ミシャグジ様(4)
「お前は、村の外で待ってろ――」
その言葉と共に、愁水に注連縄の外へと背を押されたが、嗣巳の体は結界に弾かれた。
「くそっ、出られねえのか!」
愁水が悔しげに吠える。背後からは複数人の追手が迫っており、その怒号から察するに、嗣巳達は養学家当主の襲撃、刀祢家に関しては宝物の盗人として、両家から追われているらしかった。
嗣巳の動きも、目に見えて鈍っている。不本意極まりないが、嗣巳は愁水に肩を借り、岩場の陰、草木の陰に身を潜めながら、夜目の利く鵺の目で周囲を探りつつ、件の崖へと向かっていた。
「耐えろよ、嗣巳。地下牢の場所さえわかりゃ、帰れるからな」
愁水の優しい声音に、嗣巳はぞっとして肩を震わせた。
「そう気遣うな、気色の悪い。本当に弱っているみたいだろうが」
「弱りまくってんじゃねえか、この野郎」
口汚く罵り合いながら、愁水の横顔に安堵の色が浮かんだのを、嗣巳は見逃さなかった。
――心配など、するな。
《《後悔》》するのは、お前なのだから。
いっそそう言ってやれたらと考えて、嗣巳は己を律するように、唇を引き結んだ。
崖に辿り着くと、清一郎のものだという血痕はとっくに雨風で流されていたが、崖下に複数の人間の匂いや気配が感じ取れた。
「木々に隠れて見えないが、滝の裏側に入り口があるはずだ。一旦、降りて――」
愁水と絶壁の下を覗き込んでいたとき、嗣巳の耳が金属音を拾った。
素早く振り返れば、離れた草陰から、銃口がこちらに向くのが見えた。
――猟銃。
愁水が被弾するのは、不味い。
嗣巳は鵺の姿に転じ、愁水の前に飛び出した。
銃声が夜の山に響き、体に衝撃が走る。肩と脇腹が燃えるように熱くなり、次いで全身が急速に冷えていく。
夥しい血が流れているのだろうと、黄金色の毛が赤く濡れそぼるのを横目に、ふらりと崖下へ歩を進めた。
「――嗣巳!」
茂みに身を隠せ、と視線で合図したというのに、落下する刹那、愁水が己を追って飛び降りる姿が、目に飛び込んできた。
――やはり、救いようのない馬鹿だ。
嗣巳は諦めて、目を閉じた。
額に乗せられた、冷たい布が心地好かった。僅かに顔を傾ければ、頬に柔らかなものが当たる。
愁水の羽織を枕に、嗣巳は洞穴らしき暗がりで、茣蓙の上に横たわっていた。
ご丁寧に、道中合羽(*)まで掛けられている。肩と脇腹には木綿の布が何重にも巻かれており、しっかりと止血が施されていた。
こちらを向いている愁水の広い背中に、己自身で器用に傷の手当てをする小さな背中が、不意に重なった。
当時まだ元服していなかった愁水は既に傷だらけで、今も背中に残る太刀傷は、その頃に受けたものだった。
「――起きたのか。水、飲むだろ?」
振り返った愁水が、嗣巳の口元に竹筒を寄せて傾けた。こんなふうに妹の看病をする愁水の姿も、〈あの頃〉はよく見かけたものだった。
「……お前、行李を持ってきたのか」
どこから竹筒を出したのかと思えば、愁水はしれっと行李を持ち出していた。
木綿の布も止血用に備えていたらしく、修羅場慣れした者の周到さがうかがえる。
「おう、役に立っただろ? 弾が貫通していて良かったな」
「……お前を、危険な目に遭わせるつもりはなかった」
つい口を滑らせたが、愁水は無頓着に手を振った。
「んなもん、わかってら。大体、怪我したのはお前だろ。無茶しやがって。……いいから、余計なことは考えねえで、眠ってろ」
愁水は胡座をかき、脇差を抱えたまま顔を伏せた。
夜明けまでは、まだ遠い。血は止まったものの、土地神を利用した呪詛のせいか、一向に痛みが引かない。
怪我の治癒に力を回せば、この身と、愁水に掛けられた〈呪い〉が《《進行》》してしまう。
――忌々《いまいま》しいこと、この上ないな。
目を閉じた嗣巳の耳に、滝の音が響いた。
大粒の雨を思わせるその音は、微睡む嗣巳の思考を過去へと――愁水ら兄妹と初めて会った日へと、誘った。
「――見て、愁。狸がいるっ!」
弾むような童女の声が、そのときの嗣巳には残酷に響いた。
武士どもに体を切り刻まれ、諸国に四散した体を探す道の途上だった。弱々しい狸の姿をとるしかなくなっていた嗣巳は、なるべく木の上を渡り歩くように気をつけていた。
地上は、人間どもでひしめいている。しかし運悪く木登りをしていた娘に出くわし、嗣巳は身構える間もなく、その両腕のなかに閉じ込められていた。
――忌々《いまいま》しい!
噛んでやろうと牙を剥いた嗣巳の首に、冷たい刃が押し当てられた。娘の背後に、別の童が立っていた。
――抜刀の音が、聞こえなかった。
「水代、獣には無闇に触れるな」
「愁、刀をどけて! この子、怪我してるのよ。見捨てるわけっ?」
耳元で大きな声を出されたうえに、両腕が嗣巳の胴を締めあげた。抜け出そうとしたが、童女にしては力が強く、徒労に終わる。
「そいつ、お前を噛もうとしていたぞ。そんなんで、手当てができるか?」
「じゃあ、気絶させてよ」
嗣巳は聞き間違いかと思ったが、首の辺りに衝撃が走ったため、本当にやったのだろう。
次に目を覚ましたとき、嗣巳は娘に木綿の布で、傷口を縛られているところだった。
力が戻っていれば、獣の姿でも痛いと抗議できただろうが、この時は話せなかった。
四肢をばたつかせて暴れると、愁と呼ばれた童に抱き上げられて、膝に乗せられた。
「水代、お前本当に不器用だな。これじゃ、傷口を抉ってるぜ」
愁は慣れた手つきで木綿の布を巻き直し、最後に荒っぽく嗣巳の頭を撫でた。
十を少し過ぎた頃、だっただろうか。
目鼻立ちのよく似た兄妹は思った通り双子で、城下では生き神として敬われる一方、兄の愁は後見人である伯父から幾度となく毒を盛られ、刺客を差し向けられ――常に満身創痍でありながら、見る者を怯ませるほど真っ直ぐな眼差しをした、武家の嫡男らしい童であった。
「――畜生、油断した。水代には内緒だからな」
自室に匿っていた嗣巳にそう声をかけながら、愁は器用に、背中の切り傷の手当てをしていた。
泣かない童。人間の涙ばかり見てきた嗣巳にとって、愁はそれだけでも物珍しかった。
「俺がもっと力をつけたら、水代とお前を、どこか遠くへ連れて行ってやるからな」
手当てを終えた愁は、己の血に濡れた手を拭いながら、強い眼差しでそう言った。
泣くことを知らない、不憫な童の傍を離れなかったのは、嗣巳のほうだ。
それが、〈あれ〉を引き起こしたのだ――。
愁のせいではなかっただろう。それでも嗣巳は、己が水代の体に封じられたと知ったとき、咄嗟に裏切られたと思ったのだった。
――もう二度と、人間に利用など、されてやるものか。
嗣巳、と己を呼ぶ声が、いつかの童の声と重なって響く。
意識が混濁したまま目を開けると、嗣巳の顔を覗き込んでいた愁水が、安堵したように息をついた。
「魘されてたぜ。痛むのか? そっちのが楽ってんなら、妹の姿になっても構わねえぞ」
「……いや。妹の、血塗れの姿を見たいか?」
「見たいわけねーだろ」
嗣巳が体を起こそうとすると、愁水の手が背を支える。その献身ぶりが疎ましくて、嗣巳は愁水の手を払い除けていた。
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*道中合羽:防水の外套。野宿の際には布団代わりになる。




