第30話 禁断の果実
防壁の溝罠現場で、桜豪千蓮は額の汗を拭っていた。
「ふう、こんなもんっすかね。空間牽引……万物拡充っす」
ズズズッと土が盛り下がり、攻めてくる恐竜を足止めする溝が形成されていく。その近くでは、数十人の女性たちが泥だらけになりながら、蓮の魔法で処理しきれない細かな土木作業や、資材の運搬に汗を流していた。
「お疲れ様っす。みんな、泥だらけで重労働、本当に大変っすね」
蓮が労いの声をかけると、スコップを持った一人の女性が「へへっ、ポイントを稼げば美味しい配給がもらえますから!」と明るく笑った。だが、その瞬間、蓮はふと鼻をスンと鳴らした。
(あれ……? 泥の匂いに混じって、すごく甘くていい匂いがするっす)
それは明らかに古代の草花や、汗の匂いではない。現代の、しかも百貨店に並ぶような「高級香水」の香りだった。一日中泥にまみれて過酷な労働をしている彼女が、なぜそんな希少な現代遺産を身に纏っているのか。蓮は不思議に思い首を傾げたが、深く追求することはしなかった。
一方、内政・資源管理局の執務室では、局長の如月冴子が、提出された物資の在庫帳簿が記された木簡を前に、深く眉をひそめていた。
「……おかしいですね。文明遺産管理部から上がってきた嗜好品や電池の在庫数と、居住区での実際の消費量に、わずかですが無視できないズレが生じています」冴子は眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、冷たい瞳を細めた。
「一部の富裕層……街への貢献度が高いポイント長者たちの間で、正規の配給ルートを介さずに現代物資が横流しされているという『闇市』の噂。どうやら、ただの噂ではないようですね」
冴子は即座に行動を起こした。抜き打ち査察として、ソフィア・チェンが取り仕切る文明遺産管理部の巨大な倉庫へ、数人の部下を引き連れて足を踏み入れたのだ。
「ごきげんよう、冴子局長。こんな埃っぽい倉庫に、鉄の女様が直々に何のご用かしら?」
高級な椅子に深く腰掛け、妖艶な微笑みを浮かべる金髪の美女、ソフィア。
「単刀直入に聞きます。先月の帳簿、化粧品と嗜好品の在庫が合いません。劣化して廃棄したと報告されていますが、その廃棄を証明する現物はどこですか?」
「あら、やだわ。現代のデリケートな品が、この蒸し暑い恐竜時代でどれだけ早く傷むか、ご存知ないの? 使い物にならなくなったから処分しただけよ。それとも、私が着服してどこかへ横流ししたとでも?」
「ええ、疑っています。街の規律を乱し、一部の者にだけ特権を与えるような裏取引は、絶対に許しません」
笑顔のまま一歩も引かないソフィアと、冷徹な視線で射抜く冴子。鉄の女と狡猾なフィクサーが、お互いに腹の探り合いをするピリッとした緊張感が、空間を支配していた。大人の男が一人しかいない女の園特有の、静かでドロドロとした権力闘争の火種が、確実に大きくなり始めていたのだ。
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街の物理的な豊かさが向上する裏で、女性たちの果てしない欲望は、さらなる禁断の果実へと手を伸ばしていた。
街の薄暗い区画にある、質屋店主・銭場鈴の店舗の奥。そこには、正規の配給ルートから外れて大量に集められた古代の果実が山積みになっていた。
「ふふっ、順調に発酵しているわね。これで、闇市に流す最高の『商品』ができるわ」
派手な着物を着崩した鈴が、妖艶な瞳を細めて笑う。その横では、酒造メーカーの蔵人であった樽見豊果が、少し赤ら顔で大きな石の樽をかき混ぜていた。
「ええ、蓮さんの『発酵促進魔法』のおかげで、度数の高い密造酒がバッチリ仕上がってるよぉ。娯楽に飢えたポイント長者の子たちが、これに飛びつくこと間違いなしだねぇ」
彼女たちの目的は、この禁断の密造酒を裏ルートで売りさばき、街の経済を牛耳るほどの莫大な利益を得ることにあった。
その日の夜。
一日中魔法を使い、疲労困憊で自室に戻ろうとしていた蓮の腕を、物陰から豊果がひょいと引っ張った。
「れーんさぁん。今日もお疲れ様ぁ。ちょっと、こっそり私の部屋で休憩していかない?」
「おっ、豊果さん。ありがとうっす、でも俺、もうクタクタで……」
「まあまあ、そう言わずに! 実は、すっごく美味しい新しい『果実水』ができたから、一番に蓮さんに味見してほしくて。疲労回復にバツグンに効くんだから!」
豊果に強引に部屋へと連れ込まれた蓮は、差し出された木製のカップを一気に飲み干した。
「ぷはっ! ……ん? これ、果実水っていうか、すごく喉が熱く……って、うわっ!?」
ただの甘いジュースだと思って呷った液体は、豊果たちが精製した強烈な密造酒だった。異世界の修行で毒への耐性はある蓮だったが、完全に油断していた体に高濃度のアルコールが急激に回り、一瞬にして視界がグラリと揺れた。
「あ、あれ……? 足に力が……入らないっす……」
「あははっ! 蓮さん、顔真っ赤だよぉ。無防備で可愛いねぇ」
ふらつく蓮を、豊果の柔らかくふくよかな体が受け止める。そこへ、着物姿の鈴が音もなく近づき、蓮の反対側の腕に滑り込んだ。
「あらあら、私たちの王様はすっかり出来上がってしまったみたいね。疲れているんだから、今夜はこのままゆっくり休ませてあげましょう?」
「ちょ、二人とも、いい匂いがして……頭がフワフワするっす……」
抗う力も意志も失い、完全に酔っぱらった蓮は、そのまま二人の大人の女性に両脇を抱えられ、柔らかなベッドへと引きずり込まれていった。
「今夜は、私たち二人で蓮さんを独占しちゃうからねぇ……」
暗い部屋の中、アルコールの甘い香りと、柔らかな二つの肌の感触に深く溺れていく蓮。
街のインフラが安定し、生きるためのギリギリの戦いが終わったことで、十万人の女の園は「生存」から、底知れない「欲望」の渦へと沈み始めていた。物理的な豊かさの裏、水面下で蠢く、経済格差と果てしない女たちの執着。それは、血を流す恐竜との戦いよりも恐ろしく、そして甘美な、次なる波乱の幕開けを静かに予感させていた。




