小袖の手(1)
そこに《《あるはずのない腕》》が、小袖からだらりと垂れて、揺れていた。
*
密かに恋慕していた女が死に、京助の手元には紅色の小袖(*)と、古い歌集だけが残った。
格子戸から差し込む春の夕暮れの陽光が、小袖を物悲しく照らしている。男一人の長屋暮らしに不似合いなそれを、京助は広げて眺めていた。
何か、意図が読み取れはしないか――と、目を凝らして。
着物に描かれた球状の黄色い花は、三椏だろう。樹皮は、紙の原料になる。地本問屋(*)の京助にとっては馴染みのある植物だが、このときは用途よりも、花の名に意識が向いた。
――みつまた、と言えば。
京助は、女の〈最後の挨拶〉を思い出した。
別れの日、二人は隅田川――永久橋の手前、海と川の境であり、水路が三つに分かれて見えることから三俣、あるいは〈わかれの淵〉と呼ばれる川辺にいた。
一時は歓楽街として栄えた月見の名所ではあるが、いまは葦の生い茂る湿地帯で、絵に描いても華のない、殺風景な場所だ。
そんな場所を最後に指定して、女は言ったのだ。
――きっとまた、あんたに逢いに来るから。
旗本の出でありながら、明日には妓楼に売られるという女――幼馴染のお葉は、最後まで強気だった。
そうして、和歌くらい読んでおけと、歌集を京助に押しつけて、あっさりと去っていった。
あの自信はどこからくるのかと、何事にも懐疑的な京助は平生から常々、呆れると同時に――感嘆もしていたのだ。
その刹那は、お葉の言葉を信じそうになったものだ。
実際には、お葉に何度も呼びつけられて、京助のほうが――もちろん、客ではなく貸本屋として――昼間の遊郭に、足繁く通うはめになったのだが。
そしてお葉は、〈最後の挨拶〉から一年と経たずに、遊郭を一歩も出ることがないまま、病で死んだのだった。
――あのとき、言わなくてよかったな。
京助は残った小袖を見つめて、心からそう思った。
この世には、〈言っても仕方のないこと〉というやつが多々ある。
言っても結果が変わらないこと。
言うことによって、余計な心残りが生じてしまうこと。
どれだけ愛しいと思っていたか――などという独りよがりな言葉も、この場合は言わぬが花だ。
お葉が実は自分を好いていたかどうかも、京助にはわからない。
――三俣の花が、なんだっていうんだよ。俺に学がねえことくらい、わかってただろ。
京助の家もまた旗本であったが、お葉の家よりもずっと早くに没落しているのだ。
途方に暮れた末に、京助は小袖を行李(*)にしまいこんだ。
――死んじまったら、それで終わりだな。
だから、お葉と同じ妓楼にいた――お葉の小袖を押しつけるように渡してきた女たちの言葉を、京助は信じていなかった。
小袖から白い腕が生えて、手招きする――などと、馬鹿げている。
江戸の世の化物は、面白おかしく〈描かれるモノ〉だ。化物が何らかの吉凶を示すと考えられたのは、一昔前のことだ。
「……今日だけだ」
京助は呟いた。無為な時間を過ごすのは、今日だけ。明日からは、また仕事漬けの日々だ。
愛しい者を喪おうが、時は容赦なく廻る。遺品を抱きかかえたまま、時を止めることは許されないのだ。
顔を上げた京助の視線の先には、一族所縁の、漆塗りの鏡台があった。金箔の蒔絵が豪奢で、在りし日の栄華が偲ばれる。
他には、櫛や印籠も――。
この部屋は故人の遺したものばかりだと、乾いた笑みが零れる。
再び俯きかけた京助の気を引いたのは、カリカリとか細い物音だった。
何かを――爪で引っ掻くような音だ。
外の音ではない。
部屋の中から――《《行李の内側から》》聞こえるのだ。
鏡越しに、京助は行李の蓋がゆっくりと動くのを見た。
――早く、閉めねえと……中から、出てきちまう……。
そう思うのだが、体が動かない。
わずかに見えた隙間から、小袖と共に、白い腕がずるりと這いだした。
たまらずに、振り返る。
そこには、何もなかった。行李も開いていない。京助はふらりと立ち上がって、行李のなかを改めた。
柄にばかり気をとられていたが、一点、気になる所があった。
縫い目だ。うまく縫い合わせて誤魔化しているようだが、この布は――まるで、刀で袈裟懸け(*)に切られたようだった。
背筋がぞくりとする。
――お葉は……病ではなく、斬り殺された?
小袖を握り締めたとたん、外から京助を呼ぶ声がした。
――――
*小袖:袖口が狭い着物
*地本問屋:江戸で浮世絵や草双紙などの大衆的な娯楽出版物を企画、制作、販売した版元。
*行李:衣類などの収納に使われた入れ物
*袈裟懸けに斬る:肩から斜めに斬ること




