ミシャグジ様(5)
「嗣巳?」
「……筆に力を吸わせるのに、土地神が最適だった。だから、お前をここに連れて来た」
「そんで、筆に力を吸わせて何がしたいんだ?」
愁水がこれを問うのは、初めてだった。遅すぎるくらいだが、相手が本心で望まない限りは踏み込まないのが、この男の基本姿勢だ。
そうとわかっているから、余計に腹立たしい。
「眠ってしまいたい。深く眠れば、力を蓄えられる。そうして力がついたら、人のいない深山でも暮らしていける」
けれど封じられない限り、嗣巳は眠ることもままならない。鶇鳥の鳴き声――《《夜に》》鳴く鳥から生まれた鵺は、初めから深い眠りというものを奪われていた。
浅い微睡みを繰り返して、力を削がれたまま、何百年も現世を彷徨ってきた。
人間に姿を見せなかったというのに、鵺の伝承は根強く、塚や社を幾度となく目にしては落胆した。
忘れてくれないのなら、忘れられるまで、遠くへ行ってしまいたい。
人間は嗣巳の本性を見れば恐れ、人に化けた姿には惑い、いずれにしても利用して切り刻もうとする。
「私を絵に封じられるくらい、筆に力をつけろ。そうすれば、妹の体は返してやれる」
問わず語りに語ったあとで、嗣巳はそう締め括った。
狡い言い方だった。嗣巳が体を離れれば、妹が《《どうなるか》》を、教えてやらないのだから。そして、双子である愁水もまた、無事では済まないだろう。
嗣、と呼んで力一杯抱き締めてくる娘の笑顔を思えば、心は揺れるが、所詮一時の感傷に過ぎない。
その感傷に振り回された挙げ句が、この体たらくなのだ。
「眠っちまいてえってのが、《《本当に》》お前の願いなら、そん時ゃ叶えてやるよ」
「何……?」
含みのある言葉に鋭い目を向けたが、愁水は軽い調子で受け流した。
「頭でごちゃごちゃ考えたことが、本当の願いとは限らねえだろ。案外、全部取っ払っちまったあとで、見えてくるもんかもしれねえ。――まあ、それまではお互い、好き勝手にやっていこうぜ」
とん、と指先で肩を押されると、呪詛で痺れている体はあっけなく沈み、愁水がその上から合羽を掛け直してくる。
「この先から物音がするんだよな? ちょっくら見てくるから、大人しく寝てろよ」
「……用心して行け」
もはや抗う気力もなく、嗣巳は寝返りを打って、愁水に背を向けた。
*
滝壺の奥――所謂裏見の滝というものだが、こうした滝裏の凹部には、専ら神仏が祀られるものだ。
愁水が火打石で灯した龕灯(*)を頼りに奥へと進むと、六寸角(*)ほどの内格子で仕切られた、堅固な牢が現れた。
足音を立てて近づけば、誰だ、と悲鳴じみた声があがる。龕灯ではその構造上、持ち主の顔が見えない。
「俺は、流れの絵師だ。この村の者じゃねえ。あんたらは、養学家の当主に捕まったんだよな?」
愁水が開口部を顔に向けて見せると、一斉に安堵の息が漏れた。
「助けに来てくれたのかっ?」
「助ける気はあるが……こりゃ、大鋸(*)がねえと切れねえな」
愁水は牢の内格子を調べたが、腐って脆くなったような箇所も見当たらず、現状出来ることはないと判じた。大鋸よりも確実なのは、鍵だ。
「こんなに小せえ娘だっているんだ、何とかしてくれ……!」
不安が頂点に達したらしく、悲鳴じみた声が反響する。
愁水は再び龕灯を向けて、人数を数えた。そこには五人の、壮年の男たちが囚われていた。
やつれてはいるが、飢餓状態ではない。それは当然で、儀式の寸前まで生かしてこその生け贄だ。急いで脱出させるよりも、呪詛の発動を食い止めるのが先決だろう。
そして――男達の他に、童女が一人。
一目で、人間ではないとわかった。神気、というものだろうか。周囲の男たちは気づいていないようだが、少なくとも、化物慣れした愁水にはわかる。
「……あなたは、誰? 不思議な匂いがする……それに、懐かしい匂いも……」
童女の姿をした神が、ぼんやりと愁水を見つめ返した。
「懐かしいってのは、狛虎の匂いじゃねえか?」
狛虎、と童女が反芻し、目を見開いた。
「そう……あの子たちに、助けを呼びに行かせたの。今日が満願の日……夜明けまでに、穢れを清めなければ……。牢の鍵は、養学家の当主が持っているけれど……」
たどたどしいが、急に饒舌になった童女を男達が訝しがる。それを眼差しで制して、愁水は続きを促した。
「呪詛を抑える強弓(*)は、刀祢家の当主が持っている……。あの宝物は、両家の者が揃って引かなければ、弦を鳴らして、魔を祓うことができない……」
「鳴弦の儀ってやつだな。それで終わりか?」
「違う……呪詛の媒体……髪を巻き付けた杓子を……形代を燃やして……。髪は、この人たちのを取っていったから……儀式が成功したら、死んでしまう……」
「本当に、人間を捧げる気なのか?」
生け贄譚というのは、伝承としては広く知られているが、実際に人間を捧げたかというと――少なくとも、愁水は懐疑的に見ている。多くは、形代を用いた疑似的な儀式であったはずだ。
しかし、童女姿の神は小さく頷いた。
「あなた達の髪も、取られている……」
「ああ? 髪を抜かれた覚えなんざ――」
「お風呂場に落ちた髪」
と断言され、愁水は呻いた。
「……その形代ってのは、どこにあるんだ?」
「清一郎が、養学家の祭場から奪った……」
愁水は舌打ちして言った。
「やっぱり自演かよ。それにしても、人間を捧げるなんて考えた馬鹿は、どこのどいつだ? 養学家の当主か、それとも……」
捕らわれた男は五人、愁水と嗣巳を頭数に入れれば、七人――いずれも、奇数だ。
本来は祝福事を主とした思想だが、奇数は割り切れないことから、分裂しない――力が持続する、という意味で重視される。
加えて、今は各地で春の例祭が行われる季節だ。春の農耕を開始する日を〈満願〉としていることからも、呪術に精通した者の入れ知恵があったはずだ。
「当主の手記を見れば、わかる……」
愁水にはその時、童女姿の神が微かに笑ったように見えた。ぼんやりとした表情が、そう見せただけかもしれないが。
「……清一郎が生きているなら、清次郎を害そうとしても可笑しくねえよな。知らせてやって、手記と宝物の強弓を借りて、形代を……やることが多いな」
寸前まで出かけた言葉を何とか呑み込み、愁水は囚われた男達に必ず戻ってくると言い含めて、一旦その場を離れた。
まずは、清次郎に接触を図るところからだ。
滝壺の入り口まで戻ってくると、嗣巳は眠っていた。書き置きを残す間も惜しく、大股で横を通り過ぎる。
――夜明けまで、か。
木々に縁取られた東の空の端には、薄明かりが滲んでいる。濃紺の闇は徐々に透き通るような菫色へと近づいており、半刻(*)のうちに夜明けを迎えるだろう。もはや、灯りも必要ない。
空気は澄んで、冷え切っている。愁水は白い息を吐き、足音を抑えて刀祢家の屋敷へと向かった。
――居たか。
――いや、居ない……。あすこはもう見たか?
屋敷の周辺では、刀祢家に与する村人までもが総出で、愁水達の行方を追っていた。
呪詛を祓う宝物――強弓を持ち出したのは、清一郎だろう。当然、呪詛返しを警戒してのことだろうが、その呪術知識はどこで得たのか。
愁水は屋敷の周辺を探ったが、人目につかずに侵入するのは不可能に近い。正面から突っ込んでやろうかとも思ったが、猟銃を見てさすがに留まった。
不意に、黒蝶が頬をかすめた。ひらりひらりと、愁水の目を惹くように、誘うように舞っている。
蝶を目で追っていると、屋敷とは反対の方に飛んでいった。
呼ばれた、と思った。このまま留まるよりも、動く方が愁水好みでもある。
その場を離れ蝶を追っていくと、鬱蒼とした草木に紛れるようにして、巨木の傍に娘が立っているのが見えた。
「貴方は……?」
気丈に睨みながら、娘は愁水を真っ向から見据えた。
――――
*龕灯:江戸時代の携帯用ランプ。
*六寸角:一辺が六寸(約18.18cm)の角材(「180mm×180mm」の断面を持つもの)のこと。
*大鋸:大型の木材用の大きなノコギリ。
*強弓:張りが強く、力の強い者でなければ引けない弓。
*半刻:約一時間。




