小袖の手(2)
「――退治は、なさらない?」
早朝からやって来た妓楼の主人は、困惑した様子で愁水に聞き返した。
「では、愁水先生は……化物を絵に描いて、どうなさるのです。依り代というのは要するに、棲みかを与えてやるということでしょう?」
「俺が引き取って、絵の所有者としてふさわしい人間を探すことになるが。もっとも、化物も〈利点〉がなければ、描かせてくれねえけどな」
化物騒動を落着させて、食い扶持を稼ぐ――という気はないため、愁水の応対は素っ気ない。
妓楼の主人は慌てた様子で言い募った。
「どのように致せば、怪異は収まりますかな。店の者がすっかり怯えてしまい……目撃した客もおります。このままでは客足が……。化物の利点とは、一体……?」
「大体は、祀られることを望むが。実際に遭ってみねえと、わからねえよ」
無理強いをする気はない、と繰り返せば、噂通りの化物贔屓だと、忌々しげに呟く。
化物贔屓、上等だ。あんたの歪んだ顔のほうが、よほど化物じみているぜ――と言いかけた愁水の口を、嗣巳が今度は横から手を伸ばして、塞いだ。
そうして、曰くありげな流し目を寄越してくる。
――〈当たり〉か。
それならば、仕方ない。愁水は妓楼の主人に向き直った。
「言っとくが、俺には死んだ人間の魂……幽霊は視えないからな。原因が幽霊というなら、俺に出来ることはない」
「化物と幽霊は、違いますか」
「似て非なるモンだな」
どう違うのだ、と言われれば、絶対の正解はないのだが。
「あれだ、化物は本体と異なる姿に化けるだろ。まあとにかく、後で様子は見に行く」
客は再三「お願いしますよ」と念押しして、渋々帰っていった。
朝餉の仕度をしながら、愁水はふと尋ねてみたくなった。
「なあ、嗣巳……」
「その筆を使っても、人間の魂は絵に宿せないぞ」
嗣巳は皮肉屋らしいぞんざいな口調に戻って、化物だけだと、先回りして言った。
「まだ何も言ってねえだろ。……幽霊でも駄目なのか?」
「輪廻転生、人間の魂は廻るもの。一所に留めておけるものではない……が」
何か言いかけた嗣巳が、途中で言葉を変えた。
「……不味い」
愁水の用意した朝餉が、お気に召さなかったらしい。見た目は悪くないため、味付けの問題なのだろう。味が濃いと言うから、今度は薄くしたのだが。
「俺に、料理なんかさせるからだぜ」
「この悪食め。私が人を喰うかどうかは、お前にかかっているんだぞ、愁水」
愁水は首をひねった。これが本気の脅しなのかどうか、愁水には判別がつかない。鵺が人を喰う類いの化物なのかは、調べてみてもわからなかった。
鵺は、音から生まれた化物だ。ひょう、ひょうと夜半に鳴く鳥――鶫の声から、人々が想像して生まれたモノ。
黒雲といった不気味な現象や、病などの災いの象徴として恐れられた、という記述があるだけで、人を喰ったとは記されていない。
けれど、どの逸話でも、鵺は退治されたモノとして語られる。身体はばらされ、各地に四散したとも。
常に冷ややかで飄々《ひょうひょう》としているため、その心中はわかりかねるが――。
人の想像から生まれたモノにとって、人間からの〈捧げ物〉の有無は、死活問題であるらしい。
愁水の作った〈不味い飯〉でも、一応〈神饌〉の扱いとなるほどだ。
つまり、〈神人共食〉、共に食うという形式が重要なのであって、味は関係がない――はずなのだが。
文句を言いながらも、嗣巳は箸を進めている。残さずに食うからといって、もちろん感動はない。
味噌汁に納豆を入れた時も同じように罵られたが、庶民の一般的な飯が気にくわないなら、一生甘味だけ口にしていろと言ってやりたかった。
ちなみに、買ってきた甘味は文句も言わずによく食うため、試しに一日中菓子だけ出してみたこともあったが。
控え目に正気を疑う眼差しを向けられたため、己の自尊心のためにも、やめておいた。あの目は、地味にくるものがあった。
「そういや、さっき何か言いかけたか?」
「……人を化物にする方法、だ」
「どうやって?」
「自分で考えてみろ」
会話は終わりだとばかりに、嗣巳が立ち上がる。基本的に、朝夕の食事以外は、愁水は庵に、嗣巳は社務所に居り、互いに干渉することはない。
その嗣巳が、早く行けと手を振っている。
これは、〈当たり〉の反応だ。
「……あの妓楼の主人からは、かすかだが、私の血の匂いがした」
説明なら、この一言で十分だ。
江戸市中に、この鵺の血を用いた呪物が出回っている。
そうした騒動を追っていけば、いつか、妹の身体に嗣巳を封じた〈陰陽師〉にたどり着くだろう。
愁水が魔の筆を成すのが先か、術師を捕らえるのが先か。
「土産を楽しみにしている」
鵺は、人を喰いかねない笑みを浮かべて言った。




