猫又(4)
差配(*)ではない。
顔の見えない編み笠に袈裟とくれば虚無僧(*)だが、尺八(*)を吹くわけでもなく、夕闇に伸びた長屋の影に紛れるようにして、身じろぎもせずに立っている。
「あんた、うちに何の用――?」
声をかける前に、滝に気づいていたらしい。振り返ったかと思うと、手首を容赦のない力で掴まれ、引っ張られた。
男の顔を間近に見た滝は、息をつめた。
真っ赤な眼球。その異様さに呑まれかけたが、無機質なその目が、滝には手負いの獣のように見えた。
何かを求めるように、大きな手が目前に迫ってくる。
その、鋭い爪――。
夜な夜な壁を引っ掻く様を想起し、滝は悲鳴をあげて身をよじった。
今度こそ地面に倒れ込みそうになったが、熱い手がしっかりと滝の肩を支える。
気がつくと、滝は愁水の腕に護られていた。
「怪我はないか、姐さん?」
愁水はもう片方の手で、虚無僧姿の〈何者か〉の腕を、易々《やすやす》と捻り上げている。
そこに、長屋から飛び出してきた澪が、必死の形相で駆け寄ってきた。
「滝様……!」
舌打ちが聞こえたかと思うと、虚無僧姿の男が消えていた。
いったいどこへ消えたのかと探している間に、澪が滝の手を両手で包みこんだ。
「ごめんなさいっ、片時も離れないと、お約束しましたのに――」
「……えっ?」
滝は驚いて、澪を見つめた。
――片時も離れないと、お約束しましたから。
澪の発した言葉が、遠い昔、夢現に聞いた言葉と重なった。
不器用でうっかり屋の愛猫は、滝が目を覚ましているとも気づかずに、一度だけ、人の言葉を話したことがあった。
まさか、と絶句していると、愁水が呟いた。
「……猫又か」
猫又――老いた猫が化けたモノ。
江戸の瓦版(*)では、猫又が化けたとする話は珍しくもない。百物語が納涼のお遊びとなったいまでも、怪異は江戸中で発生しているかのようだ。
「あんた……雨月なの?」
愛猫の名を呼びかけると、澪の姿をした雨月が小さく頷いた。しかし、顔を上げるように言っても、頑なにうつむいたままだ。
滝はそっと溜息をついて、雨月にぎこちなく笑いかけた。
「あたしはあんたを、生まれたときから知っているんだけどね。昔から、人の言葉を話せるとは知っていたけど……猫又になるには、ちょいと早い気がするよ」
「ご存知だったのですか、滝様」
雨月がぱっと顔を上げて、苦しげに言った。
「あんたは、昔から不器用だったからね」
滝が認めると、雨月はくしゃりと顔を歪めた。
「貴女様に、あまりに愛されたので、離れることができませんでした。……もともと、猫と狐の間にできた子は、猫又になりやすいといいます。一度死にかけた〈あのとき〉、私はどうしても、貴女様のもとに帰りたかった……。お傍にいたい一心で、私は橘の古木の力を借りて、化物になったのでございます」
胸の内を吐露した雨月の目が、猫の本性を現わして、瞳孔を細めた。
「私を失いかけたときでさえ、あれだけ悲しまれたのです。妹君を失えば、貴女様がどれだけ心を傷めるかと思うと……」
勝手をいたしましたと、雨月が頭を下げる。
その姿を見て、滝はようやく気がついた。
――雨月が澪の傍を離れなかったのは、私のためだった?
雨月は断罪を待つように、うなだれている。そんな姿を見れば、愛猫に深く想われていたのだということは……疑いようもない。
――そうだね。優しいあんたは、たとえ地獄から帰ってきたって、あたしを傷つけるはずがなかったね。
疑ったことを、許してほしい。
怒ってなどいないから、このまま傍に居続けてほしい。
上手く言えない代わりに、滝は雨月を抱きしめようとしたが――あのどろりとした腐臭を感じて、また吐き気がこみ上げてきた。
滝がうずくまりかけたところで、愁水の腕が雨月を引き離した。
「愁水様……」
雨月が泣きだしそうな声で、愁水の名を呼ぶ。
「俺を知ってんのか」
「この江戸に居て、知らぬモノなどおりません」
「そうか。その気があるなら、根岸に――幽世庵まで来い」
滝にはその意味がわからなかったが、愁水の言葉に、雨月は深々と頭を下げた。
爪音の主は、雨月ではなかった。
雨月によれば、本物の澪は、あの春に亡くなっていたのだという。
いままで妹として傍にいたのは、消えた愛猫だった――。
澪が死者ではないかと疑うことはあったが、愛猫がなりすましていたなどとは、思いもしなかった。
ずきずきと疼くこめかみを指で押さえていると、
「滝様。明日、私とともに根岸へ参りましょう」
雨月はそう言い置いて、長屋を出ていこうとした。
「待って……」
袖を掴んで引き留めようとしたけれど、雨月は困ったように微笑んで、するりとかわしてしまった。
「どこにも行きません。外で寝ずの番をするだけです」
雨月は滝の頬に触れようとして、何かを恐れるように、寸前で手を引いた。
その姿は、猫であった時と変わらない。傍にいたいと全身で訴えるくせに、近づくことを怖れてもいる。
「この身体は腐りかけているのです。死臭は、生者には毒です。あまり、近づかれませんように……」
そんなこと、と滝が言いかけるのを遮って、雨月は悲しげな顔で、滝に微笑みかけた。
「私が気にします。……滝様には、もう充分、良くしていただきました。同族に疎まれ、見捨てられた私を拾ってくださったあの日から、ずっと。だから、雨月はもう良いのです。お休みなさい、滝様」
滝はよろめくように立ち上がったが、雨月は滝の視線を避けるように、背を向けて出ていった。
橘の香りが、離れていく。
その残り香で、滝は幼い頃、雨月が深い傷を負って帰ってきたときのことを、思い出した。
――どうか、死なないで。ずっと傍にいて。
橘の古木にそう祈ったのは、橘が不老不死の実――非時香菓をつける常世の神樹だと、父に聞いたからだった。
また母のほうでは、橘の〈タチ〉は〈立ち現れる〉――つまり神霊の顕現する樹を表すのだと、信じていたからだ。
果たして雨月は一命を取り留め、この春まで――澪が大病を患うまで、共に暮らしてきたのだった。
――馬鹿ね、雨月。
滝に助けられたからといって、体を張って恩返しをしたのでは意味がない。
――生きていてくれるのが一番の恩返しだと、なぜ気づかないの。
滝は、唇を噛んだ。
――でも、もっと馬鹿なのは、私のほうね。
猫にしては、不器用な子だったと思う。甘えたいのに、甘えかたを知らないようだった。
期待のこもった目で見つめるくせに、かまってやろうとすると逃げてしまう。一瞬、尻尾を滝の手にするりと絡ませてくるのが、あの子の精一杯だった。
もっと、甘やかしてやればよかった。
もっと早くに、そう思えていればよかったのに――。
――――
*差配:大家のこと。
*虚無僧:江戸時代に活動した僧侶。頭から顔まで覆う編笠を被り、尺八を吹いて修行・托鉢を行う姿が特徴的。
*尺八:縦笛。
*瓦版:江戸時代の新聞。




