第43話 母性の暴走
しかし、感動の嵐が吹き荒れた後、街の女性たちの心には、別の、そして極めて強烈な『炎』が灯ることになった。
小鳥遊めるが発行する瓦版に、赤ん坊を抱きかかえる蓮の姿が描かれた。
普段は飄々《ひょうひょう》としていて、恐竜との死闘でも涼しい顔をしている大魔法使いが、涙ぐみながら我が子を愛おしそうに見つめる「一人の普通の父親」の顔。
『……ねえ、見た? 蓮さんのあの顔』
『見たわ。……あんな優しい顔、私、初めて見た……』
『私、決めた。……絶対に、絶対に蓮の子を産んで、あの腕に抱かせてみせる!』
ただ「彼に守られたい」という庇護欲から、「彼のあんな優しい顔を、私だけのものにしたい」という強烈な独占欲へ。四十万人の女性たちの中で、眠っていた母性本能と激しい生存競争のゴングが、かつてない音量で鳴り響いたのだ。
「ナナちゃんには先を越されたけれど、次は私の番よ。蓮さんに最高の癒やしを与えて、彼との子を身籠ってみせるわ」
雨宮結衣が蠱惑的な笑みを浮かべ、唇を舐める。
「武闘派の血を引く最強の後継者を産むのは私だ! 今日からスクワットの回数を倍にするぞ!」
立花凛が防衛局のメンバーを前に腹筋を叩く。
「ふふっ、財閥の跡取りは、私が最高の教育で育て上げますわ」
北条綾乃が扇子で口元を隠しながら野望を燃やした。
その狂熱は、すぐさま街の行政システムを麻痺させる事態へと発展した。
内政局長の如月冴子の執務室のドアが、ドンドンと激しく叩かれる。
「局長! お願いです、もっと過酷な労働をさせてください!」
「ポイントを稼ぎたいんです! 蓮さんとの一夜を獲得するために、徹夜で下水道掃除でも何でもします!」
「『蓮との一夜争奪くじ引き大会』の実施回数を増やして下さい!」
血走った目をした数千人の女性たちが、執務室の前に押し寄せていたのだ。
「……落ち着きなさい! あなたたち、これ以上働いたら過労死しますよ! それにくじ引きの確率はすでに20万分の1です。回数を増やしてもそうそう当たりませんよ」
鉄の女である冴子でさえ、数十万人の発情した母性本能の暴走を前に、頭を抱えて悲鳴を上げるしかなかった。
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街中が「次なる命の争奪戦」で熱狂の渦に包まれる中。
深夜、蓮は巨大都市の防壁の一番高い場所で、夜風に吹かれていた。
彼の隣には、天文学者の大塚香織が、巨大な望遠鏡を覗き込んでいる。
「……街は、すごい騒ぎになっているわね」
香織が望遠鏡から目を離し、苦笑いしながら言った。
「あはは……冴子さんには、明日ちゃんと謝っておくっす」
蓮は首をかきながら、ふと、真剣な眼差しで夜空を見上げた。
「ハカセ。……どうっすか、あれは」
「……ええ」
香織の表情も、学者としての冷徹なそれに変わる。
「私の計算通りなら、軌道に狂いはないわ。……この星の生態系を完全に破壊する、直径十キロメートルの『超巨大隕石』。あれが衝突するまで、タイムリミットはあと9年といったところね」
星々の間で、微かに、しかし確実に赤い光を放つ不吉な星影。
恐竜を絶滅させ、この世界を灰燼に帰す絶対的な破滅。それが、すぐそこまで迫っていた。
「あと9年……」
蓮は、先ほどまで自分の腕の中にあった、小さな命の重みを思い出した。
一の、あの力強い産声を。
「……絶対に、落とさせないっす」
蓮は拳を強く握り締め、夜空の赤い星を真っ直ぐに睨みつけた。
「一が、そしてここから産まれてくるたくさんの子供たちが、笑って生きられる未来を作る。……そのために俺は、あんなちっぽけな石ころ、宇宙の塵にしてやるっすよ」
大魔法使いの力強い宣言。その横顔を、大塚香織は静かに、しかし熱を帯びた瞳で見つめていた。
冷徹な天文学者である彼女は、誰よりもあの巨大隕石の絶望的な質量と破壊力を理解している。だからこそ、それを「ちっぽけな石ころ」と言い放ち、四十万人の命を背負って立つこの男の途方もない大きさに、魂が震えるのを感じていた。
「……ふふっ。本当に、あなたという人は規格外ね」
香織は望遠鏡から完全に離れ、ゆっくりと蓮に歩み寄った。
夜風になびく彼女の白衣が擦れる音が、静寂の防壁の上に響く。
「ハカセ?」
振り返った蓮の首に、香織の白く細い両腕が、ふわりと絡みついた。彼女の体から漂う、清潔な石鹸と、微かな甘い香りが蓮の鼻腔をくすぐる。
「昼間の騒ぎ……私だって、例外じゃないのよ」
香織は蓮の耳元に唇を寄せ、艶やかな吐息とともに囁いた。
「ナナちゃんの出産を見て……そして、あなたのあの優しい父親の顔を見て。……私の中の『メス』が、どうしようもなくあなたを求めて疼いているわ」
「ちょ、ハカセ……ここは外っすよ。誰か来たら……」
「来ないわ。ここは一番高い防壁の上。星と、私たちしかいない特等席よ」
香織は蓮のジャージの胸元を掴み、彼をゆっくりと石の床へと押し倒した。
見上げれば、満天の星空。そして彼女の、知性と欲情が入り交じった妖艶な瞳が蓮を見下ろしている。香織は自らの白衣のボタンに手をかけ、はだけた胸元から覗く豊満な膨らみを蓮の胸に押し当てた。
「ねえ、蓮……。宇宙の神秘を解き明かすのも悪くないけれど、今夜は……あなたのその大きな『望遠鏡』を、私の未知なる『コスモ』に入れて、直接探索してくれないかしら?」
「……っ、ハカセ、それ、天文学者として完全にアウトな発言っすよ……」
「ふふっ。学会からは追放されるかもしれないわね。でも……あなたから追放されるより、ずっといいわ」
香織の理性のタガが外れたような情熱的なキスが、蓮の言葉を塞いだ。
大魔法使いの男も、これ以上の抵抗は無意味だと悟り、彼女の白衣越しにその柔らかく成熟した身体を強く抱きしめ返した。
「……優しく抱くなんて、約束できないっすよ。俺も、ここ最近は紳士であり続けて我慢してたっすから」
「ええ、壊れるくらい激しくして。私の中に、あなたの『命の光』を刻み込んで……っ」
防壁の冷たい石の感触も、忍び寄る終末の足音も、今はもう二人の間には存在しなかった。
満天の星空と、赤く不吉な輝きを放つ隕石すらもただの背景に変え、二人は熱く重なり合う。四十万人の頂点に立つ大魔法使いと、星の運命を紐解く天才学者は、夜明けが訪れるまで、果てしない快楽の宇宙を貪り続けたのだった。




