猫又(6)
体は澪のものであるのに、雨月の力が強くて振りほどけない。
滝が必死にもがいていると、虚無僧姿の男の背後に愁水が、その背に呪符を貼るのが見えた。
「――不動緊縛、急急如律令」
途端に争いの音が止み、雨月の腕から力が抜けた。
滝は座り込んだまま、石像のように固まって動かない虚無僧姿の男を見上げた。赤い目玉が、真っ直ぐに滝を見つめている。
――どうして、そんな、縋るような目で。
滝が魅入りそうになっていると、
「手荒な真似をいたしました。……お許しください、滝様」
そう言って、雨月が速やかに離れる。雨月は片手で腕を押さえており、着物は鋭い爪で裂かれていた。
――血が滲んでいる。
「姐さん、生きてるか?」
滝が声もなく震えていると、膝をついた愁水が、滝の顔を覗き込んで苦笑した。
「愁さん……」
「手荒なやり方で悪かったな。だがまあ、この通り――」
「何も言わずに、囮にするなんて……!」
雨月が負傷するとわかっていれば、承諾しなかったものを。
頭に血が上った滝は、気づけば愁水の頬を平手で打っていた。
ただし、人に手を上げるのは初めてで、間の抜けた音がしただけだ。
痛くはなかったはずだが、愁水は驚いたように目を丸くしていた。
「もう、愁さんには頼らない。帰らせてもらうわ」
引っ込みがつかなくて、愁水を睨みつける。
愁水は――肩を震わせて、笑いだした。
「何を……!」
「いや。頼らない、なんて言われたのは、初めてでな。……そう言われちまうと、何が何でも、頼らせたくなってくるな」
「天の邪鬼……!」
「おう、よく言われる」
滝の精一杯の抗議にも、愁水は楽しげに笑っている。
――何が、そんなに面白いのよ。
滝は腹を立てたが、ますます愁水を楽しませるだけだと気付き、深い息を吐いて気を静めた。
他人の頬を打った衝撃が、遅れてやってくる。
謝るべきかと迷ったが――骨の折れるような音がして、気が逸れた。
呪符を破り捨てた虚無僧姿の男が、嫌な音を立てて身を捩っている。
爪が鋭く伸び、全身が灰色の体毛に覆われていく――。
「雨月。姐さんを連れて、社務所まで走れ」
顔色一つ変えない愁水に、滝は却って、焦りの色を感じ取った。
「待って、雨月――」
連れ出そうとする雨月に抵抗して、滝が手を伸ばしかけたそのとき、隣の襖から白銀の生き物が飛び出した。
――白い、狐?
白狐の体が光り、灰色の巨体がたじろいで――逃げ出した。
「柊、無理すんな!」
愁水の一言で、深追いの姿勢を見せていた白狐が戻って来て、愁水に寄り添った。
「悪いな、助かった」
愁水が頭を撫でると、白狐はうっとりと目を細め、尾を振った。
そこへ、大股の足音が近づいてくる。虚無僧が戻ってきたのかと身構えたが、現れたのは嗣巳だった。
「何だ、取り逃がしたのか? 愁水、お前の術は一向に上達せんな。――料理と同じく」
「てめえ、次からお前の食事に、口に出して言えねえようなもん混ぜるぞ。大体、お前の呪符が破られたんだから、お前がしくじったようなもんだろ」
「この悪童が――」
あの、と滝が声をかけても、罵詈雑言の応酬は止まらない。
狼狽えている雨月が可哀想になって、滝は思わず一喝してしまった。
「――お黙り!」
ぎょっとした愁水が、素直に口をつぐむ。化物相手にも平然としている男なだけに、その反応は滝を複雑な心持ちにさせた。
滝は空咳で気恥ずかしさを誤魔化して、謝った。
「ごめんなさい、つい」
つい、と愁水が反復する。
そんな、化物を観察するような目で見ないで欲しい――と思ったが、己の言動を振り返った滝は、諦めた。
「あれは、あたしの手には負えない……。頼らない、なんて啖呵を切ってしまったけれど、やっぱり、手を貸して貰えないかしら……」
滝は居ずまいを正して、愁水に頭を下げた。
「なんだ、改まって。何が何でも頼らせる、って言ったのは俺だぜ」
愁水の呆れたような声に、「お前は何を言っているんだ……」と、嗣巳がさらに呆れてみせたが、今度は黙殺することにしたようだ。
「さて、あの〈鼠〉は、姐さんの何が狙いなんだろうな」
「――寂しいんじゃないかしら」
滝の呟きに、今度は嗣巳が意外そうな顔をした。
「あっ……いえ、何となく、そう思っただけで」
驚いたのは、滝自身だ。けれど口にしてみると、すとんと腑に落ちる気がした。
あれが怒りを顕にしたのは、滝が雨月の名を呼んだときではなかったか。
それに、あの手負いの獣のような、縋るような眼差し――。
「そんなら、姐さんはどこで見初められたんだろうな。どっかで鼠を助けたか?」
「いえ、そんなことは……」
「では、大黒天を祀る神社で参拝した覚えは?」
嗣巳の問いに、滝はあっと声をあげた。
「あります。以前住んでいた場所の近くに、小さな神社が……と言っても、最後に参拝したのは数年前ですけれど……」
「鼠は大黒天の使いです。なるほど、神の使いなら一筋縄ではいかないでしょうね」
「それにしたって、あの暴走ぶりは……」
愁水が意味ありげに呟いたが、途中で言葉を切った。
「まあ、俺たちに任せな。準備さえすりゃ、今度は逃がさねえよ。危ねえから、囮もやらなくていい。そうだな、髪一本もらえりゃ、形代で騙せるんじゃねえか?」
「ああ、お前の不味い術でもなんとかなるだろう」
てめえ、と愁水が嗣巳に詰め寄るよりも先に、滝は声を上げた。
「その囮が絶対でないのなら、あたしがやります。ただ……その代わり、あの鼠のことも、祓わないでやって欲しいの。〈化物封じの絵師〉というのが、真でないと言うのなら」
頼んでおきながら、この物言いは無礼だと承知の上だが――愁水は怒らないだろうと、確信があった。
予想通り、愁水は面白がるように言った。
「それは、俺への挑戦だな。もちろん、祓ったりなんかしねえよ。俺はただ、寄る辺のねえモノに拠り所――〈依り代〉になる絵を提供しているだけだ」
「正直、お滝さんに囮になってもらえたほうが、結界を一つ減らせるので愁水の負担は減ります。囮と言っても、夜明けまで、この庵に籠っていてもらえればいいだけです。ただし、《《誰に呼ばれようとも》》、外には出ないでくださいね」
ほっと安堵した滝に、嗣巳が淡々と説明をつけ加えた。
怖くないと言えば嘘になるが、雨月を失うよりも恐ろしいことはない。
その雨月は、どこか思い詰めた顔をしていた。
嫌な予感がして、身が震える。
滝と目が合うと、雨月は弱々しく微笑んだ。
「ご安心ください。私がこの身に代えましても、滝様をお守りいたします」
「そんなこと……」
しなくていい、という滝の言葉を遮って、雨月は首を横に振った。
「私はこの身体に乗り移るときに、己の身体を捨てました。澪様の亡骸も、もうすぐ崩れます。そうであればこそ、私は最後に、滝様のお役に立って消えたいのです」
雨月、と呼び掛ける前に、雨月は庵を出てしまった。
――いやだ。そんなこと、しなくていい。
そう言いたかったが、言葉にならなかった。何かを強く願うとき、滝はいつも、声を失ってしまう。
色をなくした滝の肩に、愁水の手が置かれた。
その手の熱さで、滝は自分の身体が冷え切っていたことに気づかされた。
「雨月はああ言っているが、心配すんな。俺が何とかしてやるから」
愁水の目を見つめると、ふっと肩の力が抜けた。
――不思議な目。
信じたいと思わせる、力強い目だ。その自信がどこから来るものなのか、本気で知りたくなってくる。
「あたしには懐いていないと、思っていたの。あの子があたしをあの世に連れて行こうとしているんじゃないかって、そう考えたくらいだった。それが申し訳なくて……」
「親しいやつには、素っ気なくなるってやつもいるんじゃないか? あれだ、一種の甘えだな。わかってくれるだろ、って」
「――愁水、まさか私のことを言っているのではないだろうな」
愁水がにやりと笑い、なぜか嗣巳が、地を這うような声で凄んだ。
ふ、と滝の唇に笑みが浮かぶ。
滝と雨月のあいだに〈物語〉があったように、彼らにも長い物語があるのかもしれない。どういう経緯で連れ立っているのか、聞いてみたくもあるが――いまはともかく、この二人を信じてみたい。
庵に一人残された滝は、落ち着いた心待ちで、静かに夜明けを待った。
――お滝。
――お滝ちゃん。
その声は夜半の雨とともに、闇からぬるりと現れた。




