第3話 パニックに陥る群衆
経過日数:2日目 約2,500人
巨大な針葉樹の隙間から、白亜紀の強烈な朝日が差し込んできた。
冷たく湿ったシダ植物の群生の上で身を寄せ合って夜を明かした女性たちが、次々と目を覚ます。鬱蒼とした森、遠くから響く巨大な恐竜の咆哮。それが悪夢ではなく現実だと理解した瞬間、あちこちで再びすすり泣く声が上がり始めた。
「嘘でしょ……帰りたい……っ」
広大な空間は、すでに異様な光景に包まれていた。
蓮の頭上にある魔法陣は、夜通し休むことなく眩い光を放ち続けていた。一分に一人。寸分違わぬ正確なペースで、現代の女性たちが何もない空中から放り出されてくる。こちらの人口はすでに二千人を突破し、カオスは極まっていた。
召喚のタイミングはあまりにも理不尽だった。
パジャマ姿の学生、スーパーのレジ袋を提げた主婦、さらには頭にシャンプーの泡を乗せたまま、素っ裸で放り出されてきた女性までいる。
「ひっ、いやあっ! どういうこと? 見ないで!」
突然の全裸での野外放置にパニックを起こしてうずくまる入浴中だった女性。しかし、極限状態にあっても、不思議と女性たちの間には奇妙な連帯感が生まれていた。
「大丈夫ですか!? とりあえずこれ、羽織ってください!」
自分も震えているはずの若いOLが、着ていたカーディガンを素早く脱いで全裸の女性の肩にかけた。別の女性も持っていたタオルを差し出し、肌を隠すように周囲を囲む。理不尽な状況下で、互いを守ろうとする防衛本能が働いているようだった。
「ふう……皆さん、怪我はないっすか? 足元、滑るんで気をつけてくださいね」
そんなカオスの中心で、蓮は一睡もせずに空から落ちてくる女性を魔法のクッションで受け止め続けていた。彼の背中には、最初に召喚された美大生の襟島ナナが、怯えた小動物のようにぴったりと張り付いて離れない。
「あ、あの……!」
ふいに、一人の女子高生が涙目で蓮にすがりついてきた。彼女の手には、画面が真っ暗になったスマートフォンが握られている。
「スマホの電源が落ちちゃって……お父さんに連絡もできないし、家族の写真も見られないの。魔法使いなら、どうにかして充電してくれませんか……?」
すがるような声に、蓮は困ったように眉を下げた。
「ごめんね。俺の魔法は物理的な力を操るもので、電気の細かい基板とか、半導体みたいな精密機器を無から作ることはできないんすよ。電池もないから、充電は無理っすね」
「そんな……」
女子高生がその場に泣き崩れる。現代のインフラが完全に絶たれたという現実が、周囲の女性たちにも重くのしかかった。
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「皆さん、落ち着いてください! パニックになっても解決しません、まずは安全な場所に集まって!」
群衆の端で、声を張り上げている女性がいた。キリッとした制服に身を包んだ警察官、銭形警子である。プロの矜持として秩序を保とうと奮闘していたが、圧倒的な不安に飲まれた群衆は、すでに彼女の制止を聞き入れる状態ではなかった。
「警察でしょ!? 早く応援を呼んでよ!」
「なんとかして! 私たち、ここで恐竜に食べられて死ぬの!?」
「静かに! 私だって警察無線が通じないんです、今は無茶を言わないで……!」
詰め寄る大勢の女性たちに囲まれ、警子もまた限界を迎えつつあった。
その光景を見て、蓮は静かに息を吐いた。
「腹が減ってると、余計に不安になるっすからね」
蓮は背中のナナをそっと下ろすと、広場の少し開けた場所へと歩み出た。
彼の視線の先、シダの茂みの向こうから、人間の匂いにつられたダチョウのような姿の中型恐竜、オルニトミムスが数頭、様子をうかがうように顔を出していた。
「ちょうどいいところに。ちょっと、お肉をもらうっすよ」
蓮が指先を軽く振ると、空間牽引が発動した。見えない巨大な手が恐竜の首を正確に捉え、苦しむ間も与えずに瞬殺する。さらにその手を近くの巨大な川へと伸ばし、現代のマグロほどもある古代魚をごっそりと陸地へ引きずり上げた。
「な、何あれ……?」
「魔法……本当に、魔法なの……?」
騒いでいた女性たちが、信じられない光景に息を呑んで静まり返る。
蓮はすぐさま足元の巨石をさすってから、万物拡充で直径数メートルにも及ぶ巨大な石鍋を作り出した。それを川の水で満たし、底に劫火の種火を放って一気に沸騰させる。
恐竜の肉と巨大魚を空間の刃で手際よく解体し、血抜きをして鍋へと放り込んでいく。そして、スーパー帰りの主婦の手提げに入っていた調味料を使って味を調えた。
「とりあえず、ご飯食べます? 温かいお湯だけでも、少しは落ち着くっすよ」
立ち上る湯気と、煮込まれる肉と魚の野性的な匂い。
その圧倒的なサバイバル力と、どんな状況でも揺るがない蓮の「お人好し」な声に、パニックを起こしていた女性たちの顔つきが少しずつ変わり始めた。
「ちょっと、あんたたち! 泣いてても腹は膨れないよ!」
群衆の中から、割烹着姿のふくよかな女性が歩み出てきた。ベテラン主婦の山咲節子だ。彼女は臆することなく巨大な石鍋に近づくと、蓮の横に立った。
「お兄ちゃん、手際がいいね。でもアク取りが甘いよ。ほら、この木っぱでこうやって、取れた!」
「あ、助かるっす。俺、大雑把なんで」
「若い子たちも、ボーッと見てないでその辺の大きなはっぱをちぎって皿代わりにして配膳の列を作りなさい! 警察のお姉ちゃんも、列の整理をお願い!」
節子の肝の据わった号令に、呆然としていた警子もハッとして動き出し、女性たちが自然と鍋の前に列を作り始めた。温かいスープが配られ、それを口にした者から、張り詰めていた緊張の糸が解けていく。
その様子を、少し離れた場所から静かに見つめている女性がいた。
元心理カウンセラーの雨宮結衣である。彼女は聖母のような優しい微笑みを浮かべ、スープを飲みながら泣きじゃくる若い女性の背中を、ゆっくりとさすっていた。
「怖かったわよね。でも、もう大丈夫」
結衣は、精神的に脆くなっている女性の耳元へ口を寄せ、周囲に聞こえないほどの柔らかな声で囁いた。
「見て。あの方……蓮さんが、私たちを守ってくれているの。この危険な世界で、彼に従うことだけが私たちが生き残る唯一の方法よ」
「え……」
「だから、みんなにも教えてあげましょう? 彼を信じれば安心だって。そうすれば、誰ももう怖い思いをしなくて済むわ」
命令ではなく、あくまで優しく寄り添うような声。しかしその言葉は、極限状態の女性の心に強烈なバイアスとして染み込んでいく。結衣はそうやって、蓮を神格化し群衆をコントロールするための「サクラ」となる手駒を、誰にも気づかれることなく、しかし着実に増やし始めていた。




