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【第一部・完結】幽世庵モノガタリ ~化物絵師と鵺~【幕末妖かしバディ】  作者: Yumiko
第六幕・追憶の雨香―猫又

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猫又(4)



 差配さはい(*)ではない。


 顔の見えない編み笠に袈裟けさとくれば虚無僧きょむそう(*)だが、尺八しゃくはち(*)を吹くわけでもなく、夕闇に伸びた長屋の影に紛れるようにして、身じろぎもせずに立っている。


「あんた、うちに何の用――?」


 声をかける前に、滝に気づいていたらしい。振り返ったかと思うと、手首を容赦のない力で掴まれ、引っ張られた。


 男の顔を間近に見た滝は、息をつめた。


 真っ赤な眼球。その異様さに呑まれかけたが、無機質なその目が、滝には手負いの獣のように見えた。


 何かを求めるように、大きな手が目前に迫ってくる。


 その、鋭い爪――。


 夜な夜な壁を引っ掻く様を想起し、滝は悲鳴をあげて身をよじった。


 今度こそ地面に倒れ込みそうになったが、熱い手がしっかりと滝の肩を支える。


 気がつくと、滝は愁水の腕に護られていた。


「怪我はないか、姐さん?」


 愁水はもう片方の手で、虚無僧姿の〈何者か〉の腕を、易々《やすやす》とひねり上げている。


 そこに、長屋から飛び出してきた澪が、必死の形相で駆け寄ってきた。


「滝様……!」


 舌打ちが聞こえたかと思うと、虚無僧姿の男が消えていた。


 いったいどこへ消えたのかと探している間に、澪が滝の手を両手で包みこんだ。


「ごめんなさいっ、片時かたときも離れないと、お約束しましたのに――」


「……えっ?」


 滝は驚いて、澪を見つめた。


 ――片時も離れないと、お約束しましたから。


 澪の発した言葉が、遠い昔、夢現ゆめうつつに聞いた言葉と重なった。


 不器用でうっかり屋の愛猫は、滝が目を覚ましているとも気づかずに、一度だけ、人の言葉を話したことがあった。


 まさか、と絶句していると、愁水が呟いた。


「……猫又か」


 猫又――老いた猫が化けたモノ。


 江戸の瓦版かわらばん(*)では、猫又が化けたとする話は珍しくもない。百物語が納涼のうりょうのお遊びとなったいまでも、怪異は江戸中で発生しているかのようだ。


「あんた……雨月なの?」


 愛猫の名を呼びかけると、澪の姿をした雨月が小さく頷いた。しかし、顔を上げるように言っても、かたくなにうつむいたままだ。


 滝はそっと溜息をついて、雨月にぎこちなく笑いかけた。


「あたしはあんたを、生まれたときから知っているんだけどね。昔から、人の言葉を話せるとは知っていたけど……猫又になるには、ちょいと早い気がするよ」


「ご存知だったのですか、滝様」


 雨月がぱっと顔を上げて、苦しげに言った。


「あんたは、昔から不器用だったからね」


 滝が認めると、雨月はくしゃりと顔を歪めた。


「貴女様に、あまりに愛されたので、離れることができませんでした。……もともと、猫と狐の間にできた子は、猫又になりやすいといいます。一度死にかけた〈あのとき〉、私はどうしても、貴女様のもとに帰りたかった……。お傍にいたい一心で、私は橘の古木の力を借りて、化物になったのでございます」


 胸の内を吐露とろした雨月の目が、猫の本性を現わして、瞳孔を細めた。


「私を失いかけたときでさえ、あれだけ悲しまれたのです。妹君を失えば、貴女様がどれだけ心を傷めるかと思うと……」


 勝手をいたしましたと、雨月が頭を下げる。


 その姿を見て、滝はようやく気がついた。


 ――雨月が澪の傍を離れなかったのは、私のためだった?


 雨月は断罪を待つように、うなだれている。そんな姿を見れば、愛猫に深く想われていたのだということは……疑いようもない。


 ――そうだね。優しいあんたは、たとえ地獄から帰ってきたって、あたしを傷つけるはずがなかったね。


 疑ったことを、許してほしい。


 怒ってなどいないから、このまま傍に居続けてほしい。


 上手く言えない代わりに、滝は雨月を抱きしめようとしたが――あのどろりとした腐臭を感じて、また吐き気がこみ上げてきた。


 滝がうずくまりかけたところで、愁水の腕が雨月を引き離した。


「愁水様……」


 雨月が泣きだしそうな声で、愁水の名を呼ぶ。


「俺を知ってんのか」


「この江戸に居て、知らぬモノなどおりません」


「そうか。その気があるなら、根岸に――幽世庵まで来い」


 滝にはその意味がわからなかったが、愁水の言葉に、雨月は深々と頭を下げた。




 爪音の主は、雨月ではなかった。


 雨月によれば、本物の澪は、あの春に亡くなっていたのだという。


 いままで妹として傍にいたのは、消えた愛猫だった――。


 澪が死者ではないかと疑うことはあったが、愛猫がなりすましていたなどとは、思いもしなかった。


 ずきずきとうずくこめかみを指で押さえていると、


「滝様。明日、私とともに根岸へ参りましょう」


 雨月はそう言い置いて、長屋を出ていこうとした。


「待って……」


 袖を掴んで引き留めようとしたけれど、雨月は困ったように微笑んで、するりとかわしてしまった。


「どこにも行きません。外で寝ずの番をするだけです」


 雨月は滝の頬に触れようとして、何かを恐れるように、寸前で手を引いた。


 その姿は、猫であった時と変わらない。傍にいたいと全身で訴えるくせに、近づくことを怖れてもいる。


「この身体は腐りかけているのです。死臭は、生者には毒です。あまり、近づかれませんように……」


 そんなこと、と滝が言いかけるのを遮って、雨月は悲しげな顔で、滝に微笑みかけた。


「私が気にします。……滝様には、もう充分、良くしていただきました。同族にうとまれ、見捨てられた私を拾ってくださったあの日から、ずっと。だから、雨月はもう良いのです。お休みなさい、滝様」


 滝はよろめくように立ち上がったが、雨月は滝の視線を避けるように、背を向けて出ていった。


 たちばなの香りが、離れていく。


 その残り香で、滝は幼い頃、雨月が深い傷を負って帰ってきたときのことを、思い出した。


 ――どうか、死なないで。ずっと傍にいて。


 橘の古木にそう祈ったのは、橘が不老不死の実――非時香菓ときじくのかくのこのみをつける常世とこよの神樹だと、父に聞いたからだった。


 また母のほうでは、橘の〈タチ〉は〈立ち現れる〉――つまり神霊の顕現けんげんする樹を表すのだと、信じていたからだ。


 果たして雨月は一命を取り留め、この春まで――澪が大病を患うまで、共に暮らしてきたのだった。


 ――馬鹿ね、雨月。


 滝に助けられたからといって、体を張って恩返しをしたのでは意味がない。


 ――生きていてくれるのが一番の恩返しだと、なぜ気づかないの。

 

 滝は、唇を噛んだ。


 ――でも、もっと馬鹿なのは、私のほうね。


 猫にしては、不器用な子だったと思う。甘えたいのに、甘えかたを知らないようだった。


 期待のこもった目で見つめるくせに、かまってやろうとすると逃げてしまう。一瞬、尻尾を滝の手にするりと絡ませてくるのが、あの子の精一杯だった。


 もっと、甘やかしてやればよかった。


 もっと早くに、そう思えていればよかったのに――。



――――

*差配:大家おおやのこと。

*虚無僧:江戸時代に活動した僧侶。頭から顔まで覆う編笠を被り、尺八を吹いて修行・托鉢たくはつを行う姿が特徴的。

*尺八:縦笛。

*瓦版:江戸時代の新聞。

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