夢見草(1)
桜は、夢見草。夢のように朧げで、儚いもので――。
*
依頼の肉筆画を届けた帰り道、向島に立ち寄った愁水は、満開の桜を前に足を止めた。
茅葺屋根の質素な家の庭に、桜の古木が一本。春霞が立ち込める昼空はぼんやりと曖昧な白藍で、花弁が舞い散る様は夢のように淡く美しく、どこか現実味に欠けている。
江戸随一と言われる隅田川の桜は既に盛りを終えており、周囲には花見客も屋形舟も見当たらない。
愁水は手近にあった榎に登り、懐から矢立と紙を出して桜の模写を始めた。
束の間肩から力が抜けて、ここ数日――山村で土地神を描いてからというもの、ずっと気を張っていたのだと遅れて気がついた。
――なぜ、土地神様を解放してくださらなかったのですか。
山村を出る間際、狛虎たちの嘆く声を、愁水だけが聞いていた。その声に、愁水は返す言葉がなかった。
いくら手酷く利用されようとも、あの土地神は村の人間たちの傍らに留まることを望んだ。けれど狛虎から見れば、それは不幸せな結末だったのだろう。
乞われるまま描くことで、力のないモノを救った気でいたのは、愁水の罪かもしれなかった。
もちろん、聖人君子でありたいとは微塵も思わないが――。
「――どなたか、そこにいらっしゃるの?」
と、桜の下から不意に声をかけられた。四十代の母とその娘らしき女が、二人そろって面白がるように愁水を見上げている。
「ああ、すまねえな。お宅の桜があんまり綺麗だったもんで、描かせてもらっていた。終わったらすぐ帰るから――」
「あら、貴方もお描きになるの?」
そう遮ったのは、母親のほうだ。
「貴方も、ってことは、あんたが雪華先生か――?」
ここで愁水はある期待をもって、高名な女絵師の名を挙げた。
向島に立ち寄ったのは、実を言うと、この絵師に会えないだろうかと考えたからだった。
雪華の絵には、魂が宿る。描かれたモノは、自由に絵を出入りする――。
その噂が本当であれば、愁水は問いたいことがあった。
「ええ、私が雪華ですよ。貴方、折角ですから茶菓子をおあがりなさいな。うちの桜は、庭から眺めるのが一番美しいのよ」
無用心だとは思ったが、願ってもない申し出だった。愁水は木の上から飛び降り、女絵師と娘の後について行った。
「――光栄だけれど、私には化物を視たり、まして使役したりするような特別な力はありませんよ。ただ……」
雪華はそう言って微笑み、流水紋の落雁を口に含んだ。
落胆するところなのだろうが、愁水は茶を啜り、黙って話の続きを待っていた。
「ただ時折、この桜は私に話しかけているんじゃないかと思うことはありますよ」
雪のように白い桜の花弁が、風に散って縁側に積もっている。枝が揺れる様は、肯定して頷いているようだ。
「そう思うようになったのは、この絵を描いてからなの」
部屋を出た雪華が、掛け軸を持って戻ってきた。
背景を黒で塗り潰した漆黒の闇に、中空に浮かぶ樹木が枝を伸ばして桜を散らしている。
画中で微笑む女は、桜を見ているようでもあり、闇のなかに〈何か〉を見いだそうとしているようでもある。
女が凭れている欄干付きの濡れ縁は王朝趣味を思わせるが、実際に見て描いたような、細微な描写が目を惹いた。
「若い頃に描いたものよ。昼と夜、二枚の揃物でね」
当時の年齢を聞けば、愁水よりもいくらか若く、胸の内で微かに蠢くものがあった。既に老成の域に達した作を前にして、その才覚に苦笑するしかない。
細微な描写もそうだが、何より、春の夜の湿気を含んでいそうな空気感や、女の息遣いの伝わる濃淡の表現が卓越している。
そして、愁水には決して描けない、女の表情。
この表情は――。
「私ね、このとき京の都にいて、懸想していたのよ。お相手はお公家様。身の程知らずでしょう?」
ふふ、と軽やかに笑う雪華は、妙齢の娘のようだった。
自分には描けないはずだと、納得した。記憶の抜け落ちているせいか、それとも元来そういう性分なのか、愁水は誰かに固執する気持ちがわからない。
ふと顔を上げれば、絵の女と、愁水の目の前に座る雪華の娘は、目鼻立ちや輪郭がよく似ていた。
「――艶麗だ。桜も、女も」
つい、娘の顔を観察しながら言ったせいか、雪華の娘が照れたように袖で口元を覆った。
誤解を招くような言い回しをするなと、つい最近も嗣巳に小言を言われたところだが――この類いは、お互い様だろう。
「あの桜は、お公家様の庭の桜から頂いた挿し木なのよ。絵の褒美として、ね」
「そんなら揃物のもう一枚は、そのお公家さんの元にあるんだな」
「ええ。それさえ持っていてくれれば、もう、逢えなくてもいいと思ったのよ。けれど……」
愁水は眼差しで続きを促したが、雪華は口を閉ざしたまま、桜を見つめていた。
「――娘のことだけが、心残りだわ」
まるで己の死期を悟ったような物言いに、愁水は眉をひそめた。
「何か、俺に頼みたいことは?」
「……いえ、ないわ」
ありがとう、と雪華が淡く微笑むのを、愁水はもどかしく思いながら見守るしかなかった。
この類いの人間は、差し出された手を取ろうとしない。相手を想い、黙って身を引いてしまうのだ。
その後、雪華と画法について話し込んでいるうちに、気づけば黄昏時になっていた。
見送りを断ったものの、雪華の娘がどうしてもと譲らなかったため、それまで一言も口を利かなかった娘と桜の下で立ち話になった。
「――貴方の桜の絵、うちにも見せておくれやす」
上方言葉に軽く目を瞪り、改めて娘を観察して、愁水は己の誤りに気づいた。先程の話から察するに、雪華の娘にしては、若すぎる。
「あんたは、桜の精……花妖か?」
ふふ、と桃色の小袖を着た娘が淡く笑ってみせる。
乞われるまま絵を見せてやれば、一層笑みを深めて言った。
「ほんまに、綺麗に描いてはるわ。うちの見込んだ通りや」
愁水は、桜の古木と娘とを見比べた。
神代の時代は遍く樹木が言葉を話したというが、江戸の世となっても、齢を重ねたモノは『すべて古木は妖をなす事多し……』と言われるだけあって、その力は神霊に近い。
しかし目の前にいる桜の花妖からは、それらしい神気が感じられなかった。
美しいが、あまり長くなさそうだと勘が働く。
雪華ではなく、この娘のほうが――。
いや、そもそも、稀代の女絵師雪華は、この春先に亡くなったのではなかったか。
雪華には三十過ぎの娘が一人で子を育てており、近くに行くことがあれば、ついでに彼女の様子を見てくれないかと――地本問屋の京助にそう頼まれたから、向島を訪れたのではなかったか――。
ふっと気が遠のきかけた。起きているのか、夢を視ているのかすら、定かではない。
そのとき、雪華の絵に添えられた和歌を唐突に思い出した。
やどりして春の山辺にねたる夜は
夢の内にも花ぞちりける
――宿を取り、春の山辺に泊まった夜は、夢の中でまでも花が散っていたことだ。
「――捕まえた。うちの愛しいひと」
白く細い両腕に抱きすくめられ、愁水は強烈な眩暈に襲われた。




