幕間 化物草紙
――愁水の機嫌が悪い。
嗣巳は茶を飲みながら、愁水の横顔にちらと目を向けた。
山間の村から帰って数日経つが、平生より眉間に皺が寄っているように見える。
もっとも今は、養学家から譲り受けた奉書紙の試し描きに集中しており、真剣そのものだ。
純白の紙に、細緻な牡丹が描かれていく。
「――描き心地はどうだ?」
あえて声をかけてみると、愁水は身を起こして息をついた。呼吸すら忘れていたのではないかと、嗣巳は半ば本気で思う。
「やっぱし、絵の具の発色が良いな。紅が鮮やかで、豪奢に見える」
集中していようが、質問には答える。絵を描いている時でも、嫌な顔をされたことはないのだが。
機嫌が悪いというより、これは――。
「――愁水様は、おられますかっ?」
庵の外から、童の声が愁水を呼んだ。
またか、と思わず顔を見合わせたが、そこにいたのは人間の童だった。
身なりが良く、裕福な商家の子だろうと当たりをつける。すると思った通り、日本橋の呉服屋の倅だと名乗った。
その童は大事そうに、ぐったりとした獣を腕に抱いていた。
「普通の狸に見えるが、化物か?」
「〈豆狸〉だ。家や酒蔵に憑く。悪戯はするが、福をもたらすモノだな」
かつての己と愁水を見ているようで、嗣巳は顔をしかめて言った。愁水のほうも記憶はないはずだが、眉間の皺が増えたようだ。
その何とも言えない表情をどう捉えたのか、童は瞳に涙を浮かべて、豆狸を愁水に押し付けた。
「助けてください……! こいつ、俺がちょっとでも望むと、何でもかんでも叶えてしまうんです。そのせいで、こんなに弱ってしまって……」
「――何だって、自分を犠牲にしちまうんだろうな」
愁水の声に含まれていたのは、憤りだった。不機嫌の正体はこれかと、ふと腑に落ちる。
「いまちょうど、上質な紙があるからそいつに描いてやるよ。上がって待ってな。――嗣巳、落雁がまだあったろ。茶と一緒に出してやれ」
平生通りの言動だが、愁水の表情には〈もどかしさ〉が如実に表れていた。
所詮、絵に宿らせたところで、根本的なことは何も変わらないのだ。人間の望みに、化物は振り回され続ける。
化物を視る力――見鬼を持つ者は年々減っているが、人間は視えないままでも、使えるモノは使い尽くすだろう。
豆狸を描き、その魂を絵に宿してやると、新たな器を得た豆狸は元気に童の周りを駆け出した。
「ありがとうございます、愁水様! うちの呉服屋に是非いらしてください。お礼は必ず――」
「んなもん、いらねえよ。ちょうど試し描きしていたところだったから、気にすんな」
童に満面の笑みで礼を言われても、豆狸を救ったはずの愁水の顔は、どこか浮かない。
――傲慢だな。
嗣巳は心中で嘲ったが、どうしたって視界に入るため、あまり辛気臭い顔をされるのも煩わしい。
庵を出た嗣巳は、舌打ち一つ残して、繁華な通りへと足を向けた。
「――見て、新しい着物を誂えてもらったの」
嗣巳のすぐそばを、妙齢の娘達が袖を揺らして、楽しげに通り過ぎていく。
愁水も愛想は良いが、根は職人気質で気難しい一面もあり、童の頃は常に命を狙われていたこともあって、無邪気に喜ぶ姿というものを見たことがなかった。
童や娘の喜びそうなものは嗣巳にも想像がつくが、大の男となると酒くらいしか思いつかない。それも、下戸である愁水には当てはまらない。
――絵に関する書物か?
そう思い、京助の地本問屋の前で立ち止まったものの、嗣巳にはどれを選んでいいかわからない。
――馬鹿馬鹿しい。放っておいても、己の機嫌くらい、己で取るだろう。
諦めて踵を返そうとしたところで、奥から出て来た京助に呼び止められた。
「よお、嗣巳じゃねえか。珍しいな、今日は一人か?」
最初こそ控えめだった京助だが、庵や軒先で何度か顔を合わせるうち、すぐに嗣巳にも気兼ねなく話しかけてくるようになった。
特に詮索するでもなし、ただ困ったことがあればいつでも言ってくれと豪語する、気風の良さ。
この類いの人間であれば、己の願いで周囲を振り回すこともないのだろう。
「――愁水の気晴らしになるようなものはないか、と探しておりまして」
何も考えずに、嗣巳はついそう溢していた。
京助が意外そうに目を瞪ったが、己の言に一番驚いたのは、嗣巳自身だ。
「あんた、良い奴だな! そうだよな、心配になるよなあ。あいつ、人助けに奔走するくせに、てめえのことには無頓着だもんな。……製作に息詰まってんのか? そうだなあ、そうしたら――」
心配などしていない、と反論したかったが、むきになって言えば童のようだと思い、ぐっと呑み込んだ。
「これなんかどうだ? うちから出たばかりの戯作(*)だが、結構売れてるんだ」
京助に手渡され、頁を捲ってみると真っ先に化物の挿し絵が目に入った。
「化物の話ですか」
「おうよ、化物尽くしだ。化物を描いてもいいと、お許しも出たことだしな。化物退治の話じゃねえから、愁水も気に入るんじゃねえかな」
化物騒動で知り合っただけあって、愁水の好みをよく分かっている。
――滝亭右橘。
著者の名をちらと見て、嗣巳は頷いた。
「では、こちらを頂いていきましょうか」
「まいどっ! 愁水のやつ、喜ぶといいな」
愁水の喜ぶ顔、というものが想像できず、嗣巳は言葉に詰まる。挑発するような不敵な笑みだったり、悪童のような企み顔ならすぐに浮かぶのだが。
言った本人も思い浮かばなかったのか、沈黙が流れた。
「京助んとこの戯作? 俺に買ってきたのか?」
夕餉の後に手渡すと、愁水が礼を言いながらも、怪訝そうな目を向けてくる。
嗣巳自身、性に合わないことをしたという自覚があるため、どうにも決まりが悪い。
「――眉間に皺が寄ってるぞ」
仕方なくそう指摘すれば、やはり、「にやり」としか言いようのない笑みが返ってきた。
「なんだ、心配してくれたのか」
「気色の悪いことを言うな」
大体、それはお前のほうだろうと言いかけて、また言葉を呑み込んだ。
撃たれた場所はとっくに塞がっており、痕すら残っていないというのに、ここ数日は愁水の疑い深く、探るような視線に辟易させられたものだ。
「ま、ありがたく読ませてもらうぜ」
――と、軽い調子で戯作を振ってみせた愁水の元へ、夜更けに用があって訪ねると、愁水は枕を下敷きに、うつ伏せになって戯作を読んでいた。
「愁水?」
呼び掛けてみたが、返事がない。斜めから顔を覗き込んでみれば、愁水は真剣な顔だった。
童のように高揚して、目を輝かせているように見えるのは気のせいだろうか。
嗣巳は己が微笑していることに気付き、密かに狼狽えた。心の底に沈めたはずのものが浮上しかけたような気がして、すかさず蓋をする。
それにしても凄まじい集中力だと、嗣巳は無防備な体勢でいる愁水をつくづくと眺めた。
野生動物並みに警戒心の強い愁水が、こんなに接近しても気付きもしないとは。
笑いを含んだ息を一つ溢して、嗣巳はそっと庵の戸を閉めた。
――――
*戯作:江戸時代中期から明治初期に書かれた町人文学/通俗小説。




