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【第一部・完結】幽世庵モノガタリ ~化物絵師と鵺~【幕末妖かしバディ】  作者: Yumiko
第一部・呪物編

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序幕――鵺


 

 ――弱い代わりに、いつまでも降り続きそうな雨だった。




 春先の細雨さいうが、茅葺かやぶきいおりを柔らかく打つ。


 早朝に目を覚ました愁水しゅうすいは、雨音に誘われて縁側に出た。境内を囲む竹林と、庭に植えた絵具の材となる草花の匂いが、雨に濡れて一層強く立ちこめている。


 銀糸のような雨を眺めていると、背後で衣擦きぬずれの音がした。


 この化物の気配は、雨よりも冷ややかだ。


「――愁水」


 名を呼ばれて、愁水は振り返った。


 そこにいたのは、禍々《まがまが》しいほど美しい、中性的な見目をした若い男。けれどその本性は、平安の世から存在する大妖たいようの――ぬえだ。


 そして、いまはました顔をして、神主に化けている。


「〈客〉が来ている。通すか?」


 愁水は短く返答して、再び庭に目をった。


 愁水が〈嗣巳つぐみ〉と名づけた鵺に出会ったのも、こんなふうに陰気な雨の日だった。




 気がつくと、愁水は死人のような白装束姿で、汚泥のなかに立ちつくしていた。比喩ではなく、周囲は倒木と瓦礫がれきの山で、巨石に守られたらしいやしろだけが、かろうじて残っていた。


 山間の城下町が一夜にして崩壊し、地図からも人の記憶からも消え去った――と知ったのは、後日のことだ。


 倒壊した鳥居のそばには、双子の妹が同じ白装束で、うつ伏せに倒れていた。妹は、腕に何か――丸みのある、小さな生き物を大事そうに抱いていた。


 狸かと思ったが、違った。


 虎模様の太い四肢に、異様に鋭い爪、蛇のようにうねる二又の尾――。


「鵺か……?」


 思わず腰にやった手が、虚しく空をつかむ。


 ――何を、握ろうとした?


 愁水は、その手を呆然と見つめ――足場が崩れるような感覚に、総毛立った。


 倒れているのは双子の妹だとわかるのに、妹の名が思い出せない。脳裏には妹の明るい笑顔が焼きついており、自分にとって大事な存在だということはわかる。


 しかし、自分たちがどんな兄妹だったのか――どんな会話を交わしていたのか、まるで思い出せなかった。


 鵺という言葉一つとっても、その名をどこで知ったのかと考えると、もやがかかったように記憶が像を結ばない。


 それどころか、己自身の名も、気を失う前の行動も――。


 ――いや、考えても仕方ねえな。とにかく、この化物を引き離さねえと。


 愁水は鵺の首根っこを掴んだが、手のなかでぐにゃりと潰れてしまいそうな頼りない感触にひるんで、すぐに手を放した。


 こうも弱った姿を見せられると、これは庇護してやるべきモノだと認識してしまう。


 ――まずは、雨をしのげる場所まで運ぶか。飯は……その辺の野草でいいだろ。


 まとめて面倒を見る覚悟を決めたとたん、鵺らしき化物はふっと煙のようにき消えて、入れ替わるようにして妹が目を覚ました。


「おい、大丈夫か?」


「……愁水?」


 そう呼ばれてやっと、愁水は自分の名を思い出したのだが。


 己を見上げる縦長の瞳孔に、愁水は凍りついた。


 それは、獣の目だった。


 しかし、浮かべている表情は怜悧れいりで皮肉っぽく、知性を感じさせる。その落差が、本能的な危機感を呼び起こす。〈これ〉は、妹ではない、と。


「お前は……なんだ? 俺の妹に取り憑いたのか?」


「――なんだ、だと? 私を人間の器に封じたのは、お前たちだろう。それとも、都合の悪いことは〈また〉忘れてしまったか?」


 若い娘の姿には似つかわしくない、冷え冷えとした低い声音。獲物に飛びかかる寸前の、凶暴な獣と対峙たいじするような緊張感に、肝が冷える。


 しかし生来の負けん気が勝り、愁水は反対に食ってかかった。


「都合どころか、何も思い出せねえよ。お前が何かしたんじゃないのか? ここはどこだ? なんで、何もかも壊れちまってるんだ?」


「……本当に、覚えていないのか」


 いくつかの問いかけのあと、鵺は深いため息をつき――懐から筆を取り出して、愁水の手に放り投げた。


 そのまま持っていろと告げて、鵺は鋭利な爪で自身の腕の皮膚をすっと切り、筆に血を落とす。


 赤黒く、にごった血の色だった。とても人間の血とは思えないような。


 その身体を傷つけるな、と愁水が噛みつけば、


「身体を返してほしければ、その筆に化物の力を吸わせることだ。魔の筆として完成させたときには――望みを叶えてやろう」


 文字通り、人を喰いかねない剣呑けんのんな笑みを浮かべながら、鵺は笑ってそう言った。


 筆と妹の身体に、何の関係があるというのか。


 浮かんでくる数々の疑問を頭の隅に追いやって、愁水は筆を握りしめた。


 胡散うさん臭い、と思いながら、それでも話を聞く気になったのは、傷つき弱った姿を見ていたからかもしれない。妹が大事そうに鵺を抱えていたことも、気にかかった。


 もちろん、他に選択肢もなかったのだが。


「……いいぜ、やってやる。約束は守れよ。それで、どうやって化物の力とやらを吸わせるんだ?」


「単純だ。数多の化物を、その筆で描け。絵は得意だろう? その筆からは、お前の匂いがする」


 ——絵が得意?


 それも思い出せなかったが、筆はたしかに、愁水の手に馴染むようだった。


「さあな。だがまあ、下手でもなんでも、やってやるよ。ただし、俺のほうも条件がある」


「度胸があるな。なんだ?」


「他の姿に化けられるなら、そうしてくれ」


「……若い娘のほうが、祓い屋の目を欺きやすくて助かるんだが」


 愁水が睨むと、鵺はやれやれと言いたげに嘆息してから、おもむろに袖で顔を隠した。


「器は別として、私が化けられるのはこれだけだ。……文句は言うなよ」


 愁水の物言いたげな様子を察して、鵺が釘を刺した。


 現れたのは中性的で涼しげな美貌の、総髪そうはつの青年だった。異邦人に間違えられる類いではないが、顔立ちも整いすぎると化物じみてくる。


 これでは、目立って仕方がない。かさでも被らせようかと思案したところで、追い打ちがきた。


「さて、まずは都を目指すぞ」


「都って、江戸か? それとも京? なんで、わざわざ……」


「江戸だ。諸国から、素性のわからん人間が大勢集まる地だからな。……知っているか? 化物は、人のいないところには現れない」


「どういう意味だ?」


 愁水の問いに、鵺は「いずれわかる」とだけ答えて、薄く笑った。


 その時、愁水は胡散うさん臭さの正体に気がついた。諦念ていねんを感じさせる、無味乾燥な笑み――面白いことなど何もないのに、無理に笑っているのだ。


 ――気に食わねえな。


 とにかく、そう思った。


 それが愁水の覚えているかぎり、最も古い――〈最初の記憶〉というものだった。




「――愁水、寝惚ねぼけるな」


 鵺――嗣巳つぐみが、呆れたように声をかけてくる。


 神主の白装束に紫袴をまとった嗣巳つぐみの姿は、なかなか様になっている。


 とはいえ、人間離れした端整な容姿で無駄に愛想を振り撒くため、日本橋の辺りでは若い娘を中心に、ちょっとした騒ぎになっている。


 無暗に出歩くなと文句を言えば、今度は愁水の目を盗んで、妹の姿で食道楽を謳歌おうかする始末だ。


 男女どちらの姿も取れるというのが、性質たちの悪さに拍車をかけていた。


 妹は童顔のはずだが、人間の顔というものは表情一つで印象が変わるらしく、妖艶な笑みを浮かべた〈鬼のように美しい娘〉の噂話が、最近になって一人歩きを始めている。


「寝惚けてねえよ」


 愁水は濃紺の着流しにそでを通し、黒羽織を無造作に肩にかけて欠伸をした。


 こんなふうに、まだ霧深い早朝、あるいは黄昏たそがれ時に人目を避けるようにして訪れる客は、平凡な絵の依頼者ではないと決まっている。


 予想通り、切羽せっぱまったように「化物を退治してくれ!」と客が訴えかけてくるのを、愁水はすごんで黙らせた。


「――いいか、俺ははらい屋じゃねえ」


 客は口ごもりながら、けれど、と恐る恐る反論する。


 けれど、貴方は〈化物封じの絵師〉なのでしょう、と。


「封じるんじゃねえ、絵に宿らせるんだ。のねえモノにしろを提供するってことだ。それが分かったら、二度と――」


「さて、それではお話を伺いましょう」


 嗣巳がつと手を伸ばして、愁水の口を背後からふさいでしまう。茶番のような毎度のやり取りを、江戸に居を構えてからのこの一ヵ月、飽きもせずに繰り返してきた。


 幸い、〈こちら〉の客――化物絡みの依頼には困らなかった。化物が納涼のうりょうのお遊びとなったいまでも――いや、だからこそ、化物騒動には事欠かないのだ。


 江戸に行こう、と言い出した嗣巳は、あの後こうも言った。人の集まる場で怪異の引き起こす騒動を追っていれば、いつか〈目的のモノ〉にたどり着ける、と。


 けれど、愁水の目的は、嗣巳の思うそれとは恐らく違う。


「……化物贔屓(びいき)


 正式に依頼者となった客が、恨みがましくこっそりと呟いた言葉を聞きつけて、愁水は唇の端に鋭い笑みを刻んだ。



 ここ、鵺代神社の一角にある庵は、俗世と切り離されたような佇まいと主の家業の奇体きたいさから、近隣では〈幽世庵(かくりよあん)〉と呼ばれている。



 これは化物が〈隣人〉で在り得た、最後の時代のモノガタリ―—。




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