夢見草(3)
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そろそろ帰りたいんだが、と桜の花妖に掛け合うと、花妖は企み顔で笑った。
「うちのこと綺麗に《《描き直して》》くれはったら、帰らしたらんこともない。……どないしはる?」
そう言って己は姿を消し、花妖の立っていた場所には筆と紙、絵具類が揃って残された。
夢を視ているのか、そうでないのか。
女の顔は目に焼きついているが、例えば着物の柄が全く思い出せず、愁水は中空で徒に筆を遊ばせた。
「……閉じ込める気満々じゃねえか」
愁水はぼやいたが、その声に毒気が足りないという自覚はあった。
明確な悪意であれば対処の仕様もあるが、この花妖はなぜか愁水を待ちわびていたようで、強く突き放すのも躊躇われる。
ともかく、と桜の古木や仙郷の山々、楼閣といった背景を先に描いていると、見知らぬ男が愁水の名を呼んだ。
狩衣姿の、三十半ば程の男だ。公家かと思ったが、それにしては纏う空気が鋭く、立ち姿にも隙がない。
「……あんた、誰だ?」
つい声に険が宿り、きまりが悪くなる。しかし顔を見ると、どうも気に食わなかった。
柔和な笑みを浮かべているものの、目の奥が笑っていない。一言で言ってしまえば――胡散臭いのだ。
「私は朧という。もっとも、通り名のようなものだけれどね」
「俺を知っているのか?」
「知っているとも。化物絵師、と呼ばれているだろう。雪華も名うての絵師だったが、君はもっと高みを目指せるはずだ。《《雑事》》に囚われず、この先も精進するといい」
朧と名乗る男は、優美に笑ってみせた。
平安の貴族のようだと思ったのは、狩衣姿に整った目鼻立ちのためか、それとも――権謀術数に長けた者に特有の、煙に巻くような話術のためだろうか。
「高み、な。その根拠はなんだ?」
「雪華は色恋に囚われ、似たようなものしか描けなくなった。君は違うだろう。哀れみと情を示すことはあっても、一人の人間に固執することはない。……違うか?」
思わず舌打ちが出た。花妖よりよほど、化物じみている。朧という名にも、妙に納得するものがあった。朧月夜のように、掴み所のない男だ。
「絵を見ただけで、そこまでわかるもんか?」
「さてね。私がそう思っただけだから。気を悪くしたなら詫びよう。なにせ、絵に詳しいわけではないのでね。〈依頼主〉に託されたこの絵も、何を描いたのかさっぱりだ」
男が手に持っていた掛け軸を、ひらひらと揺らしてみせた。
背景の濃淡の使い分けや輪郭線から雪華の作とわかるが、こんな〈遊び心〉のあるものも描けたのかと、意表をつかれた。
「そりゃ、〈鞘絵〉じゃねえか」
「鞘絵とは?」
「貸してみろ」
朧と名乗る男から掛け軸を受け取った愁水は、濡れ縁の床に絵を広げ、脇差を抜いた。
朧が興味深そうに、愁水の手元を覗き込んでくる。
「絵を斬るのか?」
「まさか」
そう応じながら、愁水は横目で朧を観察する。
驚かせようと思ったわけではないが、刃物に慣れていなさそうな風貌の割に、刀身に顔を近づけることに躊躇いはないらしい。
依頼主、という言葉から、人間であることは確かなのだが――。
「用があるのは鞘のほうだ。黒蝋塗の鞘の湾曲面に絵を写すと、平たく描いてある絵が正しく見えるだろ。和蘭伝来の写し絵ってやつだ」
「ああ、鞘写しの絵というわけか」
鞘に写して見れば、女の着物の柄がよく見えた。
愁水がどうしても思い出せなかった、花妖の着物の柄は――。
「流水に花筏か。和歌は……これじゃ、読めねえな」
和歌の鏡文字も反転しているが、焼けなどの損傷のせいで判然とせず、愁水は前髪を掻き乱した。
柄がわかっても、意匠に秘められた意味を見抜けなければ、花妖の望む通りに描くことはできない。
散った桜は儚さを表すが、水面で筏のように流れていく花弁は違う。
「散ってもなお美しい、か……?」
絵師が男なら、女への賛美とわかるのだが。
「――あるいは、希望かな。門出とも言うのだろうが」
「希望?」
愁水が聞き返すと、朧は皮肉げに笑った。見方によっては、痛みを堪えるように見えたかもしれない。何にせよ、人間味のある表情には違いなかった。
「過去の終わりが、新しい始まりへと繋がる……雪華からの言祝ぎだろう」
そう言いつつ、朧自身が腑に落ちていない顔だった。
愁水も何となくだが、違うだろうという気がしている。
雪華が言いたくても、言えなかったこと。
最期まで心残りにしていたことは――。
「――娘がいると、相手に伝えたかったんじゃねえか」
「うん?」
「雪華には娘がいる。孫娘もな。――流水紋だ。縁は続いているって言いたかったんじゃねえか?」
流水は、途切れることがない。意匠に用いるとすれば、それは縁や幸が続いていくことを意味するものだ。
「なるほど。依頼主は絵が怪事を起こすのは理由あってのことだろうと、雪華を酷く案じていたよ。雪華は――?」
「この春先に亡くなった」
「そうか。だが、君のおかげで吉報も伝えられるな。礼を言う」
「礼はいらねえよ。俺もここから出られなくて、困っていたからな。着物の柄がわかりゃ、何とかなる」
「……依頼主は公家だ。絵の修復、君が請け負うか?」
ふと、朧が思いついたように言った。何故こちらを気にかけるのかと疑問に思ったが、それならばと、一つ頼むことにした。
「雪華の娘も絵師だ。修復なら、娘に頼んでやってくれ」
愁水は懐の短冊に娘の住む長屋の場所を書き、朧に手渡した。
「わかった。任されよう。――さて、君もそろそろ帰れるようだ」
朧が愁水の背後に目をやり、苦笑して言った。
振り返れば、花妖があるものを抱えて、愁水の背後に立っていた。
――虎の足だった。




