序幕――鵺
――弱い代わりに、いつまでも降り続きそうな雨だった。
*
春先の細雨が、茅葺の庵を柔らかく打つ。
早朝に目を覚ました愁水は、雨音に誘われて縁側に出た。境内を囲む竹林と、庭に植えた絵具の材となる草花の匂いが、雨に濡れて一層強く立ちこめている。
銀糸のような雨を眺めていると、背後で衣擦れの音がした。
この化物の気配は、雨よりも冷ややかだ。
「――愁水」
名を呼ばれて、愁水は振り返った。
そこにいたのは、禍々《まがまが》しいほど美しい、中性的な見目をした若い男。けれどその本性は、平安の世から存在する大妖の――鵺だ。
そして、いまは澄ました顔をして、神主に化けている。
「〈客〉が来ている。通すか?」
愁水は短く返答して、再び庭に目を遣った。
愁水が〈嗣巳〉と名づけた鵺に出会ったのも、こんなふうに陰気な雨の日だった。
*
気がつくと、愁水は死人のような白装束姿で、汚泥のなかに立ちつくしていた。比喩ではなく、周囲は倒木と瓦礫の山で、巨石に守られたらしい社だけが、かろうじて残っていた。
山間の城下町が一夜にして崩壊し、地図からも人の記憶からも消え去った――と知ったのは、後日のことだ。
倒壊した鳥居のそばには、双子の妹が同じ白装束で、うつ伏せに倒れていた。妹は、腕に何か――丸みのある、小さな生き物を大事そうに抱いていた。
狸かと思ったが、違った。
虎模様の太い四肢に、異様に鋭い爪、蛇のようにうねる二又の尾――。
「鵺か……?」
思わず腰にやった手が、虚しく空を掴む。
――何を、握ろうとした?
愁水は、その手を呆然と見つめ――足場が崩れるような感覚に、総毛立った。
倒れているのは双子の妹だとわかるのに、妹の名が思い出せない。脳裏には妹の明るい笑顔が焼きついており、自分にとって大事な存在だということはわかる。
しかし、自分たちがどんな兄妹だったのか――どんな会話を交わしていたのか、まるで思い出せなかった。
鵺という言葉一つとっても、その名をどこで知ったのかと考えると、靄がかかったように記憶が像を結ばない。
それどころか、己自身の名も、気を失う前の行動も――。
――いや、考えても仕方ねえな。とにかく、この化物を引き離さねえと。
愁水は鵺の首根っこを掴んだが、手のなかでぐにゃりと潰れてしまいそうな頼りない感触に怯んで、すぐに手を放した。
こうも弱った姿を見せられると、これは庇護してやるべきモノだと認識してしまう。
――まずは、雨を凌げる場所まで運ぶか。飯は……その辺の野草でいいだろ。
まとめて面倒を見る覚悟を決めたとたん、鵺らしき化物はふっと煙のように掻き消えて、入れ替わるようにして妹が目を覚ました。
「おい、大丈夫か?」
「……愁水?」
そう呼ばれてやっと、愁水は自分の名を思い出したのだが。
己を見上げる縦長の瞳孔に、愁水は凍りついた。
それは、獣の目だった。
しかし、浮かべている表情は怜悧で皮肉っぽく、知性を感じさせる。その落差が、本能的な危機感を呼び起こす。〈これ〉は、妹ではない、と。
「お前は……なんだ? 俺の妹に取り憑いたのか?」
「――なんだ、だと? 私を人間の器に封じたのは、お前たちだろう。それとも、都合の悪いことは〈また〉忘れてしまったか?」
若い娘の姿には似つかわしくない、冷え冷えとした低い声音。獲物に飛びかかる寸前の、凶暴な獣と対峙するような緊張感に、肝が冷える。
しかし生来の負けん気が勝り、愁水は反対に食ってかかった。
「都合どころか、何も思い出せねえよ。お前が何かしたんじゃないのか? ここはどこだ? なんで、何もかも壊れちまってるんだ?」
「……本当に、覚えていないのか」
いくつかの問いかけのあと、鵺は深いため息をつき――懐から筆を取り出して、愁水の手に放り投げた。
そのまま持っていろと告げて、鵺は鋭利な爪で自身の腕の皮膚をすっと切り、筆に血を落とす。
赤黒く、濁った血の色だった。とても人間の血とは思えないような。
その身体を傷つけるな、と愁水が噛みつけば、
「身体を返してほしければ、その筆に化物の力を吸わせることだ。魔の筆として完成させたときには――望みを叶えてやろう」
文字通り、人を喰いかねない剣呑な笑みを浮かべながら、鵺は笑ってそう言った。
筆と妹の身体に、何の関係があるというのか。
浮かんでくる数々の疑問を頭の隅に追いやって、愁水は筆を握りしめた。
胡散臭い、と思いながら、それでも話を聞く気になったのは、傷つき弱った姿を見ていたからかもしれない。妹が大事そうに鵺を抱えていたことも、気にかかった。
もちろん、他に選択肢もなかったのだが。
「……いいぜ、やってやる。約束は守れよ。それで、どうやって化物の力とやらを吸わせるんだ?」
「単純だ。数多の化物を、その筆で描け。絵は得意だろう? その筆からは、お前の匂いがする」
——絵が得意?
それも思い出せなかったが、筆はたしかに、愁水の手に馴染むようだった。
「さあな。だがまあ、下手でもなんでも、やってやるよ。ただし、俺のほうも条件がある」
「度胸があるな。なんだ?」
「他の姿に化けられるなら、そうしてくれ」
「……若い娘のほうが、祓い屋の目を欺きやすくて助かるんだが」
愁水が睨むと、鵺はやれやれと言いたげに嘆息してから、おもむろに袖で顔を隠した。
「器は別として、私が化けられるのはこれだけだ。……文句は言うなよ」
愁水の物言いたげな様子を察して、鵺が釘を刺した。
現れたのは中性的で涼しげな美貌の、総髪の青年だった。異邦人に間違えられる類いではないが、顔立ちも整いすぎると化物じみてくる。
これでは、目立って仕方がない。笠でも被らせようかと思案したところで、追い打ちがきた。
「さて、まずは都を目指すぞ」
「都って、江戸か? それとも京? なんで、わざわざ……」
「江戸だ。諸国から、素性のわからん人間が大勢集まる地だからな。……知っているか? 化物は、人のいないところには現れない」
「どういう意味だ?」
愁水の問いに、鵺は「いずれわかる」とだけ答えて、薄く笑った。
その時、愁水は胡散臭さの正体に気がついた。諦念を感じさせる、無味乾燥な笑み――面白いことなど何もないのに、無理に笑っているのだ。
――気に食わねえな。
とにかく、そう思った。
それが愁水の覚えているかぎり、最も古い――〈最初の記憶〉というものだった。
*
「――愁水、寝惚けるな」
鵺――嗣巳が、呆れたように声をかけてくる。
神主の白装束に紫袴を纏った嗣巳の姿は、なかなか様になっている。
とはいえ、人間離れした端整な容姿で無駄に愛想を振り撒くため、日本橋の辺りでは若い娘を中心に、ちょっとした騒ぎになっている。
無暗に出歩くなと文句を言えば、今度は愁水の目を盗んで、妹の姿で食道楽を謳歌する始末だ。
男女どちらの姿も取れるというのが、性質の悪さに拍車をかけていた。
妹は童顔のはずだが、人間の顔というものは表情一つで印象が変わるらしく、妖艶な笑みを浮かべた〈鬼のように美しい娘〉の噂話が、最近になって一人歩きを始めている。
「寝惚けてねえよ」
愁水は濃紺の着流しに袖を通し、黒羽織を無造作に肩にかけて欠伸をした。
こんなふうに、まだ霧深い早朝、あるいは黄昏時に人目を避けるようにして訪れる客は、平凡な絵の依頼者ではないと決まっている。
予想通り、切羽詰まったように「化物を退治してくれ!」と客が訴えかけてくるのを、愁水は凄んで黙らせた。
「――いいか、俺は祓い屋じゃねえ」
客は口ごもりながら、けれど、と恐る恐る反論する。
けれど、貴方は〈化物封じの絵師〉なのでしょう、と。
「封じるんじゃねえ、絵に宿らせるんだ。寄る辺のねえモノに依り代を提供するってことだ。それが分かったら、二度と――」
「さて、それではお話を伺いましょう」
嗣巳がつと手を伸ばして、愁水の口を背後からふさいでしまう。茶番のような毎度のやり取りを、江戸に居を構えてからのこの一ヵ月、飽きもせずに繰り返してきた。
幸い、〈こちら〉の客――化物絡みの依頼には困らなかった。化物が納涼のお遊びとなったいまでも――いや、だからこそ、化物騒動には事欠かないのだ。
江戸に行こう、と言い出した嗣巳は、あの後こうも言った。人の集まる場で怪異の引き起こす騒動を追っていれば、いつか〈目的のモノ〉にたどり着ける、と。
けれど、愁水の目的は、嗣巳の思うそれとは恐らく違う。
「……化物贔屓」
正式に依頼者となった客が、恨みがましくこっそりと呟いた言葉を聞きつけて、愁水は唇の端に鋭い笑みを刻んだ。
ここ、鵺代神社の一角にある庵は、俗世と切り離されたような佇まいと主の家業の奇体さから、近隣では〈幽世庵〉と呼ばれている。
これは化物が〈隣人〉で在り得た、最後の時代のモノガタリ―—。




