第36話 開戦の咆哮
「あらあら、ナナちゃん。あまり無理をするとお腹の子に障るわよ? ここは大人に任せてお休みなさい」
ふわりと甘い香りを漂わせて歩み寄ってきたのは、元心理カウンセラーの雨宮結衣だった。彼女が纏っているのは、豊かな胸の谷間と腰のラインを強調する、際どいカッティングの黒い水着だ。
「蓮さん……毎日戦いの準備でお疲れでしょう? 水の中で、私がゆっくりと身体を解してあげるわ」
結衣が艶やかな視線で蓮の首にそっと腕を回し、濡れた髪から滴る水滴を彼の肩口に落とすように身を寄せると、周囲のファンクラブ勢から「結衣様、流石です!」と歓声が上がる。
「ちょっと待て! 軟弱なアピールで師匠を困らせるな!」
そこへ水しぶきを上げて乱入してきたのは、防衛局長の立花凛だった。彼女の水着はスポーティなセパレートタイプだが、引き締まった腹筋と無駄のない太もものラインが、逆に健康的な色気を爆発させている。
「師匠! 私のこの鍛え抜かれた肉体美を見てください! いざという時は、この体で師匠をお守りします!」
「いや、凛さん、筋肉のアピールはプールじゃなくてジムでやってほしいっす……」
全方位からの強烈な誘惑合戦に、超絶お人好しの王は完全にタジタジになっていた。
「あなたたち、少しははしたないという言葉を覚えなさい!」
そこへ鋭い声が響く。内政局長の如月冴子だ。
しかし、彼女が着ている水着もまた、麗華の策略によって布地が極端に少ない大胆なデザインだった。普段の隙のないスーツ姿からは想像もつかないほど白い肌が露わになり、眼鏡の奥の瞳は羞恥で潤んでいる。
「さ、冴子さんまで……! それ、自分で選んだんすか?」
「ち、違います! これは麗華が勝手に……っ! でも、その……どうですか、蓮。私だって、やればこれくらい……」
顔を真っ赤にしてモジモジと上目遣いをしてくる鉄の女の破壊力に、蓮はついに限界を迎えた。
「だ、ダメっす……! みんな刺激が強すぎて、俺の魔力より先に理性がショートするっす!」
逃げるように波のプールへと飛び込む蓮を追いかけて、数万人の女性たちが一斉に水しぶきを上げる。
「待ってえ蓮さん!」
「師匠、背中流します!」
「蓮、私から逃げるなんて許しませんよ!」
恐竜軍団との決戦を前にした重苦しい空気は完全に消え去り、そこには、愛するたった一人の男を巡る、バカバカしくも最高に熱い、女たちの命懸けの熱戦が繰り広げられていた。
この極限の娯楽と笑顔こそが、彼女たちの心に何がなんでも生き残るという最強の盾を築き上げていたのだった。
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プールやボーリング場から沸き起こる十数万人の女性たちの歓声と笑い声。それは、巨大な石の防壁に囲まれた街の中心から、空へと明るく響き渡っていた。
だが、その熱狂から遠く離れた防壁の最前線。
夕闇が迫る城壁の上に、桜豪千蓮は一人、静かに立っていた。
「……みんな、いい笑顔になってくれたっすね」
背後から聞こえる歓声に目を細めながら、蓮は足元の冷たい石の床に視線を落とした。その手には、淡い光を放つ魔力の糸が握られている。
「蓮さん、聞こえる?」
耳元に装着した、通信班の小川蛍が恐竜の骨と植物繊維の糸で急造した伝声管から、学生プロゲーマー・七海千秋の低い声が響いた。
「敵の前衛部隊、第三監視ポイントを通過。進軍ルートは予想通り、北西の森から真っ直ぐこちらへ向かっているよ。ただ、速度が異常に遅い。完全に陣形を整えながら、こちらの出方を窺う『重装歩兵の進軍』だね」
「了解っす。千秋ちゃんの読み通りなら、明日の明け方にはこの防壁の前に到達するっすね」
蓮が答えると、今度は天文学者の大塚香織の理知的な声が管から伝わってきた。
「私の観測でも、明日の夜明け前が最も月の光が隠れる時間帯よ。夜行性の彼らにとって、奇襲をかけるには絶好のタイミング。……蓮、準備はできているの?」
「バッチリっすよ、ハカセ」
蓮はニヤリと笑い、防壁の上から街の中心にある巨大な温水プールを見下ろした。
「ただみんなを遊ばせるためだけに、全魔力を使ってあんな巨大なプールを作ったわけじゃないっすからね」
大魔法使いである蓮の目は、プールの水面に複雑に張り巡らされた、巨大な魔法陣の幾何学模様をはっきりと捉えていた。
あの数万トンの温水は、単なる娯楽施設ではない。街全体を覆う超巨大な「水鏡の防御魔法陣」を起動させるための、巨大な魔力タンク(触媒)なのだ。女性たちがプールで遊び、笑い、ストレスを発散させることで発せられる「生のエネルギー」が、水を通して蓮の魔法陣に還元され、凄まじい防壁の力として蓄積され続けている。
「これだけの魔力が溜まっていれば、あのオールド・ワンの総攻撃でも、絶対に一度は弾き返せるっす」
蓮は空間牽引と万物拡充の術式を編み直し、さらに強固な結界を構築していく。
女たちのバカバカしくも熱い狂乱の裏で、彼はたった一人、迫り来る死の軍勢を迎え撃つための冷徹な罠を研ぎ澄ませていた。
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しかし、その完璧な備えを嘲笑うかのように、異変は街の「内側」から始まった。
「嘘でしょ……どうしたの、あんたたち! エサの時間だよ!」
農業区の隣に設けられた畜産区画で、飼育主任の滝川樹利亜が悲痛な声を上げていた。
彼女が手懐け、街のアイドル的存在となっていた小型の草食恐竜、オルニトミムスの雛たち。いつもならエサの野菜に喜んで群がってくるはずの彼らが、今は一切見向きもしない。
それどころか、何十頭もの雛たちが一斉に防壁の向こう――北西の森の方向を向き、ガタガタと全身を震わせていた。
「グルルルルッ……!」
「キィアアアアッ!」
それは、威嚇ではない。純粋な恐怖による、死に直面した小動物の絶叫だった。雛たちはパニックを起こし、互いに身を寄せ合いながら、見えない何かに向かって必死に鳴き声を上げ続けている。
「ダメだ……! これ、ただの肉食恐竜の匂いじゃない……!」
動物の勘を誰よりも理解している樹利亜の顔から、スゥッと血の気が引いた。
空を覆う暗雲の向こうで、【深緑の智将】オールド・ワンの低い、地獄の底から響くような咆哮が轟いた。
人類最後の楽園を蹂躙するための、絶望的な総攻撃が、今まさに始まろうとしていた。




