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【第一部・完結】幽世庵モノガタリ ~化物絵師と鵺~【幕末妖かしバディ】  作者: Yumiko
第一幕・小袖の手

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小袖の手(1)




 そこに《《あるはずのない腕》》が、小袖こそでからだらりと垂れて、揺れていた。



 ひそかに恋慕していた女が死に、京助の手元には紅色の小袖(*)と、古い歌集だけが残った。


 格子戸から差し込む春の夕暮れの陽光が、小袖を物悲しく照らしている。男一人の長屋暮らしに不似合いなそれを、京助は広げて眺めていた。


 何か、意図が読み取れはしないか――と、目をらして。


 着物に描かれた球状の黄色い花は、三椏みつまただろう。樹皮は、紙の原料になる。地本問屋じほんどんや(*)の京助にとっては馴染みのある植物だが、このときは用途よりも、花の名に意識が向いた。


 ――みつまた、と言えば。


 京助は、女の〈最後の挨拶〉を思い出した。


 別れの日、二人は隅田川――永久橋の手前、海と川の境であり、水路が三つに分かれて見えることから三俣みつまた、あるいは〈わかれのふち〉と呼ばれる川辺にいた。


 一時は歓楽街として栄えた月見の名所ではあるが、いまは葦の生い茂る湿地帯で、絵に描いても華のない、殺風景な場所だ。


 そんな場所を最後に指定して、女は言ったのだ。


 ――きっとまた、あんたに逢いに来るから。


 旗本はたもとの出でありながら、明日には妓楼ぎろうに売られるという女――幼馴染のおようは、最後まで強気だった。


 そうして、和歌くらい読んでおけと、歌集を京助に押しつけて、あっさりと去っていった。


 あの自信はどこからくるのかと、何事にも懐疑的な京助は平生から常々、呆れると同時に――感嘆もしていたのだ。


 その刹那せつなは、お葉の言葉を信じそうになったものだ。


 実際には、お葉に何度も呼びつけられて、京助のほうが――もちろん、客ではなく貸本屋として――昼間の遊郭に、足繁く通うはめになったのだが。


 そしてお葉は、〈最後の挨拶〉から一年と経たずに、遊郭を一歩も出ることがないまま、病で死んだのだった。


 ――あのとき、言わなくてよかったな。


 京助は残った小袖を見つめて、心からそう思った。


 この世には、〈言っても仕方のないこと〉というやつが多々ある。


 言っても結果が変わらないこと。


 言うことによって、余計な心残りが生じてしまうこと。


 どれだけ愛しいと思っていたか――などという独りよがりな言葉も、この場合は言わぬが花だ。


 お葉が実は自分を好いていたかどうかも、京助にはわからない。


 ――三俣の花が、なんだっていうんだよ。俺に学がねえことくらい、わかってただろ。


 京助の家もまた旗本であったが、お葉の家よりもずっと早くに没落しているのだ。


 途方に暮れた末に、京助は小袖を行李こうり(*)にしまいこんだ。


 ――死んじまったら、それで終わりだな。


 だから、お葉と同じ妓楼にいた――お葉の小袖を押しつけるように渡してきた女たちの言葉を、京助は信じていなかった。


 小袖から白い腕が生えて、手招きする――などと、馬鹿げている。


 江戸の世の化物は、面白おかしく〈描かれるモノ〉だ。化物が何らかの吉凶を示すと考えられたのは、一昔前のことだ。

 

「……今日だけだ」


 京助は呟いた。無為むいな時間を過ごすのは、今日だけ。明日からは、また仕事漬けの日々だ。


 愛しい者をうしなおうが、時は容赦なく廻る。遺品を抱きかかえたまま、時を止めることは許されないのだ。


 顔を上げた京助の視線の先には、一族所縁の、漆塗りの鏡台があった。金箔の蒔絵まきえ豪奢ごうしゃで、在りし日の栄華がしのばれる。


 他には、くし印籠いんろうも――。


 この部屋は故人の遺したものばかりだと、乾いた笑みがこぼれる。


 再びうつむきかけた京助の気を引いたのは、カリカリとか細い物音だった。


 何かを――爪で引っくような音だ。


 外の音ではない。


 部屋の中から――《《行李の内側から》》聞こえるのだ。


 鏡越しに、京助は行李のふたがゆっくりと動くのを見た。


 ――早く、閉めねえと……中から、出てきちまう……。


 そう思うのだが、体が動かない。


 わずかに見えた隙間から、小袖と共に、白い腕がずるりといだした。


 たまらずに、振り返る。


 そこには、何もなかった。行李も開いていない。京助はふらりと立ち上がって、行李のなかを改めた。


 柄にばかり気をとられていたが、一点、気になる所があった。


 縫い目だ。うまく縫い合わせて誤魔化しているようだが、この布は――まるで、刀で袈裟懸けさがけ(*)に切られたようだった。


 背筋がぞくりとする。


 ――お葉は……病ではなく、斬り殺された?


 小袖を握り締めたとたん、外から京助を呼ぶ声がした。



――――

*小袖:袖口が狭い着物

*地本問屋:江戸で浮世絵や草双紙などの大衆的な娯楽出版物を企画、制作、販売した版元。

*行李:衣類などの収納に使われた入れ物

*袈裟懸けに斬る:肩から斜めに斬ること

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