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第32話 王の不在

「蓮!? しっかりして!」


エマの悲鳴のような声が執務室に響き、倒れ込む蓮の体を間一髪で支えとめる。しかし、れんの意識が遠のきかけたその瞬間だった。

 パーンッ!と、防壁の外から鼓膜をつんざくような破裂音が轟いた。信号・花火師の姫野ひめの日和ひよりが打ち上げた、緊急事態を知らせる赤い信号弾だ。


「……行か、ないと」

 蓮は薄れゆく意識を無理やり繋ぎ止め、石の床からよろよろと立ち上がった。


「ダメよ蓮! 今の魔力じゃ、あなたが死んでしまうわ!」

 制止するエマや冴子さえこの腕を優しく、しかし確かな力で振り払い、蓮は防壁へと向かった。


 防壁の上では、立花たちばなりんたち防衛局が絶望的な光景を前にしていた。数十頭を超える巨大な角竜の群れが、地響きを立てて城壁へ突進してきていたのだ。物理的な巨大バリスタだけでは、これほどの質量の暴力は食い止めきれない。


空間牽引アトラクティブ・フォース……からの、万物拡充マグナ・スケールっす……!」


 防壁の上に立った蓮は、己の生命力すら削るようにして、残された全魔力を振り絞った。城壁の前に巨大な土の堀と分厚い防塁が瞬時に隆起し、突進してきた恐竜たちの勢いを完全に殺し、森へと退却させた。


「やった……! 師匠が追い払ってくれたぞ!」


 広場に集まっていた数万人の女性たちから、歓喜の叫びが上がる。防壁の上に立つ蓮は、その笑顔を見下ろしながら、ふっといつものお人好しな笑みを浮かべた。


「よかった……みんな、無事っすね。……ちょっと、休憩するっす」


 その言葉を最後に、蓮の体から完全に力が抜け、彼の体は糸が切れたように防壁の上から崩れ落ちた。


「師匠!?」

「蓮さんっ!!」


 数万人の歓声は一瞬にして、絶望と恐怖の悲鳴へと変わった。


 +++


 街の中心に急造された巨大な診療所は、重く冷たい静寂に包まれていた。

 ベッドの上で深い昏睡状態に陥った蓮。その周囲には、普段はいがみ合っている各派閥のトップやほどこしを受けた女性たちが集まっていた。


「蓮さん……嫌だ、起きて……私を一人にしないで……っ」


 最初に召喚された美大生の襟島えりしまナナが、蓮の冷たくなった手を両手で包み込み、ボロボロと涙をこぼしている。その隣では、常に聖母のような微笑みを崩さなかった雨宮あまみや結衣ゆいが、蒼白な顔で蓮の額の汗を拭っていた。


「私たちが……私たちが彼に甘えすぎて、彼をここまで追い詰めてしまったのね……」


 天文学者の大塚おおつか香織かおりも、理知的な仮面を捨てて震える唇を強く噛み締めている。絶対的な王であり、この街の最強のインフラ。その存在が永遠に失われるかもしれないという根源的な恐怖の前では、寵愛を巡る嫉妬も派閥争いも、あまりにちっぽけで無意味だった。


「……泣いている暇はありません」


 静寂を破ったのは、内政局長の如月冴子だった。彼女の目も真っ赤に腫れていたが、その声には鉄の女としての強い意志が宿っていた。


「彼の魔法が止まれば、この街のインフラは数日で崩壊します。彼が目覚めた時、帰る場所がなくなっていてどうするんですか!」


 その言葉に、防衛局長の立花凛が立ち上がった。


「防衛線は私たちサバイバル派が死守する。魔法の壁に頼らず、人力で罠を張り巡らせる!」


「居住区のパニックと物資の統制は、私たち保守派が引き受けますわ」

 北条ほうじょう綾乃あやのが着物の袖をまくり上げる。結衣も涙を拭い、力強く頷いた。

「女の子たちの精神的ケアは、ファンクラブに任せて。絶対に暴動なんて起こさせないわ」


 彼を失う恐怖が、決して交わることのなかった女たちを、一つの強固な絆で結びつけた瞬間だった。


 +++


 それからの丸一日は、まさに死闘だった。

 蓮の魔法による光や炎の補助が消えた街で、公衆衛生担当の大河内薫と治水担当の水沢しずくは、数千人の女性を指揮して人力のバケツリレーで下水を汲み出し、衛生環境を死守した。防衛局は徹夜で森を警戒し、農業区の佐藤さとう小春こはるは魔法なしでの泥臭い収穫作業に汗を流した。

 誰もが泥だらけになり、疲労で倒れそうになりながらも、「蓮のためにこの街を守る」という一点だけで結束し、狂気的なまでの労働をこなしていた。


 そして、丸一日が経過した翌日の夕暮れ。


「……ん……」

 診療所のベッドで、蓮は重いまぶたをゆっくりと開けた。枯渇していた魔力が、十分に体内へと戻ってきているのを感じる。


「あれ……俺……」

 視線を動かすと、ベッドの脇でナナが彼の手を握りしめたまま、疲れ果てて眠っていた。椅子ではエマが丸くなって寝息を立てている。


 蓮はそっと身を起こし、窓の外を見た。

 そこには、崩壊した街ではなく、泥だらけでボロボロになりながらも、力強く笑い合い、懸命にインフラを回し続ける女性たちの姿があった。魔法に依存していた脆い群衆ではない。自らの足で立ち、互いを支え合う、強靭な「国家」の民の姿がそこにあった。


「……みんな、すごいっすね」

 蓮が目を細めて優しく微笑んだその声に、ナナがビクッと肩を揺らして目を覚ました。


「れ、蓮さん……? 蓮さんっ!!」

 ナナの叫び声にエマも飛び起き、二人は涙をボロボロと流しながら蓮の胸に飛び込んできた。


「よかった……! 本当によかった……っ!」


 蓮が目覚めたという知らせは、すぐに街中へ駆け巡った。泥だらけの女性たちは、スコップや槍を放り出し、抱き合って歓喜の涙を流した。

 王の不在という最大の危機は、結果として女たちの連帯と成長を促し、この十一万人の都市を、決して揺るがない本当の楽園へと昇華させたのだった。

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