち並ぶ四軒寺町から団子坂を下って幾つかの橋を渡ると、不意に緑の匂いが濃くなり――見渡す限り一面に、田地が広がっていた。
王子から流れ込む音無川に沿って歩いて行けば、山茶花や寒竹の生垣に囲まれた文人墨客の庵、大名の下屋敷などもぽつぽつと現れる。
豆富茶屋や羽二重団子の茶屋を過ぎると、樹木が鬱蒼と生い茂り、奥には大蛇が棲むと噂される湿地が見えてきた。
目印として教えられていたのは、下流の五行松――通称、時雨の松だ。錦絵にも描かれる名所は、松の大樹が豊かに茂り、垂れ下がった枝の下には茶店があって、逍遥(*)する人の姿がある。
この名所の手前で曲がったところで、後ろを歩いていた雨月が先導して、竹藪の奥へと進んでいった。
「鵺代神社……」
現れた青銅の鳥居の社額を見上げて、滝はその名を呟いた。今朝、鵺代神社に行くのだと長屋の住人に話したら、あそこは化物封じの霊験あらたかだと聞かされて、不安になった。
もし、愁水がちらりと零した〈相棒〉とやらが、祓い屋であったとしたら――雨月まで退治されてしまうのではないか。
――そうなったら、雨月を連れて、逃げなければ。
滝は爪音の主さえどうにかしてくれれば、それで良かった。雨月のほうは、このままでいいと思っている。
周囲の寺院が趣向を凝らした庭園を持つなか、鵺代神社はこぢんまりとした切妻造の本殿と社務所を持つだけの、簡素な造りだった。竹藪に囲まれた境内は昼間でもどこか薄暗く、参拝客の姿も見当たらない。
「――お待ちしておりました。〈幽世庵〉のお客様ですね」
滝が周囲を見渡していると、竹林の影から足音もなく、白衣に紫袴の神主が現れた。
背まで届く長い髪を総髪にした、女と見紛うような美しい顔立ちの男が、涼やかな目、形の良い唇に、薄い笑みを浮かべている。
優しげに見えるが、その表情はどこか作り物めいていた。浮世離れした秀麗さがそのような印象を与えるのか、それとも――。
「私は鵺代神社の神主、嗣巳と申します。幽世庵までご案内いたしましょう」
年の頃は、二十を少し過ぎたところだろうか。落ち着いて品のある物腰には、老成した風格すら漂っている。
そんな男がなぜ、愁水の小間使いのようなことをしているのか。
滝が疑問に思いながら歩を進めると、雨月は滝の背中に隠れるようにしてついてきた。猫の耳がついていたなら、平たく伏せているところだろう。
「あんた、何が怖いの?」
滝が問いかけると、
「――私でしょう」
と、嗣巳が前を向いたまま答えた。
「貴女についてきた〈あれ〉も、いまは私を恐れて、近づいて来ませんね」
「えっ……」
勢いよく振り返ると、いましがた通ってきた鳥居のまえに、虚無僧姿の男が立っていた。編み笠で相変わらず顔は見えないが、目が合ったような気がして、恐怖で膝が崩れそうになる。
すかさず嗣巳が手を伸ばして支えてくれたが、顔を上げた滝は、総毛立った。
嗣巳は縦長の瞳孔をさらに細めて、圧倒的な力を誇る捕食者のように、悠然と微笑んでいた。
ふと、水溜まりで何かが揺れたような気がして、嗣巳の足元に目を留める。
虎の足、狸の胴、蛇の尾――。
――鵺?
ぱっと顔を上げると、にこやかに微笑んだ嗣巳が、竹藪を抜けた先にある、茅葺の庵を指差して言った。
「さあ、あちらへどうぞ」
鵺代神社の幽世庵、という物騒な名に反して、通されたのはい草の香る上品な茶室だった。
普段から応接室として使われているようだが、見た目よりも奥行きがあり、襖で仕切られた向こう側は、寝食も兼ねた愁水の作業場であるという。
滝の興味に気づいて、嗣巳が奥の部屋も見せてくれた。こざっぱりとした部屋には画材のほかに、和歌の書が文机の周囲に積み重なっていた。部屋の隅の櫃も、中身は書物だろう。
貸本屋に頼りきりの身としては羨ましいかぎりで、
「学がないだなんて、とんだ謙遜ね」
滝が冗談半分にそう呟くと、嗣巳が苦笑を浮かべて言い添えた。
「歌だけですよ。絵師としてやっていくなら、歌を頭に入れておけ――と、言われたそうです」
誰に、と視線だけで問いかけてみたが、嗣巳は答えなかった。
おそらく愁水にも絵の師匠がいるのだろうと、滝も深くは考えなかった。
滝が掛け軸に目を留めると、
「それは、愁水が〈絵師として〉初めて描いた絵ですよ。……愁水を呼んでまいりますので、どうぞごゆるりと」
嗣巳はそう言い残して、立ち去った。
ほかに愁水の作は見当たらない。嗣巳が離れていくぶんか緊張を解いた滝は、これが噂の――と、胸を高鳴らせた。
絵の前に立った滝は、人々が愁水を〈化物封じの絵師〉と呼ぶ理由が、わかったような気がした。
水辺に佇む狐が、こちらを振り返っている。
ただの獣ではない。水面には細面の美しい女が映っており、化物だとわかるのだが――。
静かに遠くを見通すような眼差しが、神気のようなものを感じさせる。
――いまにも、動き出しそう。
滝が見入っていると、狐の尾がふわりと揺れ、水面に映る女の目がそっと伏せられた。
動転した滝は、よろめきながら愁水の作業場から出て、後ろ手で襖を閉めた。
心の臓が早鐘を打っている。
怖いのは確かだが、離れてしまうと、もう一度見てみたいような気持ちに駆られる。
そう、怖いモノ見たさだ。
「滝様?」
固まっている滝の顔を、雨月が気遣わしげに見上げてくる。
猫又に、鵺に、狐――。
幼い頃、夢想したモノたちが本当にいる。
怖いけれど、その怖さに惹かれてしまうのは――何故だっただろう。
「滝様。恐ろしいでしょうが、もう少しの辛抱です。化物は一匹たりとも近づけません。もちろん、私を含めて――」
何を誤解したのか、雨月が俯いて言った。
「違う。まだ、わからないの?」
滝が真正面から見つめると、雨月は途方に暮れたように顔を背けた。
傍に居て欲しいと願えば、叶うのだろうか。それとも、言ってしまえば、そこで終わるのじゃないか――。
滝は気を落ち着けようとして、開け放たれた障子戸から庭を眺めた。
殺風景だが、一部には露草らしき植物が植えられている。絵具の材にするのだろうと考えていると、竹林の奥に人影が見えた。
あの、虚無僧姿の男だった。素早い動きで、こちらに向かってくる。
――なぜ? 入ってこられないのではなかったの?
瞬きの間に距離を詰められ、錯乱した滝が畳の上に倒れ込むと、雨月が庇うように、滝の前に飛び出した。
何も見るなとばかりに、雨月が滝の肩を押さえつけてくる。
畳に血が飛んだのを見て、滝は半狂乱で雨月の名を叫んだ。
――――
*逍遙:散歩。




