夢見草(2)
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生暖かい春の風に、葉桜が揺れている。
花見などする気もないが、散り際の儚さは知己の女と重なるようで、つい見入っていた。
「――ご当主様?」
真澄に呼ばれ、朧はうっすらと笑みを浮かべて振り返った。
人の機微に聡い真澄は、それだけで萎縮してしまったようだ。
感情が揺れるとき――とりわけ不愉快なとき、反射的に笑うのが癖になっている。何でもないと答えて、朧は歩を進めた。
「土御門様、どうぞこちらへ」
御門に立っていた下人に案内され、朧は昼間でも薄暗い邸内を歩きながら、庭に目を向けた。
桜の古木は見事だが、狭い庭だった。もっとも、この辺りの公家屋敷はどこも小さく、奉公人も少ない。
これならば商家のほうが豪勢な暮らしぶりだろうと考えていたところへ、朧の〈依頼主〉が姿を見せた。
齢は五十前後。心労からやつれてはいるが、公家らしく風雅な佇まいで、その手には掛け軸があった。
「これが、そなたに見てもらいたい絵や」
――異様な気配。
朧は表情を変えないまま、心中ではこれは厄介だと嘆息を漏らしていた。
鮮やかな赤い着物から、かろうじて女を描いたものであるとわかるのだが、縦に小さく横に長い――その奇妙な等身の意味は、全くわからなかった。
添えられた文字にいたっては左右反転しており、和歌なのか判別もつかない。
これは、と尋ねてみたが、依頼主にも何を描いたものかはわからないと言う。
「文にも書きましたやろ。男は正気を失のうて、女は切られると。私には障りがないよって、いつからこうなったんかは分からしまへん」
物騒な怪事があったと訴える割に、掛け軸に向ける眼差しは何かを切望するように熱く、厭う様子はない。
「雪華――この絵師に、何かあらしゃりましたんと違いますか」
成る程、そういうことかと合点がいった。
かつてこの京の地で、〈稀代の女絵師〉雪華に鵺の一部――虎の足を渡したのは、他ならぬ朧自身だ。
鵺の血から生成した朱色、血朱で描いた絵は強力な魔除けとなり、京では未だ多くの信奉者がある。
京では鵺を神として信仰させ、江戸では恐怖の象徴として根付かせる。今のところ、朧の半生をかけた計画は順調に進んでおり、鵺は随分と力をつけた。
武将に討たれたときとは、比べものにならぬほど。
ただ自作自演の怪事に難点があるとすれば、事が起きた後、処理するのが朧自身である点だった。
土御門家を掌握し、己が当主の座に収まったときから覚悟はしていたが――公家と江戸幕府、双方の要請に応じて京と江戸を行き来する間にこうも雑事が積み重なると、辟易させられるものだ。
「絵が損傷しておりますね。腕の良い絵師に修繕を頼むとよろしいでしょう。雪華殿の消息は……この場で霊視いたしますか?」
頼む、と乞われ、真澄に場を整えさせて霊視を試みる。
雪華という絵師の名は、朧もよく覚えていた。なにせ貸してやった虎の足を〈消失〉したと言うのだから、忘れようはずもない。
もちろん、術者でもない雪華があれをどうにかできるとは思っていない。傍に居た誰か、あるいは何かが、〈どこか〉に鵺の一部を封じたのだと踏んでいる。
鵺の体は他にもあったため、長らく捨て置いていたが――やはり、巡り合わせというものがあるのだろう。
掛け軸を受け取り、朧は目を眇めた。女の背後に描かれた桜、仙郷に佇む楼閣。
異様な気配がすると思えば、絵は常世――異界に繋がっていた。
――花妖か。
それも、齢を経た桜の大木の仕業に違いなかった。
「朧様、私が――」
真澄が一歩近づくなり、風が空を切る音がした。咄嗟に印を結び、結界を張った真澄は無傷だったが、狩衣の袖が切れている。
鎌鼬以上に素早く、容赦がない。
依頼主は瞬刻の攻防に青ざめており、朧は二人に退席を促して、改めて掛け軸に向き直った。
多少手間取るが、意識を画中に飛ばすしかない。敵の多い朧は念入りに結界を張り、印を結んで目を閉じた。
瞬きの間に、景色が変わる。
仙郷を思わせる山々に朱塗りの楼閣、一本だけ咲く満開の桜。
その木の下に、背の高い男が絵筆を持って立っていた。
顔の造形そのものは似ていないが、桜を見上げる横顔が、真剣な眼差しが、朧に郷里の巫女を思い出させた。
「……愁水?」
名を呼ぶと、男がこちらを振り返って目を細めた。鋭い眼差しで、朧を射抜くように。
朧の術で記憶を封じているはずだが、愁水のその目は、朧の行いを見透かしているようにも見えた。




