第4話 防壁都市の誕生
群衆の心理が落ち着きを取り戻しつつあったその時、別の切実な現実問題が浮上していた。
「あの……うぅ……っ」
先ほどスマホの充電を頼んできた女子高生が、内股になってモゾモゾと身をよじらせていた。顔は真っ赤で、限界が近いのは誰の目にも明らかだった。
「あなた、もしかしてお花摘み?」
近くにいた大人の女性が小声で尋ねると、女子高生は涙目でコクコクと頷いた。無理もない。ここには水洗トイレはおろか、身を隠す場所すらないのだ。二千人以上の視線がある広場のど真ん中で用を足せる現代日本人はいない。
見かねた女性が、蓮の元へと駆け寄った。
「お兄さん、ごめんなさいね。あの子、トイレが限界みたいなの。私たちもそろそろ……その、困っていて。魔法でどうにかならないかしら?」
「あ、しまった。完全に失念してたっす」
異世界での過酷なサバイバルに慣れきっていた蓮は、現代人にとっての『トイレ問題』の深刻さをうっかり忘れていた。
「すぐ作るっすよ。少し離れた、匂いが来ない場所がいいっすね」
蓮は広場の端、森との境界ギリギリの安全そうな場所へ歩み寄ると、指先を軽く振った。
空間牽引で地面に深く真っ直ぐな穴をいくつか穿ち、周囲の土を練り上げて万物拡充を発動させる。あっという間に、大人がすっぽりと隠れられる高さの土の個室が20個ほど完成した。
「とりあえず簡易的なボットン便所っすけど、完成――」
「どいてええええええっ!」
蓮の言葉が終わるより早く、女子高生が猛ダッシュで風のように駆け抜け、一番手前の個室へと飛び込んでいった。
「……ふぅ、間に合ってよかったっす」
その後ろには、安堵した表情の女性たちが、自然とトイレ待ちの長蛇の列を作り始めていた。
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やがて、白亜紀の巨大な太陽が西の空へ傾き始めた。
二日目の夕方。休むことなく明滅を続ける魔法陣からは、依然として一分に一人の正確なペースで女性が吐き出され続けている。広場にひしめき合う人数は、すでに約二千八百人にまで膨れ上がっていた。
「そろそろ日が暮れるっすね……昨日みたいに野宿ってわけにもいかないし」
蓮は額の汗を拭いながら、鬱蒼とした森の奥を見据えた。
夕闇が近づくにつれ、夜行性の肉食恐竜たちの活発な咆哮が遠くから響き始めている。数千人もの「獲物」の匂いは、間違いなく奴らを引き寄せるはずだ。
「皆さん、ちょっとだけ下がっていてくださいっす」
蓮の号令に、女性たちがざわめきながら道を空ける。
蓮は大きく息を吸い込み、両手を地面に向けた。全魔力の三十パーセントを常に召喚の維持に奪われている状態での大魔術行使は、大魔法使いである彼にとっても決して軽い負担ではない。
「空間牽引……からの、万物拡充っす!」
ズズズズズッ……!!
地鳴りとともに、広場を囲む地面が波打ち、盛り上がった。周囲の粘土質の土と巨木の幹が目にも留まらぬ速さで組み合わさり、数千人をすっぽりと囲む巨大なすり鉢状の防壁が一瞬にしてそびえ立った。
さらに防壁の内側には、雨風と夜の冷気をしのぐための、頑丈な土の長屋が次々と形作られていく。
「うそ……」
「たった一人で、あんな巨大な壁を……」
まるで神話の創造を目の当たりにしたかのような光景に、三千人近い女性たちは声も出せずに立ち尽くした。
文句一つ言わず、見ず知らずの自分たちに食事を与え、安全な城壁と家まで与えてくれる圧倒的な力。結衣の仕込んだサクラたちの囁きも相まって、女性たちの目に映る蓮の姿は、単なる恩人を通り越し、絶対的な「救世主」あるいは「完璧な王子」として、強烈な崇拝の対象へと変わり始めていた。
「ふう……さすがに、ちょっと魔力を持っていかれたっすね」
土煙が晴れた後、蓮は少しだけよろめき、膝に手をついた。
すかさず、背後に隠れていたナナが「大丈夫っ!?」と駆け寄ろうとする。しかし、それよりも一瞬早く、柔らかな香水の匂いとともに蓮の体を支える腕があった。
「お疲れ様です、蓮さん。無理をなさらないでくださいね」
聖母のような微笑みを浮かべた結衣だった。彼女は自然な動作で蓮の隣に並び、彼の泥のついた手を両手でそっと包み込むと、ハンカチで優しく彼の額の汗を拭った。
「結衣さん、っすか。ありがとうっす。でも、まだ魔法陣からは人が降ってくるから、休んでられないんすよ」
「ええ、分かっています。だからこそ、私たちがあなたを支えます。あなたのその優しさに、みんな心から救われているんですよ」
結衣は艶やかな視線を蓮へと向けながら、甘えるように首を傾げた。
一見すれば、献身的に尽くす心優しい大人の女性だ。しかしその立ち位置は、ちゃっかりと蓮の「すぐ隣」という、この数千人のコミュニティにおける最重要ポジションを誰よりも早く確保したものだった。ナナが牽制するように結衣の背中を睨みつけていたが、結衣は全く意に介さず、蓮にだけ見える角度で蠱惑的な笑みを深める。
止まらない召喚の光。防壁の外で吠える恐竜たち。
圧倒的な男女比の異常な世界で、絶対的な王である蓮を巡る、女たちの静かでドロドロとした生存戦略の火蓋が、今ここに切って落とされたのだった。




