第41話 ガサ入れ
凛が叫ぶ。しかし、冴子は一切の表情を変えることなく、向かってくる巨大な拳に向かって、すっと半歩踏み込んだ。
パシッ。
冴子の細い手が、用心棒の腕を軽く払い落とすように触れたかと思うと、次の瞬間、用心棒の巨体が宙を舞い、ドスゥンッ!と重い音を立てて床に叩きつけられた。
「……え?」
用心棒たちも、背後の凛たちも、一瞬何が起きたのか理解できなかった。
冴子は乱れた前髪をかき上げ、眼鏡のブリッジを中指で押し上げながら、冷ややかに告げた。
「官僚時代、要人警護の真似事も嗜んでいましてね。……私の『合気道』は、力のベクトルを逸らす物理の計算です。力任せの暴力など、私には通用しません」
言葉が終わるより早く、冴子は流れるようなステップで次の用心棒の懐に潜り込んだ。手首を捕らえ、関節を極め、相手の力を利用して次々と大柄な女性たちを床に沈めていく。魔法に頼らない、純粋で無駄のない洗練された体術。そのあまりにもスタイリッシュな制圧劇に、凛すらも「嘘だろ……うちの武闘派より強いんじゃないか……?」と冷や汗を流すほどだった。
あっという間に用心棒を無力化した冴子は、奥のVIPスペースへと繋がる通路を見据えた。
その先では、ソフィア・チェンと林鈴花が、焦るどころか妖艶で余裕たっぷりの笑みを浮かべ、重厚な扉の向こうへと姿を消すところだった。
「逃がしませんよ。街の経済を裏で操る巨悪の根源……今日という今日は、年貢の納め時です」
冴子は倒れた用心棒たちをまたぎ、VIPルームの扉の前に立った。
「さあ、その奥の隠し部屋にある『裏帳簿』と『横流し物資』を渡しなさい!」
バンッ!と、冴子が勢いよくVIPルームの扉を開け放った。
踏み込んだ先。そこは、マフィアの黒幕が潜むような血生臭いアジト……では、全くなかった。
部屋の中央に鎮座していたのは、寝具職人の不破小糸が特別に仕立てた、恐竜の最高級の羽毛をふんだんに使った超特大のふかふかベッド。
そして、そのベッドの中心で、ジャージ姿のままゴロゴロとだらしなく寝転がり、マグカップに入った温かい液体を美味しそうに啜っている男がいた。
「あー……やっぱり、食後のコーヒーは最高っすねぇ。五臓六腑に染み渡るっす」
この街の最高権力者にして、唯一の魔法使い、桜豪千蓮である。
「れ、蓮……!?」
冴子が絶句する中、蓮の両脇では、ソフィアと鈴花がぴったりと寄り添っていた。
「蓮様、肩の凝りはいかがかしら? 私の極上のオイルマッサージ、もっと強くしましょうか?」
「アイヤー、蓮クンは足がパンパンね。ワタシがしっかり揉み解してあげるアルよ。ほら、もう一口コーヒー飲むヨロシ」
二人の美女から、あからさまな「極上の接待」を受けながら、蓮は完全に骨抜きにされただらしない顔を浮かべていた。
突然扉を蹴破って入ってきた冴子たちに気づき、蓮はパチクリと瞬きをした。
「あ、冴子さん。お疲れ様っす。お仕事っすか?」
「お、お仕事っすか、ではありません!!」
冴子の叫び声を気にも留めず、蓮はマグカップを片手にニカッと笑った。
「いやぁ、ちょうどよかったっす。コーヒー、飲むっすか? 鈴花ちゃんが持ち込んだ本物のコーヒー、めちゃくちゃ美味いっすよ。冴子さんも一杯どうっすか?」
「あ、あなたという人は……ッ!!」
マフィア映画のようなハードボイルドな緊張感は、この瞬間、完全に音を立てて崩壊した。
鉄の女である冴子は、顔を限界まで真っ赤にして両手で頭を抱え、その場にズルズルと崩れ落ちた。
「せっかく……せっかく私が、街の規律を守るために悪の温床を摘発しようと……身を粉にして乗り込んできたというのに! なぜ、街のトップであるあなたが、一番の賄賂を受け取ってくつろいでいるんですかぁぁっ!」
「いや、賄賂っていうか……」
蓮はベッドの上で身を起こし、困ったように頭を掻いた。
「毎日魔法の使いすぎで疲れてたところに、ソフィアさんたちが『特別にコーヒーを淹れてあげる』って言ってくれて……。久しぶりのコーヒーの香りが悪魔的すぎて、つい誘惑に負けたっす。ごめんなさいっす」
悪びれる様子のない蓮の横で、ソフィアが妖艶にクスクスと笑う。
「冴子局長、誤解しないでちょうだい。私たちはただ、街の『最高重要資源』である蓮様を、公財で『労っていた』だけよ? 彼が倒れたら、この街は終わりでしょう?」
「そうアル! これは賄賂ではなく、正当な福利厚生ヨ! 文句を言われる筋合いはないアルね!」
鈴花も胸を張り、堂々と言い放つ。
「くっ……この、したたかな……!」
冴子はギリッと歯軋りをしたが、反論できなかった。
確かに、彼女たちが裏で現代物資を横流しし、ポイントを荒稼ぎしていたのは事実だ。しかし、この街の絶対的なインフラである蓮が、純粋な善意(と疲労)からとはいえその接待を享受し、心底リラックスしてしまっている以上、元締めである彼女たちを厳罰に処すことは、蓮の意向を真っ向から否定することになりかねない。
結局、冴子はこの一件を有耶無耶にするしかなかった。
ただし、ただで引き下がる鉄の女ではない。闇市は完全解体させ、冴子の徹底的なメスが入り、「内政局公認の娯楽・嗜好品特区」として、莫大な税金を徴収される形で厳しい管理下に置かれることとなったのだ。
数日後。内政局の執務室。
書類の山に埋もれ、疲労困憊でため息をつく冴子の前に、コトリと温かいマグカップが置かれた。
「冴子さん、毎日徹夜で街の管理、本当にお疲れ様っす」
見上げると、そこには申し訳なさそうに笑う蓮の姿があった。
「これ、俺が冴子さんのために特別に淹れた特製ブレンドっすよ。この前のお詫びも兼ねて、俺の魔力で最高に美味しくお湯を沸かしたっす」
「……ふん。そんなもので、私のご機嫌取りのつもりですか」
冴子はツンと顔を背けながらも、マグカップから漂う抗いようのない芳醇な香りに、ゴクリと喉を鳴らした。
恐る恐る一口飲む。
途端に、張り詰めていた官僚としての緊張の糸が、ふわりと解けていくのを感じた。
「……美味しいですね」
「でしょ? 冴子さんには、いつも無理ばっかりさせてるから。たまには息抜きも必要っすよ」
蓮が優しく微笑みかけると、冴子は顔を真っ赤にして俯き、マグカップを両手で包み込んだ。
「……今回だけ、ですからね。次、裏でコソコソしていたら、容赦しませんから」
極限状態の世界であっても、「現代の娯楽」を求め、商売を始める人間たちのたくましさとしたたかさ。そして、結局は誰一人として、無自覚なタラシである蓮の優しさには勝てないという事実。
巨大隕石衝突という絶滅のカウントダウンが迫る恐竜時代に、平和でバカバカしく、そして何よりも愛おしい日常が、確かな温もりとともに流れていた。




